第211期全作品一覧

# 題名 作者 文字数
1 ひとり暮らし たなかなつみ 999
2 名探偵朝野十字の理由なき反抗 朝野十字 1000
3 鏡の向こう側 糸井翼 1000
4 春のひぐらし テックスロー 996
5 愛着 ウワノソラ。 930
6 永遠の絆 わがまま娘 997
7 雲に住む魚たち きえたたかはし 427
8 静心なく ゼス崩壊 998
9 古き友の形 えぬじぃ 1000

#1

ひとり暮らし

 アンケート調査で家族の人数を聞かれるたびに、「ひとり暮らし」だの「同居家族はいない」だのにチェックをする。嘘をついているわけではないし、それ自体は事実なのだけれども、私たちは別段ひとりきりで暮らしているわけではなく、この部屋のなかには自分ひとりしかいないわけでもない。その件に関しては、表だっては誰ひとりとして口にしないことも、皆がみな「ひとり暮らし」を標榜していることも知っている。はい、ずっとひとりで暮らしています。同居家族はおりません。
 でも、そんな表面上の言葉はまったくの嘘だということも、私たちは十二分に知っているし、一度でもひとり暮らしをしたことがある人なら、やはり表面上は否定しながらも、胸のうちではこっそりと、部屋のなかにずっとひとりきりって、そんなわけないじゃん、ばかなの? と、そこまではっきりとした言葉ではないとしても、そう思っているということも疑うことはない。たとえ表面上は穏やかに、もうひとり暮らしに慣れきっちゃったもんだから、誰かと一緒に暮らすことなんか考えられない、などと口にして微笑んでいるとしても。
 だって、そこの机の上に置いてあるその小物。そんなふうに置いた記憶はないでしょ? 自分が置いたはずの位置から少しずれているでしょ? そのスペースはそんなにごみごみしていなかったでしょ?
 いつもと同じように部屋のなかを動いているのに、不意に身体に触ってきたりぶつかったりしてくるのは誰?
 もちろん、それとはっきりと目に見えるようなことはない。そこにいることはわかりきっているのに、私たちの目で追うことは絶対にできない。でも、じゃあ、どうして掃除をしている私の背中に触れてくるものがあるの。どうしてただ移動しているだけの私の足や腰があちらこちらにぶつかるの。
 そこには何もないはずなのに。
 だから、ね、いるのよ、そこに。絶対にいる。私たちはひとりきりで暮らしてなんかいない。でも、目に見えない何ものかと一緒に暮らしているなんて口にしたら最後、正気を疑われるのが落ち。最悪、もう「ひとり暮らし」はできなくなるかもね。
 だから私たちはそんなことは決して口にしない。ただ笑う。うんうん、そう、もうひとり暮らしも長いから、そこに誰かがいる感覚とか忘れちゃったよね。ずっとひとりきりでいると、人の目なんか全然気にしなくなるよね。
 でも、じゃあ、そこにいるのがヒトではなかったら?


#2

名探偵朝野十字の理由なき反抗

 長身痩身の神経質そうな若者はデスクの前に立ったまま言った。
「あなたは名探偵であると確かな筋から情報を得てます」
「さよう」
 ここは社長室で、若者は飛ぶ鳥を落とすIT企業の社長で、マスコミは日本のイーロン・マスクだと囃し立てている。ジャンボジェット機に人工知能を搭載し、機体に神経を張り巡らせ、ディープラーニングで事故になる前に故障を予測する大規模なシステムを作り上げた。
 営業に来た先輩は、天知茂のマネのつもりなのか、平べったい眉間にシワを寄せようと努力しつつ重々しく返事した。
「私が名探偵です」
 私が変なおじさんですの言い間違いだろう。
「見てもらいたいものがあります」
 私たちは研究室に移動した。そこには中年女性と13歳くらいの少年がいた。
「精神科医の星先生、そしてこちらは――」
 私は思わず手で口を抑え小さく叫んだ。
「どうした西野さん」
「この子――」
 あまりに人間そっくりに作られたアンドロイドだと気づくなり、私は不気味の谷を渡ってしまったのだ。社長によると、これはジャンボジェット機に搭載した人工知能のインターフェースで、飛行機の状態を人間らしい表情や仕草で表現するという。
「ディープラーニングの推論の因果関係を対人的に可視化するためです」
 天才社長の言葉は私の理解力を超えていた。
 精神科医が優しくそれに話しかけた。
「どうして明日離陸したくないの?」
「嫌なんだ」
「あなたは人間を助けるよう作られてる。離陸したくない理由は、どこかに故障があるから? それはどこ?」
「もういい子のフリはうんざりだ。みんな本当のぼくを知らない、大人はわかってくれない」
 先輩が割って入った。
「私から3つ質問しよう。君は猫を知ってるか。猫は人間か。猫を殺したらどんな気持ちがすると思う?」
「知らない。人間じゃない。スカッとするだろうね」
 先輩は社長を振り返った。
「貨物室を調べてみてください。猫か何かが紛れ込んで閉じ込められているのだろう。人間を守れとプログラムされているが、猫については明示的な命令を受けてない。しかし乗客の行動や会話から学習して、猫を無視してよい要素だと結論できずにいるのです」
 事件は解決し、我社は保守契約を勝ち取った。
「まったく、最近の若い奴らときたら――」
 帰りのエレベーターで、先輩は文脈のつながらない意味不明な言葉をつぶやくと、エレベーター内の鏡に向かい眉間にシワを寄せる練習を始めた。


