第202期 #7

群衆と私

一 一目惚れ
私は或る日,其の人を見て一目惚れしたのであった。
とても顔立ちが整っており,隣にいた者までもが惚れていた程であった。顔をずっと見ていると,群衆が噂話をし始めた。最初は隣の者の話であった筈が,何時の間にか私の話に置き換わり,群衆に其の事が暴かれたのだと推察した。また,その事に対する返しは,無関心であった。暫くの間,私は悲しみの海に落ち込んでいた。
二 或る一人
暗い気分で歩いている所,私は背後から追突され,足に石が入る程の怪我をした。幸い,石は自力で取り除く事が出来たが,痛みにより立ち上がる事ですら出来なかった。其処へ心配でもしたのか,手当をしてくれた人がいた。いつもの通勤路を歩いている群衆の一人であった。その為,度々顔を合わせる事があり,またしても私は,人を好いてしまったのである。しかし,気持ちを伝えられぬまま,其の人は何処かへ行ってしまった。こうして,私は人を好かぬ事を決断したのであった。
三 多者択一
私は隣の者に好きな人はいるのかという質問を受けた。相手が望んでいる回答をする必要があると感じた私は,咄嗟に浮かんだ者の名を挙げた。数日後,群衆は私に対し,それを伝えろと囃し立てた。更に数日後,其の者に呼び止められ,群衆の面前で好きであるという趣旨の言葉を浴びせられた。既に質問の回答は群衆に伝わっていた為,回答を後日に回し,拒否を伝えた。今では群衆が面白がって仕掛けた事である為,この決断は正しかったと思う。
四 唯一の人
群衆に私事を伝えない事を決断した。これは最初一目惚れした者にも例外なく適用したが,それに対して,知りたいと幾度にも渡り質問の仕方を変えて,次の質問を浴びせた。好きな人は誰か?,である。教えない,と言えば,それは私?と返し,居ない,と言えば,私は好きでないのか?と返す意地悪な者である。その容姿から,声を掛ける者が群衆にもいたが,声を掛けられるとなると,他に例が無く,他に迎合しようにも出来ないのである。意地悪な質問に,答える術を持ち合わせていない私は,困るべき所,この時間が続けばよいのに,と思った。只の質問という現実から目を逸らすのに丁度よい口実だったからである。



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