第201期全作品一覧

# 題名 作者 文字数
1 名探偵朝野十字の失踪 朝野十字 1000
2 国民の義務 彼岸堂 1000
3 白夜 ハギワラシンジ 838
4 ひと まつだ かおる」 620
5 恐怖の空間 わがまま娘 987
6 平穏 ウワノソラ。 954
7 色彩の絶えない部屋 杏栞しえる 740
8 塔と番人 euReka 1000
9 町は続く たなかなつみ 891
10 家族×景 テックスロー 995

#1

名探偵朝野十字の失踪

 私は普段縁のないシステム部門の部長に呼び出された。
「BI保守の大口案件があり恒常的にクライアントとの折衝が必要で困ってた。営業から彼が来た。非エンジニアに客先のDBサーバに入られるのは不安で仕方なかったが、一年滞ってどうにも原因がわからなくて別処理を作って間に合わせていた件を、ダメもとで調査してくれと頼んだら2週間で原因を突き止めた。どうやったのか、なぜそのデータが気になって調べたのか聞いたが理解できなかった。が、とにかく答を見つけてくれた」
 彼が名探偵だからだ。そんなことは知っている。
「で、私にどうしろと?」
「彼が欠勤して連絡が取れない。来週にはクライアントとの面談があり来てもらわないと大変なことになる。社内で彼と話ができるのは君だけだそうだ。彼を探してくれ。新之助君、君が最後の希望だ」
 部長は急に小声になって囁いた。
「彼から給料が安くて生活が苦しいとほのめかされた。意味がわからんが大きなトラブルに巻き込まれ多額の借金を背負ったのか。それなら全力で相談に乗る。そう伝えてくれ」
 私は先輩の携帯に電話したが返事はなかった。先輩のアパートに寄ってインターフォンを何度か押したが返事はなかった。
 ネットでSNSを調べたら、営業部門の女の子が先輩と「友達」だった。連絡したら、先輩に伝えてくれるとのことだったが、数日経っても返事がなかった。改めて連絡したら、その返事はこうだった。
「伝えたら、ふざけんなとか黙れ小娘とか。めちゃめちゃヘイトが返ってきて。一晩中何通も。ブロックしました。これ以上はごめんなさい」
 経理課の上司からは、先輩を連れてくるまで出社しなくていいと言われた。夕方先輩のアパートの前で見張っていたら先輩が出てきたので後をつけると大戸屋に入った。私は隣に座った。
「会社に来てくださいよ」
「行くよ。でなきゃクビになっちゃうからね」
「なんで来ないんですか」
「体調不良だよ。グループウェアで連絡済みだよ」
「じゃあ明日から来るんですね」
「うん」
 私は席を立った。先輩は私を振り返り言った。
「待ちたまえ。で、おれの今月の給与はいくらなの?」
「今月は7万円アップです。来月以降は前向きに検討中です」
「…………」
「先輩、今日言って明日からって訳にはいかないことぐらいわかるでしょ。あなたの部長はやれるだけのことをやってます」
 先輩は軽くうなずくと、再び私に背を向け、五穀ごはんをほうばった。


#2

国民の義務

お隣さんの玄関が開いていたので二度見した。
だって、扉の上の赤ランプが点灯している。
国民間相互安全保障法によって設置を義務付けられている、あの赤ランプがだ。
そんでもって「ビー」とブザーまで鳴っている。
これの意味するところはつまり「お前は通勤している場合ではない」ということ。

「マジか……」

ため息を吐きながら、意味もなく腕時計を見る。
覚悟を決めるしかなかった。
私は、端末で上司と部署に勤怠連絡を行った。
こういうケースに遭遇した場合、他にやらなきゃいけないことがあった気がしたが、見事に忘れた。

一回家に戻り、スーツを脱ぎ捨て、化繊のジャージ上下に着替えて、運動靴に履き替え、マスクを三重ぐらいにして、ジム用に使っていた水中ゴーグルをつけ、軍手をして、あと適当に必要そうなものをウエストバッグに入れて、再び家を出た。

