第216期 #8

慈愛って

「飯食いに行こ〜」
事務所のドアを開けたら、掃除をしている助手くんと目が合った。
「今出て行ったんですけど、すれ違いませんでした?」
「いや」
「すぐ戻るって言ってたので、座って待っててください」
そう言われて俺は、ソファーに座った。

この部屋の中は青が多い。
その中の象徴ともいえるのが、応接セットのテーブルだ。
透明アクリルの天板の下には透明なボックスが付いている。ボックスの中には青い透明な石がジャラジャラと入っていた。あまりの透明度にアクリルの石なんじゃないかと思っていたことがあるくらいだ。
テーブルの石は全部サファイアなんだそう。名前だけは知っているその石の価値は全然わからないけど、有名な石だし結構いい値段がするんだろうな、って思う。
「少しずつ買い集めていらっしゃるんですよ」と助手くんが言っていた。
その石をジャラジャラとテーブルの中に集めているのには理由があるという。
不誠実な者が石に触れると濁ってしまうという言い伝えがあるらしい。
人を愛し、誠実に接しなさいという戒めらしいですけど、癒しのブルーなんでしょうねって助手くんは笑っていた。

助手になってまだ5年程度の彼の方が、幼馴染の俺よりずっと彼女のことを知っている気がした。
実際、今の彼女のことをよく知っているのは俺より彼なのは間違いないが、幼馴染という肩書は何のためにあるのだろう。
彼女がここを出て行ったのは、大学に進学するときだ。もう30年ぐらい前のことになる。
振り返れば、大学卒業のちょっと前ぐらいから、会ってない。お互い社会人になってからは電話もほとんどしていない。
それだけの空白の時間があれば他人に戻るのかもしれない。

「ただいま〜」と彼女が帰って来た。
「よぅ」と声をかけると、うんざりした顔でこちらを見る。
「飯行かね?」
「ふたりで行ってこれば」
面倒くさいを丸出しにして言いながら、デスクに座った。
「竜二くん、お茶貰える?」
「は〜い」と言って助手くんがキッチンに消えていく。
助手くんがグラスに入ったお茶を2つ持って出てきた。ひとつは彼女に、もうひとつは俺の目の前に置く。
助手くんに「ドンマイです」ってそっと耳打ちされた。
俺は大きく息を吐いた。
「出前にする?」
「好きにしたらいいんじゃない?」
椅子にもたれて書類を見たままの彼女が言う。
向かいに座った助手くんを見たら、苦笑いを浮かべていた。
テーブルの中のたくさんの青い石を見つめる。
慈愛ってナニ?



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