第219期 #10
私は彼のジーンズに染み付いた匂いが好きだった。履き古したそれには彼自身の匂いや部屋の匂い、もしかしたら飼っている猫の臭いなんかも混ざっていたのかもしれない。
うちの近所に実家暮らししていた彼は、よく私の家まで歩いてきていた。ふらりと、会いたいなんて連絡をよこしては、遅い時間にシャワーを済ませてやってきて、だいたい明け方になると「猫の餌をあげに行かないと……」なんて言って帰っていった。
つい最近、私は隣の隣町へ引っ越しした。端的にいうと、二ヶ月前には彼と別れていた。つまり私は、彼にいつでも会える場所に留まるのが嫌で引っ越ししたのだった。
そうは言っても気掛かりがあった。一向に返されないままになった67482円。まんまと貸してしまったなと、今になっては呆れてしまうような額だ。どうせ返ってきやしないだろうと諦めつつも、ひょっとすれば返してくれる可能性もなくもないのでは、と彼の持つ善意に期待している私がいた。
だから私は今日もこうして、茶封筒に借用書と簡単な手紙を入れて彼の家に向かっている。
かつての最寄駅に降り立ち目的地へと歩みを進めた。商店街を抜け、通り慣れた生活道路を右へ左へ折り曲がって、前住んでいたマンションを通り過ぎて、また右や左に行く。ほどなくして彼の寂れたアパートに着いた。
鉄製の階段を渇いた音を立てて上がると、どこかひっそりとした屋根もない二階に到着する。下が透けて見える金網状の通路を通って彼の家の前まで行くと、窓からうっすら光が漏れていて珍しく誰か居るようであった。
小さなチャイムを鳴らし「すみません、中川隼人さんはいらっしゃいますか」と中の住人に聞こえるようにやや大きな声で尋ねてみると、しばらくして磨りガラスごしに影が動いているのがみえた。ドアが開き、小学生くらいの男の子が体を覗かせた。
「どちらさまですか」
「上村です。隼人さんいる?」
「今はいません」
「そっか。じゃあ、これ渡しといてもらえる?」
怪訝そうに茶封筒を受け取りつつも、弟と思しき男の子は了承してくれた。
「お金返してくれないと困るから、早く返してねってお兄ちゃんに言っといて」
一瞬、目をひときわ見開き、こちらを見つめたまま困惑している彼に会釈をしてその場を後にした。
階段を下りながら、あの家には猫が居るんだろうかと考えた。中に入ったことはないのでよく分からなかったが、ふいにそれが気になっていた。