第203期 #3
くすんだ色の草が俯せになった私の頬を撫でた。吸い込んだ空気は湿って、潮の香りがした。随分長い夢を見ていたようだった。起き上がろうとするけれど、節々が錆びた機械のようだった。
苦労の末に立ち上がった私は目の前に荒涼とした海原を見た。吹きつける風と、水平線から流れて来る絶え間ない雲が海上に暗い影を落とし、海は際限もなくその威厳を増すようだった。
崖の上に立つ私の眼下に、入江に浮かんだ二艘の小舟が波に揺られていた。
左手に浜辺へとくだる細い道がある。道に沿って備えられた柵は所々が腐食していて、風に軋んでいた。
私はその小道を下り浜辺へと降りると、靴を脱いで手に持った。子供の頃は運動靴にたくさん砂を付けて帰った。そうなると面倒なのは分かってはいるから最初は気を使うのだが、夢中になれば忘れてしまう。
そっと踏み出した素足が、白く細やかな砂に沈み込んで、ひんやりと冷たかった。
その感覚が懐かしく、私はゆっくりと、足を砂に埋めるようにして小舟へと向かった。近くで見る波際は遠くで見たときよりもずっと透き通って見えた。
岸に打たれた杭に、舟をもやう綱が結ばれている。それを手繰って小舟を引き寄せた私は綱を外して乗り込んだ。窮屈な、小さな船だった。
いつの間にか海は凪いでいて、それに気が付くと急に心細くなった。不安から逃れようと櫂を取り上げて、その透き通った海に差し入れた。眉間にシワを寄せた私の目にじわりと涙が浮かんだ。濡れた足が冷たかった。
一際大きな揺れが私を夢から引き上げた。
混雑した電車の中に声は聴こえず、ただ車体が暗いトンネルの中を通過する音が響いている。目元を拭い、足元の紙袋に気付く。一体何を買ったのだったか。
視界にチラリと映った光に目を移した。左隣の男性が手に持ったスマートフォンの光だ。イヤホンをつけて熱心に画面を見つめている。
画面には蛍光色のカヤックを漕ぐ男。その波紋が広がる、霧の立ち込める深く暗い水面を見て、夢の事を思い出した。
強く吹き付ける潮風、冷たい素足、透き通った波際。
今の私には、隣の男性がスマートフォンを盗み見る私に気付いた事も、その水面に鯨がドラマチックに顔を出したことも、どちらもうんざりだった。
だから私は目をつむって、虚ろな記憶からただひとつ、この紙袋の中身を思い出そうとしたのだった。