ブザーは鳴り続け、赤ランプも点灯したままである。
夢であってほしかった。現実は非情だ。

玄関前に改めて近づく。
思ったより臭いがない。

「お邪魔しますよ」

一応の挨拶をして、玄関から屋内に踏み入る。
変哲のないシューズクローゼットに、カーペット。
スリッパの類はない。
明かりはついていない。
廊下は真っ直ぐ奥に続き、左右にトイレ、風呂場、客間。
うちと間取りが同じだ。
慎重に進み一部屋ずつ確認する、異常はない。
やがてリビングに到達する。
そしてそこにお隣さんがうつ伏せで倒れていた。

「マジか」

お隣さんは寝間着だった。
リビングは綺麗に片付けられており、キッチンに洗い物の残りの類もなかった。
ていうか、綺麗すぎないか?

「ぁ」

それがお隣さんから発せられた声だと気付いて私は死ぬほどびっくりしてそのままお隣さんを急いで仰向けにしてお隣さんがまだ目を開けていて何やら麻痺をしているらしきことを確認し細い呼吸音があるのを聞いて涎を垂らして虚ろな目で私を見ていてわずかに身体が震えていて原因はまるでわからないが私はお隣さんに馬乗りになり四肢を拘束しウエストバッグに入れていた安楽死用の薬品を注射器をお隣さんの首筋に打ち込んで注入して注入して注入し終えて動かなくなったのを見て天井を仰ぎ見て深呼吸した。

照明器具がシャンデリアみたいな形をしてて派手だなと思った。

「……マジか」

壁に掛かった時計を見る。
端末を家に置き忘れたことに気づく。

――この場合の手当てって、いくらになるんだっけ。

私は、お隣さんの瞼を映画のような手つきで閉じた。


#3

白夜

 破滅に美学があるように、トーストにも焼き加減がある。冬目前の秋にだって生存権がある。
 ならわたしには?
 それがないんだな。
「切ってはって切ってはってを繰り返したら実存性は生まれる? ほんと? ほんとうに? 」
 私は考える。
「実在性の間違いだよ?」
 彼はそうやってちゃちゃをいれる。いつも、いっつも。ちがうの。わたしが知りたいのはそういうことじゃない。あなたの、わたしに対する、軽んじたあしらいなんていらない。
「実存主義と実在性をごっちゃに捉えてるんだね。興味深くて君らしいや」
 あなたはわらう。わたしもわらう。わたしが笑ったのはあなたのためよ。わたしが笑わなかったらあなた悲しむでしょ?
 わたしは寝転ぶ。冷たいベッドに。もう外は夜だ。そして冬だからすごく寒い。最後に太陽が出たのはいつだろう。あまり思い出せないな。
 ぶぉんぶぉん。ぶぉん。
 近所をバイクが走り抜けてる。この国では言い方が違うかもしれないけど。彼らは何もファシリテイトしなくていいから、楽だよね。うるさいだけで、他になにもいらないんだから。
「君に会えなくてさみしいよ」
 画面の向こうの彼は言う。彼は今日本にいる。日本ってどこだっけ? きっとあったかいんだろうな。わたしはクロイツェル・ソナタの国にいる。遠き地、凍ての風、埋葬。ここはそんなところ。
「おしごとがんばってね」
「きみもね」
 それじゃあ、と私たちは会話を終わりにする。わたしは寝転ぶ。冷たいシーツが心地よく感じるほどわたしはこの生活に入れ込んでる。
 窓を開けるついでに夜の帳もそっと開ける。外には何がある? 公園にひとりの美しい女が立っていた。その女は白いコートを羽織って、携帯電話を持っていた。さっきまでベッドの中にいたのだろう。コートの隙間から寝巻きが見える。彼女の涙は凍てつき、目尻を覆っている。彼女はもう光を知らなくていいのだ。そう思うと彼女は安心し、開かない瞼をもう一度閉じた。眩しすぎてなにも見えないことは、わたしの尊厳を凍り付かせるから。


