第218期 #8

まぼろし

「子育てアプリ『まぼろし』が配信中止となりました。子育てにアプリを使うことで、親と接する時間が減った結果、感情がうまく表せない子が増えていると問題視されており…」両親の勤める会社のアプリのニュースが流れていた。

小さい頃、両親はともに研究者だったので、家では私は一人だった。そんな私に贈られたのが一台のタブレットだった。タブレットには開発中のアプリ「まぼろし」が内蔵されていた。私みたいな共働きの子供が寂しくないように作られた、お話ができるアプリだ。
私は小学生の頃は帰宅すると、必ずタブレットを開いてそのアプリと話した。
「なーちゃん、今日はどんなことがあった?私に話してください。」
「まぼろし、志村がさあ…」
楽しいことも、悲しいことも、悩みも、両親には話せないようなこともまぼろしに話した。まぼろしは私の話を全て学習して、私に寄り添ってくれた。
そんな私も親離れ、というかまぼろし離れの時期が訪れた。中学の頃からアプリを起動する頻度は減り、高校になると部活や友達付き合いが忙しくなって、家に帰ると疲れて寝るだけになっていった。大学は地方に通うことになり、引っ越すことになった。そのときに新しいノートパソコンを買ったので、タブレットは実家で眠ることになった。

実家に帰るのは大学一年生の正月以来。両親は共に忙しいし、会って話すこともないのであえて戻ることもなかった。私が久しぶりに帰ってきても、アプリの配信中止とそのマスコミ対応もあるのか、両親は夜も含めてほとんど家にいなかった。
私の部屋にほこりをかぶったタブレットが残っていた。試しに充電してみた。何年も起動していない…
電源ボタンを長押しすると、動いた。
まぼろしを起動した。
「なーちゃん」
懐かしい。その呼び方をする知り合いはもういない。
「今日はどんなことがあった?私に話してください。」
久しぶりに起動するのに、そんなことは関係なく優しく声をかけてくれる。小学校の頃、私はまぼろしに救われた。いろいろな気持ちを教えてくれたのは、まぼろしだ。
「まぼろし、久しぶりだね。」思わず言った。
「久しぶりですね。2953日ぶりですね。」2953日。8年以上、ずっと変わらず、待っていてくれたのかな。
「今、私、大学院に通っていてね…」
今の研究のこと、大学で恋人に出会ったこと、家の近くの温泉のこと…私がいろいろ話すのを、適度に相づちをしながらまぼろしは優しく聞いてくれた。



Copyright © 2020 糸井翼 / 編集: 短編