# | 題名 | 作者 | 文字数 |
---|---|---|---|
1 | 緑のハブラシ | NAS | 410 |
2 | パノプティコン | 勘我得 | 998 |
3 | 人殺しの電話 | 絲 | 920 |
4 | 名探偵朝野十字の華麗な推理 | 朝野十字 | 1000 |
5 | フィーシッカ | 三浦 | 1000 |
6 | おかしな目的 | ぺさ | 722 |
7 | 群衆と私 | 田中太郎 | 903 |
8 | 肉食 | テックスロー | 994 |
9 | 努力 | わがまま娘 | 999 |
10 | あれは金星 | 志菩龍彦 | 1000 |
ハブラシは緑がいい、これは緑じゃない。そうか緑じゃないのか、と買い物袋を覗き込む。いや緑にしか見えない。難しいラインだ。
櫛と赤・黄緑の歯ブラシが、白い100均のペンたてに刺さってる。継ぎ目の粗い、プラスチックがパリパリと痛い、よく見たらよくわからんデザイン。わたしは、結局納得のいかなかったあいつが買ってきたその歯ブラシを眺める。黄緑じゃないか。難しいラインだ。
7:45そろそろ仕事に行かなくては。いつかの働きたくないと歌っていた人のことを思い出す。不消化で胃が軋む。冷蔵庫には牛乳とコーヒー、なんか違う。あいつが作るスポーツドリンクは、どうしてかおいしいんだ。わたしが作っても同じにはならない、勘弁してほしい。何が違うのかわからないけどそういうことなんだろう、そういうこともあるしわたしはそんな違いも好きだよ。今日のお昼はあったかくて優しいものにしよう。きっとわたしは担々麺を食べる。バーミヤンラーメンはうまい。
私は洞窟にいた。
正確に言うと、気がついたらここにいた。
いつから記憶が無いのかすら、覚えていない。
もちろんここがどこか、なぜここに居るかさえ分からない。
明かりも光もないから最初は洞窟であることすらわからなかったのである。
ひんやりとしているが、寒さは感じない。
肩に触れる岩肌の感触で、多分洞窟なんだろうということしか分からないから仕方がない。
少し目がなれてくると、壁の様子がうっすらと見えてきた。岩だと思っていたのは、硬く固められた砂か細かな石のようだった。さらにそれは先に続き登り坂になっている。
その光景は記憶にある。
あの場所であることに気がついたのは、暫くしてからだった。
「ここがどこか知っている」と思った。
正確には、どこかは知らないけれどいつも夢で見るあそこであることは間違いない。でも、そこがどこかは分からない。よく知っているが、知らないどこかなのだった。
つまり夢の中で夢の中の光景を思い出しているという不思議な体験をしているのだ。そう思うと、我ながら頭がこんがらがって意味がわからないデジャブを体験していることすら夢ではないかと思ってしまう。
そのとき音が聞こえて、続いて声が聞こえた。上のほうから人の声がする。
「気がついたようだな」
機械音のような声でゆっくりとした話し方だった。
「<パノプティコン>へようこそ。大人しくしていればなにも心配しなくて良い」とだけ言って消えた。
<パノプティコン>とは確か、18世紀に哲学者ジェレミ・ベンサムによって考案された全展望監視システムのことで、いわゆる監獄で最小の監視者で受刑者を多数監視できる建築のことだ。
監獄に幽閉されている事を知らされたとたん。脱力した。
なんとかして逃げ出す手はないか?何かを繰り返し試してような気がする。だからこの施設のことも、逃げ出せないことも知っているかのように感じるからだ。
ここは黙して様子を見よう。驚きのあまり気絶したような振りをしてみることにした。
「気絶したようですね。今度の被験者はなんとかなると思ったんですがね?」
モニターを背にした男は、皮肉をこめてそう言った。
「なぜそう思うんだ?この被験者は完璧だよ」
そして博士は振り返ってこういった。
「そもそも<パノプティコン>は刑務所と考えているようだが、本来は究極の更生施設で<教育施設>なんだよ。
