第212期 #3

風待ち鷄

 行く手を遮るブナの梢を慎重に手で払いながら藪漕ぎを続けること二時間、不意に木々が途絶え、一気に視界が開けた。なだらかな稜線を青い芝生が囲み、空には薄いガスのような雲が幾つも浮かんでいた。
 山の頂きに、目指す教会の赤煉瓦が見えた。ここまで来れば残りあと僅かだ。駆けるように稜線を登った。
 頂上からの景観は圧巻だった。広大な関東平野が陽の光の下にくっきりと輪郭を浮かび上がらせ、そのはるか彼方には青く輝く帯のような太平洋まで見渡せた。
 教会は長年の風雨にすっかり痛んでしまっているようだった。赤煉瓦はあちこちひび割れ、亀裂からは名も知らぬ草花が我がもの顔に根を生やしている。
 教会の屋根には、青銅板をくり抜いて造られたものらしき、一羽の風見鶏が飾られていた。可愛らしい小さなトサカと豊かな尾羽が美しいカーブを描き、影絵のようなシルエットを浮かび上がらせている。
 役場で貰ったパンフレットを開く。簡易的な地形図が描かれた紙の端に、教会の写真と紹介文が載っていた。
 ──教会の建築は十六世紀末期。スペインから渡来した一人の宣教師が私財を投じ建築を依頼したとされる。宣教師は数々の迫害や弾圧を受けながらも、この地で生涯を伝道のために捧げた。屋根の上には風見鶏が飾られており、宣教師が故郷のバスク地方から持ち寄ったものだと伝えられる。教会内部には翼を広げる鳳、フェニックスのモザイク画が飾られているが、床板の腐食が著しいため見学は不可、と書かれていた。
 いつしか風が出てきていた。
 風見鶏がキイキイと喘ぐような金属音を軋ませたが、微かに風に揺られただけで、ほとんど動かなかった。あるいは基部の回転盤が錆びついて動けないのかもしれない。風見鶏はまっすぐに海の方角を向いていた。
 空は群青から薄紅や紫へと色を変え、辺りは黄昏の刻限を迎えようとしていた。
 今から下山するのは少々心許ない。幸い、ザックの中にはシュラフも充分な食料も揃っている。今夜はここで野宿だな、と心を定めた。

 その夜、不思議な夢を見た。
 夢の中で風見鶏は巨大な翼を持つ鳳となって、自由に空を飛んでいた。鳳は時折翼をぐんと力強く羽ばたかせ、自在に風を操った。
 風が一段と強くなった。鳳は嬉しそうに喉を震わせ、鳴き声をひとつ上げた。
 そのまなざしの先に白波を立てる海原がどこまでも広がっていた。それはやがて懐かしい故郷へと繋がる、果てしない海だった。



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