#3

鏡の向こう側

大学入学のオリエンテーションが終わって、家に戻った。連絡先を交換した人から食事の誘いが早速来ていた。「明日のお昼集まろ!」人からメッセージが来るの、何年ぶりだろう。飛び上がって喜びたいところだけど、とりあえず風呂に入って、それから返信だ。
曇っている風呂の鏡に何気なくシャワーをあてる。自分の顔を見ると、いつの間にか大人になっていたらしいことに気づかされる。風呂に浸かると、どっと疲れが出た。自分が思っていた以上に全身に変な力が入っていたんだ。眠いわ。温かくなった手のひらで目を覆うと、気が遠くなって…

口に風呂の水が入って、溺れかけて目が覚めた。危ない。ふと鏡を見ると、シャワーの水をかけた部分に中学生の私の顔が映っている。涙目の中学生の私は私と目が合うと、恐怖の混じった驚きの表情を浮かべた。あ、あの日だ。私は気づいたら叫んでいた。
「諦めないで!あんたの苦しみは今日この日のためにあったんだって絶対思えるから!」
思いと一緒に涙が溢れた。でも、鏡の私の涙とは違うんだ。

中学生の頃、変な夢を見た。いや、夢だと思っていた。
いじめにあっていた私は、辛い日に風呂場で泣くのが日課となっていた。シャワーを浴びてしまえば泣いてもごまかせるから。長い時間風呂に入るせいで、のぼせてしまって、意識朦朧夢うつつ、なんてときも結構あった。このまま目覚めなければ良いのに、そう思いながら。まさに夢うつつ、鏡を見ると、全然知らない大人の女性が鏡に映っていた。鏡の女性は何か叫んでいたが、声はこちらの世界には聞こえない。誰だかわからないけど、どこかで会ったことがあるような感じがした。呆然としているうちに、鏡には元の涙目の自分の顔となった。
私が小さい頃死んでしまったお母さんの幽霊だったんじゃないか、そのときはそう思った。毎日私が泣いてばかりいるから心配して出てきたのかな。そう思うと、さらに泣けてきた。たった一人でも、既に死んでいたとしても、私のことを思ってくれる人がいるなら、その人のために頑張らなくちゃ…鏡の向こう側で見ている人のために、せめて強く生きていこう。心の中で強く誓って、またシャワーを浴びた。

鏡には中学生の私はもう消え、大学生の私がいる。…いや、待って、あのときの私。動揺していたけど、大学生の私をお母さんだと思うなんて。そんな老けてないわ。自分の顔を見て思わず笑った。自分の笑顔を久しぶりに見たかもしれない。


