第21期 #1

月光幻想

 古い時代の瀟洒なアパートメントが取り壊されようとしていた。建造物的美観より建造物的安全性が優先されるのは、宿命である。細かい雨が、僕のヘルメットを伝い、鼻の頭に滴となって落ちた。作業着は先より一段階濃い色に変色しつつある。
 すべてがねずみ色に沈んでいる。アパートメントに降り注いでいるものは、はたして雨だけだろうか。目を閉じると雨の音がヘルメットの下で拡張され、そのうちにそれを音だと捉えているのが難しくなっていく。
 
 満ちた月の光がコンクリートの階段に、深い陰影をつくる。
階段を上る靴音が、かつかつと大げさなほど建物全体に響く。
女の幻がそこにいる。僕は立ち止まる。女は動きのない目でじっと僕を見る。あるいは見ていない。
凍りついてしまいそうな青白い肌に触れてみようとする。
僕の手が女の体に、濃い影を落とす。
その肌は人間の体温を帯びていて、僕を少し驚かす。
滑らかな体を月の光がすべり、女と僕とコンクリートの階段の判別を、危うくさせる。
女の曲線に応じて、青い影が素肌の上で幾何学に踊る。僕はその影の跡をたどるように、慎重に何度も同じ場所に触れる。女は思いがけない熱い温度で、僕を受け入れる。そして海の底の目の無い魚のように、深く暗く静かな吐息を零す。
月光の隙間に、僕が内側から壊れていく音が聞こえてくる。その音はうねりとなって、僕の脳を侵食していく。反響が反響し、増幅されていく音。音が僕を壊しているのかもしれない。触れ合っているところから急速に熱が奪われていく。女を見る。その目は月の光でいっぱいで何も無い。僕は耳を押さえる。そんなことしても無駄なのだ。音は僕の中で僕を反芻しているのだから。
 
 僕は目を開く。瓦礫の山が広がっている。パワーショベルが絶え間なく壁を砕いていた。コンクリートが崩れ落ちる。
 そこにはもう月光も無く階段も無く、女もいない。


Copyright © 2004 長月夕子 / 編集: 短編