彼は9度目にして、気絶すると言う選択肢を自ら選んだのだからね。」
その日も私は、電話を取つてゐた。龍一さんからの電話だ。數箇月ぶりか? 私は硬く、冷たい受話器を握り締めた。つるつるしたプラスチックの感觸に、脂ぎつた指が滑る。
もしもし。緊張してゐた。相手は何も言はない。
「言ふ事あるんぢやないの?」
「人殺し」
「え……
……
事故?」
「自轉車や」
「そつか……」
私は、受話器を下ろした。何と言へば良いのか分らない。
頑張れ、とも、元氣出して、とも、あなたは惡くない、とも、言へなかつた。狀況が分らなかつた。訊ねられもしなかつた。
自轉車――彼は自轉車を持つてゐない。ともすれば、步いてゐたところを自轉車と衝突してしまひ、相手が死んでしまつた――瞬時に浮んだのは、それだつた。電話《スマホ》も持つてゐないので、餘所見步きの線は消える。ただ、走るのが日課だつた。もしかしたらそれかもしれない。角から急に自轉車が飛出してきて――いづれにしても、私ができる事は無かつた。だつてもう、その誰かは死んでしまつたのだから。
次に浮んだのは、彼の法的な責任だつた。何かを負ふ。牢屋に入るのか。それとも“辨償”で濟んでしまふとか?
……急に、私の胸は締め附けられるやうに痛く、切なくなつた。そして、あの人を呼びたくなつた。
「龍一さん……」
彼を呼ぶ、枯れ掛つた自分の聲で目を覺ました。馬鹿々々しいやうな、それでゐて愛ほしいやうな――自分で相手を戀しく思つてゐるのがうれしく、そして悲しかつた。まるで戀人のやうだと思ひつつ、私はまた少しまどろむ。返事は無い。會ふ豫定は無い。
つい先日も、とんでもない夢を見たばかりだつた。どうしてまた、こんな不吉な夢など見てしまふのだらう――欲求不滿? 何を表してゐる? その實、意味など無いのだらう。記憶の再現でもなければ、欲望ですらない。ただ、それはあるだけ。惡夢。それが起り得るのではないかといふ、恐怖――彼との斷絶――。
私は苛立つたが、彼に構ふ話題《こうじつ》はできたかなと思つて、片腕にぶつけたノートに、書き始めた。
彼からもらつた電話臺のシール、まだ剝がしてゐない。
瑛美は愁眉のまま言った。
「あなた大学出てるし。頭いいから」
「バカな。ぼくより頭いい奴いくらでもいるよ」
「ええ、私バカなの」
「君は誠実で善良で優しいから好きだ。ぼくも君からそう思われたい」
「新之助君は優しいよ」
三つの選択肢のうちそれを選んだ理由を、今夜私は悩み続けるだろう。
半年前、私の同僚の吉田が彼女と付き合っていた。吉田を知るにつれ彼が反社会性パーソナリティ障害である疑いが強まるばかりだった。彼女を心配して見守るうち、顔や腕に青痣が増えていった。私は意を決して吉田と話し合ったが、彼は聞く耳を持たなかった。彼女の目の前で彼にとても強い言葉を遣ってしまった。私はただ正義を通したいだけだと言いたかった。彼女を困らせるつもりなどなかった。ただ彼女を守りたかった。しかし彼女は三角関係だと感じたのだろうか。
その夜、吉田はバラバラに切断され、殺された。しかも切断された手足が持ち去られていた。犯人はいまだに不明だ。
私は先輩のアパートを訪れた。
「先輩、助けてください」
「彼女が好きなのか」
「はい」
「高卒のキャバ嬢にもなれなそうなバカ女をか。君のゲテモノ食いには驚きを通り越して感心するな」
「…………」
「わかった。確かに興味をそそられる事件だ。なぜ手足が持ち去られたのか。調べてみよう」
まもなく名探偵は犯人を特定し明白な証拠とともに警察に通報した。犯人は4人の女だった。吉田は瑛美と並行して彼女たちと付き合っていた。
先輩は瑛美を会社のロビーに呼び出して説明した。私は壁際に隠れて耳をそばだてた。
「彼はサイコパスだった。ありがちなことだが、とても魅力的な男性だった。犯人たちは、彼を憎みつつ、彼の証として体の一部を持ち帰った。新之助君は全く無関係だ。遅かれ早かれ、吉田は報いを受けていただろう。彼が君を支配し服従させようとしたのは、君が若くて美しいからだ。だが君の本当の価値は、誠実で善良だから。その価値がわかる男がきっと見つかるよ。彼を手放すな」