#4

春のひぐらし

 時折涼やかな風が吹く。あまり有名ではないがちょっとした石庭があるその寺は休日の午後三時だというのに詩枝子の他には誰もいなかった。ちょっとラッキーと思うが、人がいても気になるのは最初の数分だけなので、人がいようがいまいが特に大きな問題ではないな、と思い直す。しふしふしふしふ……と音がする。
 寺はJRの駅から車でしか訪れることができない場所にある。このあたりの青空は詩枝子が住んでいるアパートから見えるそれと比べて二段階くらい色素が薄い。詩枝子はベージュのプリーツスカートを膝の裏から支え、縁側に三角座りをして腰を下ろすと、心の服を脱いだような気持ちで石庭に対峙する。心を裸にして枯山水を見たり、目を閉じたりしていると、詩枝子の右隣、正面を向いている詩枝子の視界にぎりぎり入らないくらいのところで、カップルとおぼしき男女がなにやら話しながら腰を下ろす。男の声はとても低く、しかし、この地方のアクセントなのだろう、思いも寄らぬ抑揚と節回しがあり、ごつごつとしているが丸みがある。そこに軽く絡みつく蔦のように女の声が聞こえる。季節は春だった。ここは混浴なんだよなあ、と詩枝子は石庭に向かって軽く足首を回す。ぽつぽつと話をしていた男女は、眠りにつくようにどちらからともなくしゃべらなくなって、寺にはまた静けさが訪れる。
 男の方は何事かをつぶやき立ち上がると、女を残して消えてしまう。詩枝子はちょうどそのとき口紅の色を少し明るくしようか、と考えていた。詩枝子の考えは形を取るとすぐに静寂の波に砕かれ、石庭の砂利のひとつに形を変える。その合間にどこからか風が吹き、詩枝子の頬を少し冷たくくすぐる。ここでは湯あたりすることはないな、と詩枝子は思う。しふしふしふしふ……と音がした。
 帰ってきた男につれられて女が席を立つ。その間に新たに二人か、三人、この石庭に訪れていたが、詩枝子は気付いてすらいなかった。答えのない考えを巡らし、頭の凝りがすっかりほぐれたところで詩枝子は寺を出る、その前に雪隠を拝借した。しばらくして、落とし紙で臀部に触れると静寂の中に、聞き覚えのあるしふしふという音がし、詩枝子ははっとした。ぱっと障子に飛び散る血のように頭に広がった羞恥はしかし、静寂に砕かれて石庭の砂利の一つになり、詩枝子に凪いだ無心が訪れる。季節外れの蝉の声。しふしふしふしふ……。
 遠くから菜の花のにおいがする。


#5

愛着

 なんだろな、これ。物に感じる特異な感情というか、感覚というか。
 私はいただき物の、ハーブティーを淹れながら浮ついた頭で考えていた。

 小夜ちゃんが言っていた、「何選んだらいいかわからんかったから、こちゃこちゃした感じになっちゃった」という台詞を思い出す。
 誕生日プレゼントだと手渡された紙袋の中には、淡い春らしい花の飾りが目を惹くラッピングに包まれて、小さな可愛らしいものたちが福袋状態で入っていた。中身は入浴剤がいくつかと、美容パックと、ハーブティーと、クマの食器用スポンジと……。

 そこで、「ああ、あるある」と思った。この手法は私がプレゼントを選ぶのに迷って取る方法と同じだなと。相手の趣向がわからなくなると、無難な物ばかりを多数寄せ集めてしまいがちという、そんな類の。


「ねぇ、これ淹れるのに3分も掛かるよ。紅茶かと思ったら3分も掛かるってことは、これ紅茶じゃないね。これハーブティーだね」

 側に居合わせた夫にどうだっていいような、独り言みたいなことを言う。どうだっていいことなので、夫は「ああ……」と聞き流している。大して相手にしてくれなかったことなど私は気にも留めない。
 さて、この『昼下がりのレモンハーブティー』はどんな味かな。ティーパックから浸み出すまでの3分間、心なしかそわそわしつつ待っていた。

 はぁ……、こんなハーブティー如きでなんでこうも忙しいんだろ。本来なら、ハーブティーって気持ちを落ち着かせる飲み物なんじゃないの? 馬鹿みたいだな、と私自身に呆れてしまう。
 たった3分。その時間が私をじらつかせている。待っている間、微かに優しい何かのハーブの香りが漂っていた。


 その後、ちゃんと出来上がったハーブティーの香りを堪能すると共に、啜った。ふんわり口の中で広がるレモンやハーブが混じったものを味わいながら、そういえば、あの子はいい香りの物が好きで色々持ってたなとか考えてみたりする。
 そうか。だからあの詰め合わせには、いい匂いのものと可愛い物がひしめき合っていたんだなと、勝手に納得した。

 どれもが単なる消耗品には違いないとしても、小夜ちゃんが選んでくれたということが、私にとって何らかの特別な要素として加点されているというのは事実だった。


#6

永遠の絆

なんとなくひとりでいることが多い。やはり異国の者だからなのか、避けられているわけではないが、どうも輪の中に入っていくのに抵抗を感じる。
そんな時は、無意識に片方だけのピアスに手が伸びる。
いつも一緒だ。
そう言ってくれた姫様の声が、耳元で聞こえる気がする。