#4

ひと

 「ひと」
 兼ねがね私は今の日本人に足りない物、もしくは知らなすぎることに対して疑問を感じていた。 
 そもそも親の世代からの育て方日本人としての自覚、一般常識の無さ、歴史について余りにも知らない幼稚な知識、中には厳格な両親に育てられた方も居らいらっしゃることも事実だが世間を騒がせるような人間の命をなんとも思わなく躊躇せず殺生する人が多いのが現代である。
「教育」基本的な人権、差別、命の尊さ、一般社会への適合、人に迷惑かけない、それは自分一人では何も出来ないと自覚すべきだ、自分が生きていられるのは他人が関わって生きている。食べ物、医療、交通、会社、関わるものは無限だ。人間一人なんて無能の塊。働か無くては食べ物、住まい、育ててくれた両親も養い国を賄う事も出来ない。
「俺が頼んで生んでくれとは言ってない」
とか、時たま卑怯なことを言う者がいる、自分がなんで生まれてきたか解らない、この世に用の無い人間なんていない、障害を持って生まれた子も同じだ、社会はその子たちを受け入れようとして、尊い命の説明を行い、何か自分に出来ることから考え行動を起こす、世間は温かい芽で迎え、その行動に答え、色々な応対をする。
 世間は冷たくない、働ける環境、学校での生活に於いても今では気を配り、障害を持つ方には交通機関のバリアフリー化などを始め働き方改革はさらにまだまだだが進んでいる処である。 少子化対策にも働ける子育てには、政策が追いつき出している処であろう。


#5

恐怖の空間

画面に映る無機質なはずの文字に色が見える。温度を感じる。
無機質と思っていたものが、現実よりもリアルで確かなものとして感じられる。
それがただの錯覚だとしても、自分には現実よりも近いのだ。

確かに始めは無機質だった。ただの白い画面に黒い文字。読めば気持ちはワクワクしたけれど、それ以上は何もなかった。
それが一転したのは、ある些細な出来事だった。
画面を開いた瞬間、ものすごい熱を感じた。
この人達、ものすごく怒ってる。そう文字から出てくる感情を初めて感じた。
それからだと思う。文字に色が見えて、温度を感じるようになったのは。
見える色数は少ない。正直12色もないと思う。「それでも」なのか、「だから」なのかわからないが、そこに映し出される色は鮮明だった。
少ない色数に、温度も感じる。触れてもいないのに、その熱が伝わってくる。
現実世界ではそんなに鮮やかに見えない色が、画面に映る文字だけの世界では温度も感じるせいか色が鮮明に見えた。
今は面白いことに、痛覚や嗅覚が感じることさえある。

その空間でそこそこなじんだ頃、言葉は生きていると思った。
こんなにもいろんな色があって感情があって、そしてそれが画面越しなのに伝わってくる。
生きている、動いている。言霊とはよく言ったものだ。
暖かく優しい言葉が広がっていくときは、優しく包み込まれるような感覚がある。だけれども、冷たい言葉や汚い言葉が悪意を持って使われ広がっていくときは、切り裂かれるような感覚さえある。正直、怖いと思った。恐怖だった。
その空間では何気ない文章の一言が切り取られ、勝手に色が付き、熱を帯びて広がっていく。
一気に燃え上がることもあるし、じわじわと大きくなっていくこともある。
どんな言葉も始めはたいして熱くもないのに、広がっていくうちにどんどんその熱は高くなっていく。

現実を生きていると、感情をむやみに外に出さないせいか、一見するとすごく穏やかだ。
故に、味気ない感じがして、毎日が曖昧な色に見える。人から感じる温度は殆どなく、肌で感じるのは本当に気温だけの毎日。それが平和だと言われれば、そうなのかもしれない。
でも、その平和が成り立っているのは、画面の向こうの世界があるからだとしたら?
あの空間は現実と繋がっていないようでいて、実はものすごく密接に繋がっている。
そう気づいた瞬間、ワクワクしていた空間が、一転して恐怖の空間になった。


