第202期 #5
「話してごらん」
フィーシッカの声は優しく耳に響いた。でも、息は舌の奥で勢いを萎ませて、息のまま鼻から出ていった。
「話したくないの?」
声の全部が、はじめとまったく同じだった。肩が、悪魔がのっかったみたいになって、苦しくなった。
「いいんだ。無理しなくていい。今度にしよう」
フィーシッカの太くてざらざらした指が髪を梳いて、それからほっぺたに張りついた。やめてほしい、と気づかれないように息のまま口から吐き出した。フィーシッカが立ち上がって出ていく時、すっぱい匂いとおしっこの匂いの風が一緒に出ていった。それから呼ばれるまで、ずっとナイトテーブルのランプの中で生き物のように揺れる火だけを見ていた。
その晩も眠れなかった。強すぎる月明かりが、フィーシッカの足跡が窓からドアまで続いているのを見つけてくれた。肩にまた悪魔がのっかった。今度って明日のことだろうか。話さないとずっと今度が続いていくんだろうか。窓ががたがた鳴った。風が狼みたいに吠えている。フィーシッカの足跡が消えて、また出てきて、また消えた。ノックの音がした気がした。今度は重く叩く音がした。
「話してくれ!」
フィーシッカの声が、閉じ込められた狼みたいに吠えている。ドアが、壁も、重く叩かれる音がする。フィーシッカの足跡が消えて、もう出てこなかった。ランプの中の火が、捕まえられた兎みたいに暴れている。
「さあ。話してごらん」
フィーシッカの声がよく聞こえる。狼はどこに行ったんだろう。兎を子供たちのところへ持っていったんだろうか。
「話してごらん」
私は話し出す。ここの窓から見えたことを。
フィーシッカは優しく響く声で相槌を打つ。
すっぱい匂いも、おしっこの匂いもしない。
「話してくれてありがとう」
フィーシッカの足跡を消すように、青白い窓の形が生まれた。湿った風が狼の遠吠えを連れてきて、独りで帰っていった。
次の日、おそろしいことがたくさん起こった。父様が死んだ。母様と姉さんも、どこかに消えてしまった。私を逃がそうとしてくれた、あの名前も知らない若い男の人も、たぶんあのまま死んでしまったんだろう。
ランプの中で生き物みたいに揺れる火を見ていた。今のところ、狼は兎を捕まえにこない。少し寝ておこう。夜明けにはまた働きに出なければならない。
話したいことがいっぱいある。いつかは話せる時が来るんだろうか。でも、フィーシッカはもういない。