第202期 #3

人殺しの電話

 その日も私は、電話を取つてゐた。龍一さんからの電話だ。數箇月ぶりか? 私は硬く、冷たい受話器を握り締めた。つるつるしたプラスチックの感觸に、脂ぎつた指が滑る。
 もしもし。緊張してゐた。相手は何も言はない。
「言ふ事あるんぢやないの?」
「人殺し」
「え……
 ……
 事故?」
「自轉車や」
「そつか……」
 私は、受話器を下ろした。何と言へば良いのか分らない。
 頑張れ、とも、元氣出して、とも、あなたは惡くない、とも、言へなかつた。狀況が分らなかつた。訊ねられもしなかつた。
 自轉車――彼は自轉車を持つてゐない。ともすれば、步いてゐたところを自轉車と衝突してしまひ、相手が死んでしまつた――瞬時に浮んだのは、それだつた。電話《スマホ》も持つてゐないので、餘所見步きの線は消える。ただ、走るのが日課だつた。もしかしたらそれかもしれない。角から急に自轉車が飛出してきて――いづれにしても、私ができる事は無かつた。だつてもう、その誰かは死んでしまつたのだから。
 次に浮んだのは、彼の法的な責任だつた。何かを負ふ。牢屋に入るのか。それとも“辨償”で濟んでしまふとか?
 ……急に、私の胸は締め附けられるやうに痛く、切なくなつた。そして、あの人を呼びたくなつた。
「龍一さん……」

 彼を呼ぶ、枯れ掛つた自分の聲で目を覺ました。馬鹿々々しいやうな、それでゐて愛ほしいやうな――自分で相手を戀しく思つてゐるのがうれしく、そして悲しかつた。まるで戀人のやうだと思ひつつ、私はまた少しまどろむ。返事は無い。會ふ豫定は無い。
 つい先日も、とんでもない夢を見たばかりだつた。どうしてまた、こんな不吉な夢など見てしまふのだらう――欲求不滿? 何を表してゐる? その實、意味など無いのだらう。記憶の再現でもなければ、欲望ですらない。ただ、それはあるだけ。惡夢。それが起り得るのではないかといふ、恐怖――彼との斷絶――。
 私は苛立つたが、彼に構ふ話題《こうじつ》はできたかなと思つて、片腕にぶつけたノートに、書き始めた。

 彼からもらつた電話臺のシール、まだ剝がしてゐない。



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