#6

平穏

 やたらに夢ばかり見るから、嫌になってきた。おぼろげな夢の記憶を、私は少し時間を掛けて手繰り寄せる。

 確か……、最後泣いていたのだ。「何で、別れるの。別れたくなんかないのに」としゃくり上げるようにして声を絞り、引き留めていた。
 なぜか夢では、同居中だったはずの彼としばらく別居しており、そろそろ別れようかと切り出されていた。
 彼の態度は非常に淡白で、言葉にまるで色がないといった感じで。相手に気持ちがないというのはこういうことかと、夢の中ながら察したのだった。
 別れに納得いかず愚図る私に「知紗はセックスがしたかったんだよね。俺はしてもいいよ」と慰めるように言われた所で目が醒めた。

 頭にまとわり付く鬱陶しい感覚をどうにかしたくて、充電中の携帯に手を伸ばす。遮光カーテンで薄暗いままの部屋の中で、別れる。夢。と検索ワードを打った。

 夢とは真逆で、彼と私は仲がいい。昨日も身を寄せ合って、彼の頭の毛を指で掬い上げたりしながら一緒にテレビを見ていた。他所ではべったりしないが、誰が見ても仲睦まじい二人だと思う。
 ただ付き合いが長くなってきて、なんとなくセックスの回数も減ってこの所しようという感じにならない。一緒に暮らしてるとどこもそんなのかもしれないが、本当の所少々寂しさを感じている。

 検索結果の中の1つ、また1つと見比べ確かめていく。そもそも書き手によって解釈が違うし全部を信じる訳でもないが、ひとしきり読めば気が済み安心する。それだけだ。

 色々調べてみた結果、どうやら今回の夢は正夢ではなく逆夢らしかった。逆夢とは、現実は夢の通りにはならないということである。
 診断によると別れの夢は、好きであるからこその別れに対する恐れ。相手に対する寂しさ、不満。などなどであり、夢で泣くほどの強い感情があるのは、それだけ相手に気持ちがあるということらしい。

 実際にこれから別れるわけではない、というお墨付きを一応貰い胸を撫で下ろしていた。

 そう、私は決して別れたい訳ではないのだ。彼をなにより大事に思ってる。
 そうだ、そうだ。と自分の気持ちを改めて確かめ、安堵した。

 これはただの倦怠期と言い聞かせる。平穏と言う名の不安。この夢は、お互い居心地の良さに馴れきって、ぬるま湯で泳いでいる二人への警鐘のような気がした。


#7

色彩の絶えない部屋

「花は永遠に咲いていられない?そんなの誰が決めたの?」
レイカは凍ったバラに触れながら、微かに笑みを浮かべた。部屋に並ぶ蝶の標本は少し埃を被り始めていた。
「昔、女の子なのに残酷な遊びはやめなさいって言われたことがあるの。あの人はただ知らないだけなんだ」
レイカは相変わらず独り言が激しいなと私は思った。
 初夏をこれでもかって詰め込んだひまわり、真っ赤に染まった山のもみじ。美しいものはいつまでも取っておきたくなるのだ。レイカの部屋には様々な色が浮かぶ。季節など関係なく彩られ、そしていつも冬の気配がしていた。
 レイカは時に蘇らせることもある。この日は凍った蝶に話しかけていた。
「ねぇ、あなた。もう一度羽ばたいてみない?」
いつもより優しい声で話しかける。当然蝶が返事をする訳はないのだが、まばたきする瞬間に動いていたのではないかというほど水々しい羽をしていた。レイカは羽をそっと撫でて、
「息をすることを忘れていただけ。目覚めなさい」
そう言って、息をふーっと吹きかける。あぁ、なんて綺麗な蝶なんだろう。部屋の隅の私に気づいてくれるかな。そう思っている内にふとレイカと目があった。
「あら、あなたもいたのね」
喋れないのがわかっている癖にと睨んだが、レイカはちっとも怯まない。
「あなたもそろそろ目覚めても良いわ」
随分素っ気ない言い草に私は怯えた。だが、あの鮮やかな蝶が止まった時、確かに温もりを感じたのだ。
「さぁ、目覚めなさい」
レイカは私に向かって息を吹きかけた。体がみるみる人らしくなっていく。
「鏡を見て」
レイカは化粧台に私を連れて行った。鏡を覗くと、
「信じられない!」
自分でも驚くほど綺麗な声だった。レイカは嬉しそうに、
「誰もあなたのこと『モト骸骨』だなんて思わないわよ」
と言って、笑った。


