第215期 #12

カバネマイ

 蜩の心細い声を聞きながら、私はあてもなく歩いていた。
 西の空に沈む夕陽を背中に浴びているせいか、道の先へと伸びた影が不気味な程に長い。
 その影を追うように歩を進めていると、いつの間にか町外れの墓地まで来てしまっていた。線香の匂いが微かに漂い、墓石や卒塔婆が影絵となって立ち並んでいる。
 そのとき、とある墓の上に何かが見えた。
 陽光を鋭く反射する真新しい墓の上で、何やら黒いものがヒラヒラと蠢いているのだ。蝶でも蛾でもない。不規則に動く姿が悍ましく、何とも気持ちが悪かった。
 私は阿呆のように、その不可思議な物体を見つめていた。
「……カバネマイですな」
 突然の声にギョッとして振り向くと、袈裟を着た住職らしき老人が後ろに立っていた。白濁した瞳でこちらを見つめ、意味ありげな微笑を浮かべている。
「新しい仏が墓に入ると、ああやってその上を飛ぶのですよ」
「蟲なのですか?」
 尋ねながら、内心では「そんな馬鹿な話があるものか」と毒づく。
「さて……蟲なのか妖なのか、ホホ、確かなことは拙僧にも解りません」
 数珠をじゃらりと鳴らして、住職は口の中でブツブツと念仏を唱え始めた。所在ない思いで、私が黒い舞踊を見やっていると、
「……最近、お身内にご不幸でもございましたか?」
 出し抜けに住職が言った。住職の語るところによれば、アレは死に触れた人間だけが稀に知覚出来るものらしい。
 不躾な物言いに腹が立った私は、ついぶっきらぼうな口調で、
「嫁の妹が、少し前に」
「成程」
 住職は短く呟くと、再び念仏を唱え始めた。
 その様に忌々しさを覚えて、挨拶もせずに私はその場を後にした。
 一番星の輝きだした群青の空の下を、物も言わずに一路我が家へと向かう。
 道すがら、夕餉時の家々からは暖かな明かりや、団欒の笑い声が漏れ聞こえていた。
 無性に思い出されるのは、妻の顔。妻の掌の感触、妻のうなじの匂い、妻の歌い声……。
 我が家に着くと、玄関を開けてすぐに妻の名を呼んだ。
 呼びながらドタドタと廊下を進み、居間の畳の上に腰を下ろして、煙草に火をつけた。
 黄昏に沈む家の中は静かで、煙草の燃える音だけがやけに大きく聞こえる。
 ふと、目の前を黒い何かが横切った。ヒラヒラと舞うそれを視線で追うと、それは寝室の戸の僅かな隙間から飛び出してきていた。
 私はゆるゆると紫煙を吐き出し、フッと笑った。
 そんな馬鹿な話があるものか。



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