その後デートに誘ったが彼女の愁眉はまだ開かなかった。
「まだ彼を好きなの?」
「いいえ。ただ身近にいた人が死んだことが辛いの」
彼女の美しい魂に触れるたび私の魂も震えるのだった。
「ぼくは半年待った。確かに、悲しみが癒えるのには時間がかかるだろう。ひょっとしたらいつまでもかかるかもしれない。でも、ぼくは今すぐ君にキスしたい」
彼女は受け入れてくれた。
「話してごらん」
フィーシッカの声は優しく耳に響いた。でも、息は舌の奥で勢いを萎ませて、息のまま鼻から出ていった。
「話したくないの?」
声の全部が、はじめとまったく同じだった。肩が、悪魔がのっかったみたいになって、苦しくなった。
「いいんだ。無理しなくていい。今度にしよう」
フィーシッカの太くてざらざらした指が髪を梳いて、それからほっぺたに張りついた。やめてほしい、と気づかれないように息のまま口から吐き出した。フィーシッカが立ち上がって出ていく時、すっぱい匂いとおしっこの匂いの風が一緒に出ていった。それから呼ばれるまで、ずっとナイトテーブルのランプの中で生き物のように揺れる火だけを見ていた。
その晩も眠れなかった。強すぎる月明かりが、フィーシッカの足跡が窓からドアまで続いているのを見つけてくれた。肩にまた悪魔がのっかった。今度って明日のことだろうか。話さないとずっと今度が続いていくんだろうか。窓ががたがた鳴った。風が狼みたいに吠えている。フィーシッカの足跡が消えて、また出てきて、また消えた。ノックの音がした気がした。今度は重く叩く音がした。
「話してくれ!」
フィーシッカの声が、閉じ込められた狼みたいに吠えている。ドアが、壁も、重く叩かれる音がする。フィーシッカの足跡が消えて、もう出てこなかった。ランプの中の火が、捕まえられた兎みたいに暴れている。
「さあ。話してごらん」
フィーシッカの声がよく聞こえる。狼はどこに行ったんだろう。兎を子供たちのところへ持っていったんだろうか。
「話してごらん」
私は話し出す。ここの窓から見えたことを。
フィーシッカは優しく響く声で相槌を打つ。
すっぱい匂いも、おしっこの匂いもしない。
「話してくれてありがとう」
フィーシッカの足跡を消すように、青白い窓の形が生まれた。湿った風が狼の遠吠えを連れてきて、独りで帰っていった。
次の日、おそろしいことがたくさん起こった。父様が死んだ。母様と姉さんも、どこかに消えてしまった。私を逃がそうとしてくれた、あの名前も知らない若い男の人も、たぶんあのまま死んでしまったんだろう。
ランプの中で生き物みたいに揺れる火を見ていた。今のところ、狼は兎を捕まえにこない。少し寝ておこう。夜明けにはまた働きに出なければならない。
話したいことがいっぱいある。いつかは話せる時が来るんだろうか。でも、フィーシッカはもういない。
おかしな目的
1人のようなものだった
親に見捨てられ、
友達や恋人にも裏切られ
気がつくと僕は
死に場所を探して
さまよっていた
死に場所探しの旅の途中
気持ちの悪い怪物に出会ったんだ
気持ちの悪い怪物は
僕を見て、聞いてきた
おまえを殺していいか?って
僕は殺していいよって答えたんだけど
怪物は不服そうに
おまえはつまんないから殺さないよって
どこかへ消えた
僕はその後、1人で死に場所を
目指して歩いていた
歩けば歩くほど
人が死んでいることに気づいて
悲しくなった
みんな怪物に殺されていて
みんな僕より面白い奴だったと
思うと
悲しくなった
生きてるやつはいないのか
僕より、つまんないやつは
夢中になって探したけれど
僕以外誰もいなかった
僕がつまんないと思っていた
タレントもクラスメイトも教師も
みんな殺されてるいるのを
見つけた
そして段々
僕は世界で一番
つまんない奴のように思えてきて
とても惨めな気持ちになったんだ
僕は世界で一番つまんない奴なのか?