#8

塔と番人

 塔の入口には、古ぼけた椅子に腰かけた老人が一人いるだけだった。
 私は老人に声をかけたり揺すったりしてみたが、何も反応がないのでしばらく待つことにした。老人は入口の番をしているのかもしれないし、勝手に塔へ入ったことで後々面倒事になるのを避けたかったからだ。
 もっとも、塔へ入ることは誰にでも許されているのだから、何か手続きが必要だとしても名前を記帳すればいいという程度のことで済むはずであり、老人が番人であるなら、きっと記帳簿を管理するだけの簡単な仕事を与えられているに過ぎないのだろう。しかし、私が勝手に塔へ入ったことで責めを負い、番人の仕事を失う羽目になってしまったら、この眠りこけた老人はたちまち路頭に迷ってしまうかもしれないのだ。
「あんた誰?」
 声に振り返ると、子どもが立っていた。
「言葉がしゃべれないの?」
「違う。すぐに言葉が出ないこともあるし、今がそれなんだよ」
 子どもは老人のそばに近寄った。
「おじいさんは死んでるよ。だからもうしゃべらないの」

 私は子どもと二人で塔の近くに穴を掘り、老人を埋葬してやった。
 話を聞くと、老人とその子どもは塔の中に住みながら番人の仕事をしていたのだという。
「きのう死んだの」
 子どもは盛り上がった地面を見ながらそう言った。
「本当は死んでるかどうか分からなかったけど、あんたがやって来たからもう死んでることにしてもいいと思ったの」

 私は、子どもを一人置いていくのも気が引けたのでしばらく塔に住むことにした。老人がやっていた番人の仕事も引き受けることにしたのだが、何日たっても塔を訪れる者は誰もいなかった。子どもにとっては、私が初めての訪問者だったようだ。
「楽な仕事だけど、なんだか寂しいな」
 塔の周りに広がる平原に向かって私がそう言うと、子どもは地面にうずくまりながらつぶやいた。
「さびしいってなに?」
 私は、空に浮かぶ小さな雲を見ながら考えた。
「ひとりぼっちになると自分の居場所を見失って、それで人は寂しくなるんだと思う」
「ふーん、そうなの」
「おじいさんは死んだし、塔を訪ねる人間もいない。だから君は、もうここにいる必要はないんだよ」

 それから数日後、私と子どもは塔をあとにして旅へ出た。しばらく歩いたところで後ろを振り返ると、塔が音もなく崩壊していくのが見えた。
 私たちはその様子を黙って眺めたあと、何も無くなった平原に背を向けて、再び歩きはじめた。


