第218期 #5

うちの猫は最近メシを食わない

 車を走らせていると、警官に呼び止められ取調室に連れて行かれた。
「この書類を覚えてますか。奥さんが届けてくれた」
「妻は死んだ」
「いいえ。生きてますよ」
「…………」
「あなたは長い間特殊な薬物を摂取してきた。あなたが本当にそう思っているのか、今後も私たちは注意深く見ていきますよ」
 私はすぐに解放された。
 確かに私は妻を殺したのに。別居後、妻の梓萱が暮らしていたマンションに行けば事実がはっきりする。
 私は妻のマンションに乗り付けた。今夜はとても冷える。かじかむ手で妻の部屋のドアを開けた。
 妻は湯気立つ蛋花汤を食べいていた。
「おまえは在中国日本領事館から機密情報を盗んだ」
「あなたが盗んだのよ。そして私が工作部に届けた。もう心配ない」
「ありえない。おれは領事館に出向した日本の自衛官だ」
「私の夫は中国人よ」
 何もかも怪しかった。なぜ「あなたは中国人だ」と言わないのか。それに、こんなに寒い夜になぜ私に蛋花汤を勧めないのか。
 かかかりつけの精神科医から電話が入った。私は妻のマンションを出た。
「君はずっと黙秘した。やむなく当局は薬剤を投与し自白させた。その影響で君は事実を忘れたり取り違えたりするようになった」
「私は決して国を裏切らない。なぜ取調べを受ける」
「君は両国間のWスパイだった」
 私が日本人でも中国人でも、中国工作部が私を拷問することはある。
「私は妻を殺した」
「そう思い込んでいるだけだ。さっき会って話しただろう」
 なぜこいつがついさっきの私の行動を知っているのか。本当に医者なのか。
「新しい薬を取り寄せた。今よりずっと気分がよくなるはずだ。今後は必ずこれを服用してくれ」
 私は医院を出て再び車に乗り込んだ。妻は機密を盗み敵国に手渡した。激しい怒りが込み上げてきた。妻を殺したと思ったのに。だがこれで終わりじゃない。彼女を殺すまでおれは何度でもやる。おれは日本人か中国人だ。ここは上海か東京だ。私はふと膝の上に飼猫が乗った感触を感じた。そうだ、猫に餌をやらなきゃ。この前餌をやったのはいつだったか。どうしても思い出せなかった。愛猫は老衰のため死んだ。だがこの感触は現実だ。
「あと少し待ってくれ。用事を済ませたら家に帰って食事にしよう」
 車から見る景色に中国語の看板が目立つ。最近の東京には中国語が多すぎる。
 私は妻の住む世田谷だと思う方向に向けアクセルを踏み込んだ。



Copyright © 2020 朝野十字 / 編集: 短編