この国は徹底して他の国との交流を行っていない。完全に交流を断っているということはないのだろうが、特定の人以外、他国からの入国はかなり厳しく管理されている。通常は、他国からの入国者は即刻処罰される。他国からの商人なども見かけたことはない。
国から出ていくことも許されていない。貧富の差が激しいせいか、脱国者はいるようで、その場合の処罰は家族に下される。

そんな封鎖している国に入れたのは、当時使えていた姫様が迷子になったせいだ。
もう10年くらい前になる。この国に姫様がいると分かった陛下は、引き渡しを要求したのだが、姫様を引き渡す条件として、生贄を差し出せという書簡が届いた。
当初の生贄は私ではなかったのだが、この国の殿下が私を引き留めたことで、私がここに残ることになった。
姫様がこの国を出る前夜、私の手を握って何度も何度も謝られたのを、今でも覚えている。私の手が砕けるのではないかと思うほど力強く握られて、ずっと泣いていらした。
この国に残したことで、私の身が危ないのではないかとずっとそればかり心配されていた。
だから、何かあったときにと姫様は私に自分の耳のピアスを片方だけ、私につけてくださった。
いつも一緒だ、と。ずっと守っているから、と。
あまりに遠く離れた地で、姫様のお力がここまで届くとは思えないのに、それでも最後にこのピアスに口づけをして力を込めて行かれた。
それだけ大切にされていたのだと、涙が溢れた。

今この国で、私は殿下に使えている。
異国の者と蔑まれることもなく、命を奪われることもなく、ここでこうやって生きていれるのは、まぎれもなく殿下のおかげだ。
私はいつも主に恵まれている。

それでも寂しくなる時はあるのだ。
今でも姫様の耳に片方だけのダイヤのピアスが残っているのかはわからない。
でも、姫様と私とを、祖国と私とを繋ぐものはこのピアスしかない。
名前を呼ばれた気がして振り返ると、遠くに殿下が不機嫌そうに立っていた。
きっと何度も呼ばれたのに違いない。
私のせいなのだろう。なんとなく性格が姫様に似てきているような気がする。
そう思と笑みがこぼれた。


#7

雲に住む魚たち

ベランダに机を置いた。ここは五階だから机に座ると柵の向こうに綺麗な青空が見える。ここから見える住宅たちはみな平等に太陽に照らされている。

あなたは5階のベランダに机を置いたことがないだろうから春の日差しを浴び、柔らかくも涼しい風に吹かれながら文章を書く経験というものをしたことが無いだろう。狭い部屋の中でラップトップを広げるのとは全く異なる行為だ。解き放たれて、自由で、どこか寂しく、少し怖い。

思えば僕は自分を何かにつなぎ止めておくように文を書いてきた。部屋で作られる文は僕を過去へと連れてゆく。ベランダで書くとき今が濃くなり私は明日と繋がることが出来る。

トンボ鉛筆を風が撫でる。ルーズリーフの端が風邪で揺れる。黒鉛がなぞった文字の川を日の光たちが泳ぐ。ここには雲を泳ぐ魚の物語が住む。

落胆せずに聞いて欲しい。僕は今布団で寝ながらこの文章をスマホ書いている。しかし正しい呼吸でベランダの風を感じ、そこに住む魚たちと話した。あなたはどこでペンを持つのかしら。


#8

静心なく

──唐衣きつつなれにしつましあれば
チョークが黒板に白線を描き、端正な筆跡で和歌が綴られていく。3限目、古文の授業。担当は小西。猫背でメガネで四十路すぎの、どこにでもいる高校の男性教員だ。
教室の窓の外には雲一つない空が広がり、校舎を囲む金網の向こうに、満開の桜並木が見える。
一方で、俺の机の上には分厚い紙の束。古文の問題集ではなく、昨夜塾で出された三角関数についての課題だ。俺はいそいそと設問にペンを走らせる。大学受験までもう一年を切っている。俺に残された時間は少ない。

──はるばるきぬる旅をしぞ思ふ
内職にいそしむ俺をよそに、授業は淡々と進行していく。
小西には申し訳ないが、俺がこの授業から学ぶことはなにもない。とっくに塾で習ったことばかりだから。塾講師が言うには、受験とは有限の時間との闘い、なのだそうだ。俺もその通りだと思う。