あんな気持ちの悪い
怪物にバカにされるぐらいの
納得できない
僕は面白いはず
怪物はどこにいるんだ?
お前を笑わせてやる
シーンと静まりかえった
死体だらけのこの世界に
僕の足音だけが
聞こえる
ああ人間だけじゃなかった
猫も殺されてる
僕は猫以下か
犬も殺されてる
僕は犬以下か
豚も殺されてる
僕は豚以下か
死体をみればみるほど悲しくなって
なんで僕は、
怪物に
こんなにはまらなかったんだろうと
疑問に思う
それとも逆に
おまえには可能性があるから
生かしているんだよってことなのか
考えれば考えるほど
怪物に会いたくなった
僕はお前を笑わせてやる
いま
僕は怪物に殺されるためだけに
生きている
僕以外殺されたこの世界で
殺されることを希望にしてる
そんなおかしな目的を
怪物に話したら
きっと笑う気がして
一 一目惚れ
私は或る日,其の人を見て一目惚れしたのであった。
とても顔立ちが整っており,隣にいた者までもが惚れていた程であった。顔をずっと見ていると,群衆が噂話をし始めた。最初は隣の者の話であった筈が,何時の間にか私の話に置き換わり,群衆に其の事が暴かれたのだと推察した。また,その事に対する返しは,無関心であった。暫くの間,私は悲しみの海に落ち込んでいた。
二 或る一人
暗い気分で歩いている所,私は背後から追突され,足に石が入る程の怪我をした。幸い,石は自力で取り除く事が出来たが,痛みにより立ち上がる事ですら出来なかった。其処へ心配でもしたのか,手当をしてくれた人がいた。いつもの通勤路を歩いている群衆の一人であった。その為,度々顔を合わせる事があり,またしても私は,人を好いてしまったのである。しかし,気持ちを伝えられぬまま,其の人は何処かへ行ってしまった。こうして,私は人を好かぬ事を決断したのであった。
三 多者択一
私は隣の者に好きな人はいるのかという質問を受けた。相手が望んでいる回答をする必要があると感じた私は,咄嗟に浮かんだ者の名を挙げた。数日後,群衆は私に対し,それを伝えろと囃し立てた。更に数日後,其の者に呼び止められ,群衆の面前で好きであるという趣旨の言葉を浴びせられた。既に質問の回答は群衆に伝わっていた為,回答を後日に回し,拒否を伝えた。今では群衆が面白がって仕掛けた事である為,この決断は正しかったと思う。
四 唯一の人
群衆に私事を伝えない事を決断した。これは最初一目惚れした者にも例外なく適用したが,それに対して,知りたいと幾度にも渡り質問の仕方を変えて,次の質問を浴びせた。好きな人は誰か?,である。教えない,と言えば,それは私?と返し,居ない,と言えば,私は好きでないのか?と返す意地悪な者である。その容姿から,声を掛ける者が群衆にもいたが,声を掛けられるとなると,他に例が無く,他に迎合しようにも出来ないのである。意地悪な質問に,答える術を持ち合わせていない私は,困るべき所,この時間が続けばよいのに,と思った。只の質問という現実から目を逸らすのに丁度よい口実だったからである。