#9

町は続く

 家を出ると、また新しい建物が建っているのが目に入る。当然のことのように、その建物が建つ以前にそこに何があったのかについては、頭のなかの地図が空白になっている。変化の激しい現在のこと、過去を振り返っても仕方がない。私は頭のなかの地図に新しい建物を組み入れる。
 駅に辿り着くまでのあいだだけでも、何軒もの新しい建物が新築されているのを発見する。すべてを確認し、すべてを頭のなかの地図に組み込む。地図は日に日に移り変わる。
 いくつも聳える建物の隙間から、切り取られた空を見上げる。空は日に日に分割され、日に日に小さくなっていく。空が落ちてきはしまいかと案じることはないけれども、視認できる部分がこうも小さくなってくると、さすがに不安になってくる。
 私がいま立っているこの足の下は、昨日立っていたのと同じ地の上なのか。
 電車を降りて駅から出たあとも、頭のなかの地図を書き換えながら、建物をひとつひとつ数えて歩く。ここに不動産屋さん、その隣がケーキ屋さん、この時間にはまだ開いていない塾のある角を曲がると、その先にあるのが目的地の。
 角を曲がり、頭のなかの地図がもう変化に追いつけなくなってしまっていることに気づく。目の前に続くはずの小道はもうない。代わりに広がるのは何もない空間。更地だとか空き地だとか透明だとか真っ白だとか、そういう知っている言葉では表現できない空間。
 存在するはずのものがまったくない空間。
 何もないところから何もないところに向かって建物が生えてくる。そもそもそれが建物だと認識できるのがなぜなのか、私自身にもわからない。もしかしたら建物だと思いたかっただけなのかもしれない。だってそれは波打っている。だってそれは呼吸をしている。
 だってそれは大きな口を持っていて、そのなかから生えている大きくて鋭い牙からは、溢れるような唾液が滴ってくる。
 足に根が生えたように身動きがとれなくなった状況で、私は大急ぎで頭のなかの地図を書き換える。それは私の上から大きくかぶさってきて、空はもう見えない。
 私を示す座標が消滅する。消えた座標の上にさらに新しい建物が建ち並び、町は続く。


#10

家族×景

 「私、アダルトビデオに出演しようと思うの」
 ひらりとスープをスプーンですくって唇を潤すと娘の友梨佳がぽつりとつぶやいた。武彦を含めた家族全員のスプーンを操る手が止まった。長男はナプキンで口を拭く仕草をした。かちゃ、とスプーンを取り上げたのは妻だった。それを合図に家族全員がまたスプーンを動かし始めた。友梨佳もまた何事もなかったかのように食事を再開し、食卓に空気が流れる。
「友梨佳、この前買ったグッチ、お母さんにまた貸してね」
「うん、あのバッグお母さんにはちょっと明るいけど、グレーのスカートと合わせるなら大丈夫」
「またパーティ? どうせ俺に送ってけっていうんでしょ。日にちだけ早く教えてね。また直前に頼まれるのはいやだからね」
「今回は斎田先生の出版記念会だから、何をおいても行かなきゃね。ご主人もどうですか、って誘われているんだけど、あなた、その日は仕事早く終わりそう?」

 武彦は上の空で友梨佳の告白を反芻していた。隠し事のないまっすぐな家族は、おそらく友梨佳が差し出す初回プレスのDVDを受け入れることになるだろう。ひょっとするとそれを家族四人で鑑賞することになるのか、食後のコーヒーを飲みながら、こんな会話を繰り広げるのか。

「ここ、すごく痛そうにしてるけど、実際は全然痛くなかったんだよね、男優さんが優しくしてくれて」
「へー、そうなんだ、今度俺に男優さん紹介してよ、どうやるか知りたい」
「友梨佳、二十枚ほど取り置いててね。友梨佳の初めて記念だもんね。もしかしたらこれがきっかけで先生の作品にご縁があるかも。お父さんも何枚かいるでしょ?」

 妻が魚料理をオーブンから取り出すために席を立つ。その背中を目で追うと、棚に立てかけてある家族四人の写真が目に入り、武彦は思わず目をそらす。
 改めて友梨佳の顔をまっすぐに見つめると、何の屈託もない顔で見返した。その目が「何も心配することはないよ」と言っていて、少し安心しそうになった。馬鹿な。十八の小娘に俺は何を甘えようとしているのか。理解ある父親、理解ある家族、そんなものはくそくらえだ。

 「むんず」

 まだ湯気が立ち上る魚料理が並べられた一枚板のテーブルを左手で握り閉め、右腕を差し入れ、ああなんて重い、肩までテーブル下に差し込み、かがんだ足に力を籠め、そのまま一息にひっくり返す。飛び散るナイフ、フォーク、白身魚の向こう側、家族の顔、泣き笑い。


編集: 短編