第22期 #16

波のない海

 清々しくも生暖かい風が舞う真夜中の砂浜に膝を抱えて寝転びながら、海を眺めていた。私が何か心に想い浮かべる度に、寄せ返す波はいっそう強くなっていった。だから何も考えないように努めた。数分後、からっぽになった心。虚ろに眺める海には、小さな波ひとつ立ってはいなかった。ガラスのような海。鏡面する満天の星々は可憐に瞬き、いつの間にか風は止み、私の薄くなった髪の毛一本すら揺らがなくなっていた。
 眠りに向かって平穏に満たされたかと思われたその刹那、ノックの音がして鏡の海に波がたち、私は眉間に皺を寄せてぱちっと目を見開いた。夕刻に陽に紅く染まる四畳半、安アパートの一室に敷いた平たい布団の上で、不眠症に悩む私は歪な天井のシミを不快な表情を浮かべてしばし見つめ、忌々しいノックの主は何者だろうと思いながら起き上がり、ドアを開けた。
 そこには男が立っていた。宅配会社の従業員のような格好をしていた。きびきびとした動作のないこの男は、一見して40歳近くにも見えるが顔に皺はなく、20代にも見えなくはない。とはいえ、興味を抱くほどのことでもなかった。男は私に裸のビデオテープを手渡すと、受け取りの印鑑も取らずにそそくさと去っていった。私は唖然とするばかりであった。部屋に戻り、しばらくその黒いテープを眺めた後、好奇心からデッキに挿入して再生ボタンを押した。
 画面には満天の星空の下、次第に穏やかに、そして最後には平らになる海。膝を抱えて砂浜に横たわる男。私がつい先ほど想いうかべていた情景が映し出された。私は目を丸くして映像に見入っていたのだが、突然ノックの音がスピーカーから流れて、ビデオが止まった。どうやら故障らしい、再生ボタンはおろか電源も入らなかった。
 私は今、少々の興奮冷めやらぬまま、仕方なく睡眠薬を三錠胃に流しこんでまた床につく。今度は何故か、よく眠れそうな気がする。


「これはぁ、遺書はないけども、事件性は低いな」
 鋭い目つきの刑事らしき中年の男が、四畳半の一室に敷かれた煎餅布団の上の腐乱しかけた死体を横目で見ながら言った。
 唐突にブゥンという軽い音がして、消えていたテレビの電源がついた。ビデオテープが勝手に再生され、その場にいた数人全員、同時にテレビの方を見て息をのんだ。
 テレビには、横たわるこの男が波のない海だか広大な湖だかに自ら走り寄って沈んでゆく映像が、やけにゆっくりと映し出されていた。



Copyright © 2004 神差計一郎 / 編集: 短編