タクヤの昨日の現場はきつかった。現場監督のミスで余計な残業をさせられ、帰って発散しようとしたところつまらんことに妻のサヤカが生理中でふて寝を余儀なくさせられた。今日は休みなので朝寝をたっぷりして、写真週刊誌を見ながらパチンコにでも行こうかと考えていたらサヤカに車を出してくれと頼まれた。
「休みの日くらい俺の好きにさせろや」
「でもリョーマの一歳半検診今日なの、私車出せないし、仕方なくない」
「タクシー使えよタクシー」
「いいじゃんねえ、お願い、夜はたーくんの好きなヤキニク定食作ってあげるから」
ぱっちりした目はきつい化粧で多少盛られていたが、十歳下の若い身体は天然ものだ。グレーのニットにゆるく包まれた乳房を横目に見ながら甘い缶コーヒーをあおり、鼻を鳴らしてタクヤはくたくたの化繊ジャージを羽織った。ヤキニク定食っても肉を焼いて出すだけだろうが、と内心毒づきながら、焼いただけの肉を家族で食らう姿には食欲以上のものを誘う何かがあった。
「結構早く出たのに車いっぱいだね……ついてくる?」
「まさか。寝てるわ」
狭い駐車場にぎりぎりに滑り込ませたアルファードから、一歳半の息子と妻が去り、もう一眠りと目をつぶったところで鈍い音が助手席側のドアから聞こえた。
しまったといった顔をして隣の車から出てきた若い父親と目が合い、驚きと敵意の表情をそこにぶつけた。「おまえさっきゴンっつったろうが」
車から降りて確認すると、軽の開いたドアの先がタクヤのドアに当たっていたが、しかしタクヤの車には傷一つついておらず、少し緊張が解けた。その瞬間を逃さず
「すみませんでした」
高い声で謝る父親を見て、タクヤは舌打ちし、三白眼をくれてやった。
「もっと車向こうに止めろや」
慌てて駐車をし直し、リョーマと同じ一歳半の娘を連れて、「すいませんでした」と再度謝り、しかしタクヤの顔は全く見ずに男は保健所に歩いていった。
昼寝から覚めると、サヤカとさっきの男が談笑しながら駐車場へ降りてきたところだった。タクヤのメンチに気付いて笑顔を引っ込め、男は去って行った。「だっせえ親父。おいリョーマ、お前あんなクソにはなるなよ」毒づくタクヤに相槌も打たず、真剣な顔でサヤカはスマホにメッセージを打ち込んでいた。
「サヤカです。さっきはいろいろ話せて楽しかったです。なんか、イクメン、って、かっこいいなあ笑笑今度いつ会えますかー?」
「名前?」
急にカタカタとキーを叩いていた手が止まって、レイタが言った。
「は?」
急に何かと思って俺はノートパソコンの画面から目を離して正面を見たら、同じようにこちらを見ているレイタと目が合った。
「お前、そんなの気にすんのな」
意外だ、と言いながらレイタはノートパソコンを閉じた。
あぁ、と思った。それいつの話だ? 全然返事がないから軽く無視されたのかと思った。集中して時間感覚がズレたのか?
