第205期 #6

死んでいった者たちへ

買い置きの発泡酒はいつも通り淡白で、どこか他人行儀な味がした。仕事を終え帰宅してからのこの一杯が半ば日課のようになっている。別にアルコール依存症ではないはずだが、テレビにもSNSにも興味を持てないわたしにとって、この瞬間が一種の精神安定剤になっていることは確かだ。
ソファに腰かけてスマホを起動する。明かりも点けていない夜のリビングに電子の光が灯る。わたしはアイコンをタップしてフォルダを開く。中には大量のテキストファイルが陳列されている。

都内の大学を出て社会の一員となってからほどなく、わたしは物語を書くようになった。通勤途中や自宅のアパートでくつろいでいるふとした瞬間。不意に脳裏をよぎった物語をわたしはここに書き留めるようにしている。
それはどこかで聞いたようなさすらいの旅人の冒険譚であったり、愚にもつかない恋物語だったり。そんなたわいない話をわたしは紡ぎ続けている。物書きを志している訳でもなかったが、在りもしない物語の創作は不思議とわたしの心を癒した。
そしてその物語は決して完結することがない。電車が駅に着く、忘れていた用事を思い出す。何かしらの合図でわたしの空想は中断され、想像の翼は羽を休ませる。まるで最初からそう決められていたように。

ファイルの中にはそうして忘れ去られ、朽ち果てた空想の残骸が幾つも横たわっている。
ここは墓場だ。
誰に読ませるでもなく、ただ紡がれ続ける物語たちの。
時々、これは一種の自傷行為ではないかと自問自答することがある。読む者のない未完成の物語たち。どこにも投稿されず、日の目を見ることなく死にゆく言葉の破片たち。
それらをわたしはじっと見守る。

画面の上では無数の言葉の群れが列を成し、電子の光を放ちながら、リビングの空間を淡く照らしている。わたしはそれを見つめながら言い知れぬ感情を抱いていた。それは安らぎとも恐れとも判別の付かないものだった。

ソファの背もたれに体を預け、小さく息を吐いた。
どこか遠くで犬の鳴き声がする。壁時計が正確に時を刻む。朝方閉め忘れた窓からは黴くさい夜の匂いが運ばれてくる。わたしはもう一度発泡酒を口にする。
なぜかスマホの画面から目を離すことができないでいた。胸を打つこの感情を、わたしはやはり判別できない。

空想の墓場から、死んでいった破片たちが、死んでいった物語たちが、慟哭するような光を放つ。
わたしは祈るように、その光を見つめ続けている。



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