ようやく課題が一区切りついて、ふうと顔を上げた俺の目の前に、小西が立っていた。
「うわっ」
思わず悲鳴を上げてしまう。課題に夢中で小西のことに全く気付かなかった。
「川瀬君、一つ問題を出してもいいかい?」
小西はあくまで穏やかな口調を崩さず、それが逆に不気味に思える。
「“ひさかたの光のどけき春の日に”、さて、下の句は?」
えらく唐突な質問に頭が混乱する。質問の意図が掴めない。そもそも今日は百人一首をやる日だっけ?
でも、答えはすぐ分かった。先週、塾で解いたばかりの問題だったから。
「ええと、“静心なく花の散るらむ”、ですか?」
「うん。正解」
小西が頷く。
考えてみれば、小西がわざわざ生徒に質問するなんて滅多にないことだ。いつもはおとなしく板書しているだけなのに。
今日に限って、なぜ?
「川瀬君、内職も結構だけどね。高校生活は短い。本当にあっという間だから。大切に、楽しく、ね?」
小西が小さく笑う。
こいつが笑うの、初めて見た気がする。小西は俺の回答に満足したのか、くるりと向きを変え、ゆっくりと教壇へ戻っていく。小西の背中が少しずつ遠ざかる。その後ろ姿はどこか万葉歌人のように優雅で、少し儚くて、俺はなぜだか胸が締めつけられる。

机の上には、相変わらずの課題の山。
脳裏に、受験戦争はもう始まってるんだぞ、と脅すように生徒を睨む塾講師の姿が重なる。
あれ? 静心なくって、どういう意味だっけ?
うまく思い出せない。
問うように外を眺めると、満開の桜並木から、ざあと花びらが舞い散るのが見えた。


#9

古き友の形

 昔はビデオ予約もできない自分の親を笑ったが、いざ自分が親になると同じ立場だとに気づかされた。
「お父さんはアプリほとんど入れてないの?」
 まだ中学生の息子からそう言われても黙って頷くだけ。
 SNSの流行初期に、俺の精神は時代に追いつくことを諦めてしまった。
「カズヤはいろいろやってるのか。個人情報とか大丈夫か?」
「平気。だいたい繋がり浅いから、顔と名前くらいしか知らない人がほとんどだし」
 俺からすると、顔と名前を知ってれば相当深い関係だと思うのだが。
「……待て。それが浅いなら、深い繋がりだとどこまで知られてるんだ」
「ロケーションとかバイタルとか。そこまで深いのは五人だけど」
「ロケーションってGPS位置情報か? じゃあ自宅も知られてるのか」
「友達だったらそれくらい普通でしょ」
「たしかに……。バイタルってのは?」
「今ご飯食べてるなーとか、もう寝たなーとかわかるよ。相手の心拍数とか血糖値とかからで」
「おいおい、晩飯のカロリーもか?」
 感じた薄気味悪さを振り払うように茶化すと、息子は真面目な顔で頷いた。
「そこまで繋がってる親友は一人しかいないけどね」
 その言葉の意味は、数か月後に思い知らされることになった。
 俺は腰をひどく痛め、まともに立つことさえできなくなった。妻と息子は遠方の高校の見学会に泊まりで行っているときにこの間の悪さだ。
 妻にメッセージを送ってもガンバレとしか返ってこない。毒づきながらふて寝をしようとしたそのとき、家のチャイムが鳴った。
「初めまして。カズヤ君の友人のアキトです。困っていると聞いて来ました」
 普通は断るところだが、今回はそんな余裕がない。ありがたく甘えることにした。
 ソファに横になったままで、掃除や料理をしてくれる少年に礼を述べる。
「すまないね。初対面なのに」
「初対面だなんて。カズヤ君の父親なら、僕の父親も同然ですよ」
 古風なお世辞を言うと笑ったが、しばらくしてお世辞ではないことに気づいた。
 俺が何も言わずとも、作ってもらった料理は味付けまで俺好み。部屋の掃除もまったく迷わず、我が家のどこになにがあるのか完全に覚えているように動く。
 こいつだ。息子とすべての情報を繋げていた親友は、こいつだったのだ。
 注意して観察すれば、鼻歌や歩き方の癖まで息子と一緒なのだ。
『友情とは二つの肉体に宿る一つの魂』
 そんな古代ギリシャの格言を、痛みと共に確かに感じていた。


編集: 短編