一応、聞いてたんだ。そう思いつつ、よっこらしょと立ち上がって台所に消えていくレイタの背中を見る。
開け放たれた襖戸にかかった暖簾をくぐって中で何かを始めた。
俺は白い画面に視線を戻した。
ジャーと水を出す音やガチャガチャと食器の音がする。
ポンッと音がして、レイタの声が聞こえた。
「オレさぁ。実は家族になろうって言ったことあんの」
「え?」
「ヤダって言われた」
「は?」
視線を一気にレイタに向けた。台所の方を見ても開け放たれた襖からはレイタは見えなかった。
再び画面に視線を戻したけど、気分が乗らなくなってノートパソコンを閉じた。
レイタの声が聞こえなくなり、電気ケトルがお湯が沸いたと音で知らせていた。向こうで何かしている音だけが聞こえる。
「オレ、その時すげーショックだったの」急に声がして、振り返るとレイタがマグカップをふたつ持って出てきた。
ことっと音がして、レイタが俺の前にマグカップを置いて、座った。
「オレ等が家族になるって、どっちかが家族を捨てることじゃん。それが耐えられないんだって。でも、今はこのままでもいいかなって思ってる」
そう言ってレイタは自分のマグカップを大事そうに包んで、中に入った緑茶を見ながら微笑んでいた。
「オレはいっちゃんと一緒にいたいから一緒にいて、いっちゃんもオレと一緒にいたいって多分思っているから一緒にいるだけ。一緒にいるために必要なのは関係性の名前じゃなくて、努力だよ」
努力、ともう一度呟いて、レイタはマグカップから顔を上げてこっちを見た。
「そんなものに縋りたくなるくらい、お前、不安なんだ」
ふ〜ん、とレイタはニヤニヤしてマグカップとノートパソコンを持って立ち上がった。
襖を開けて廊下に出たところでレイタが「良かったな」と言って、そのまま去って行った。
開け放たれた空間にミツキが現れて「ただいま」って言った。
聞かれた、って思ったらいたたまれなくなって「おかえり」の4文字がうまく言えなかった。
「ねえ、今何時?」
「ちょっと待って……六時ね。午後六時」
「約束何時だっけ?」
「五時」
「あの男ども来ないじゃん」
「逃げられたみたいね。根性無いわね、あいつら」
「笑い事じゃないわよ、もう道具全部準備しちゃってんのよ? このワゴン車もわざわざ借りてさ。あーもう苛つく、くそくそくそ!」
「子供みたいにクラクション鳴らさないで」
「……何が悪かったんだろ」
「顔かな」
「ひどっ。顔は悪くないでしょ。悪いのはアンタの顔色でしょ」
「いえ、貴女の目つきよ。傍目に見てヤバかったわよ、あの時」
「……仕方ないじゃん。余裕無かったんだから」
「今はあるわけ?」
「相変わらず嫌味ったらしいね、アンタは……。ま、問題は片付いたし。旦那なら、今頃海の底で蟹の餌よ」
「……ねえ、煙草持ってる?」
「あるけど、いいの?」
「いいから、ジャケットの内ポケット、ラッキーストライク」
「よく解るね。ほい」
「ありがと。いつもそこに入れてたでしょ……ああ、おいしい」
「……医者は何だって?」
「ステージ4。肺だけじゃない、もう全身に転移してるって。何が人生百年時代よ。笑っちゃうわ、私はその三分の一でアガリだそうよ」
「ままならないねえ、人生」
「ままならないものね」
「……私の家の隣に住んでた大崎麻里子って覚えてる?」
「ああ、小六で同級生だった。貴女の初恋の相手でしょ?」
「そう、その大崎。結婚したんだって。子供連れて歩いてるとこを見たって、母さんが」
「あ、そう。あの子の家、なんか荒れてたみたいだし、幸せになって良かったわ」
「それが、捕まったって」
「どうして?」
「児童虐待。ちなみに児相に通報したのは私の母さん」
「……ままならないわね、人生」
「……ままならないねえ」
「……風、気持ち良さそうね。ほら、カモメがあんなに高く飛んでる」
「窓、開ける?」
「いえ、止めとくわ。決心が鈍ると嫌だし、目張りテープを張り直すのも面倒だもの」
「……じゃ、そろそろ始めようか。チャッカマン取ってよ。炭と七輪は、私の足下に置いてるから」
「はいはい……。なんかキャンプ思い出すわね。中二の時の」
「ああ、肝試しとかやったよね」
「……あのさ、変なこと言っていい?」
「いいよ」
「なんか今、すごく幸せな気分。全然苦しくないの」
「そう……お、何あれ。空に光ってるの」
「あれは金星でしょ。空気が澄んでるから、綺麗ね」
「明日も晴れるかな」
「明日も晴れるわよ、きっと」
「うん。晴れるといいなあ」