第20期 #8

槇さん

 槇さんは壁にもたれかかるようにして眠りこんでいた。かがみこんでキスしたくちびるは冷たくて、あたたかくないのが悲しくて、あごに手をかけてそうっと上を向かせてくちびるを舐めていたら、ふと眉がよせられて、それからすこし遅れてまぶたが持ちあがった。
 「‥‥らせん?」
 わずかにはなれたくちびるから、息がもれるみたいにかすかにささやかれたことばに僕が首をかしげると、槇さんもつられたように首をかしげてみせる。ねぼけてた?とたずねると目だけでうなずく。僕はもういちど槇さんにキスする。こんどは槇さんも応えてくれる。
 「ごめんね、起きてられなくて」
 いいよ、と僕はのびかけた槇さんの髪を手で梳きながら言う。頭いたいんでしょ。
 槇さんは体が弱い。一日の半分以上は寝ていて、起きているときもあまり活発に動けない。この部屋を借りるときに僕は槇さんのために寝心地のいいりっぱなベッドとやわらかい羽毛のふとんと、それからおおきなビーズクッションを買った。どこで気分が悪くなって座りこんでしまってもいいように床に毛足のながいじゅうたんをしきつめた。そのせいでなんだか成金趣味のようなホテルのような部屋になってしまったけれど、そんなことはかまわない。どうせこの部屋に他人を招ぶことはないのだから。
 槇さんの病気がどんなものなのか、はっきりしたことは分からない。子供のころから体の弱かった槇さんは病院にあまりいい思い出がないらしくて、行きたくないと言うし、僕も無理強いしたくない。僕にできるのは槇さんの言うとおりにすることだけで、槇さんは抱いていてほしいと言うから、抱いていてあげる。キスしてほしいと言うから、キスする。キスは僕も槇さんにしたいことだから。
 槇さんには家族がいるけれど、僕は槇さんをさらってきた。槇さんが死にたくないと言ったから。槇さんは家族にたいせつにされてきて、でもだれも槇さんの病気を治してあげられなくて、僕がはじめて会ったとき、槇さんはほとんど死んでいた。僕の手をにぎって、死にたくないと槇さんは言った。だから僕は槇さんをさらって、この部屋でいっしょに暮している。
 僕の肩に頭をのせていた槇さんが、重い荷物を持ちあげるように首をあげた。キスして、の合図に僕は応える。どうしても、くちびるが冷たい。いくどキスしても、抱きしめても、槇さんのくちびるも体も、いつも冷たい。
 槇さんは、僕の名前を呼んでくれない。



Copyright © 2004 黒木りえ / 編集: 短編