第22期 #17

隣の男

 隣の男が、僕は嫌いだった。仕事もせず酒ばかり飲み、女房子供を苦労させる。そういう男を僕は無条件で嫌う。
 僕は当時ありがちな貧乏学生で、掃き溜めのようなアパートで暮らしていた。そんな僕が驚くほど、そこの人々の暮らしは貧しく、まさに生活全体が掃き溜めだった。中でもその男を、掃き溜めの腐ったごみだと思っていた。
 
 春の晴れた日、僕は申し訳程度のアパートの庭で、本を読んでいた。そこへあの男が酒臭い息で近寄ってきた。
「先生、読書ですかい」
 男は僕の隣に腰をおろした。男は僕を先生と呼ぶ。ご大層な事だ。
「ええ」男の顔も見ずに答えた。そんな僕の態度を気にする事もなく、というかそんな雰囲気をこの男がわかるはずもないが、ぼんやりと空を見上げて、突然男は話し始めた。
「俺はこう見えてもね、先生。南方に戦争に行ってた事があるんでさあ」
 僕は特に相槌を打たなかったが、男はそのまま話し続けた。
「先生、手榴弾って知ってますかい?知らねえだろうな。いや、別に馬鹿にしてるんじゃないですよ。手榴弾を知らない、いい事じゃないですかい。平和なこった。これがね、魚をとるのによく使ったですよ。船で沖に出るとね、魚がね、見えるんですよ、そこいらに。で、そこめがけて手榴弾を投げ込む。すると下で爆発して気絶した魚が浮かんでくる。ええ、先生。ほんとですぜ。でもちっと失敗すると爆発が遅すぎて魚があがらない。投げ込むのが遅いとこっちの右手が吹っ飛んじまう。まあ、ちっと難しいかもしれないですね」
 次に何を言うかと僕は内心言葉を待ったが、男はそれきり黙った。横顔を盗み見ても、酒で赤く光っているだけだった。
 男は唐突に立ち上がると、アパートに引き上げていった。
「佐藤さん」
 僕は不意に呼び止めた。赤い顔がゆっくりと振り向く。
「はい、何ですかね」
 シャツがだらしなくズボンから出て、ズボンの片方は靴下の中に入っている。
「いや、、足元、気をつけて」
「ご忠告、ありがとう」震える手で敬礼した。
 
 男はその夏に肝臓を患って死んだ。死に顔だけは、君子のように立派だった。散々苦労した女房も子供も、何だかとても大事な人を亡くしたような顔をしていた。
 僕は棺を覗き込む。
 ねえ、佐藤さん。僕はあの暖かい春の日差しの中で、手榴弾で魚釣りをする話の後、本当はこういう事を聞いてみたかったんですよ。
「その戦争で、あなた本当は、何をしたんですか?」ってね。


Copyright © 2004 長月夕子 / 編集: 短編