第20期 #15
オープン最初の仕事は、雪かきだった。長かった下積みを終え、ようやくバー「ヨーク」を開いた田中君に、従業員を雇う余裕はない。商売道具であるグラスを揃えるのがやっとだったから、雪かきのシャベルを買うのも負担だった。
田中君は安物のシャベルしか買えなかったが、柄をビニールテープで補強し、ブレード部分が錆びないように毎回磨くことを忘れなかった。ざっくざっく雪をかいてその冬を越した。
雪が溶け、桜が散り、太陽がまぶしい夏になったころ、「ヨーク」にも何人かの常連がついた。新人デザイナーの吉田さんもその一人だ。
「あたしデザイナーなんかやめようかな。だって、あたしが今まで格好いいと思っていたもののほとんどは会社の宣伝の受け売りだったんだもん。格好いいものを知らない子たちに、みせかけの格好よさで踊らせるなんてまっぴらよ。ねえ、本当に格好いいのはたとえば、このバカラのグラスじゃなくて、それを磨くあんたの手なのよ」
田中君は下積みのデザイナーの辛さが手に取るようにわかった。
「吉田さん、いいものあげようか」
「なに、いいものって。お酒かな」
「残念、ちがう」
田中君は倉庫からシャベルを取り出してきた。
「ただのシャベルじゃない」
吉田さんは笑いとばした。
「まあ、おまもりにどうだい」
それから数年たった。
吉田さんはデザインの会社をやめて、自分で服をつくりはじめた。最初は流行と関係なしのデザインに注目は集まらなかったが、吉田さんは自分がいいと思うものしか作らないスタイルを貫きとおした。
泥まみれになったとき格好良さが増すような服、が吉田さんのテーマだった。「ヨーク」に集まる人たちを思い浮かべながらつくった。それは雑誌やテレビに取り上げられることはすくなかったが、確実にファンを増やしていった。彼らは、吉田さんの服を着ていると、自分の信念を曲げずに頑張れると口々に言った。
吉田さんはときどき、居間にたてかけてあるシャベルを手にとる。念入りに手入れされていたおかげで、その刃は今でも鈍い輝きを放つ。
「バカラより、あんたの手」を思い出すたびに赤面し、(でもあれは良いことを言ったぞ)と甘酸っぱい一夜を回想するのが吉田さんの本当のおまもりになっている。
ある晩、電話がなった。
「おれ、もうこの仕事をやめさせてください。なんかちがうんです」
慌てて話すのは新人の村田君だ。
「いいものあげるから、うちにきなさい」
吉田さんは電話を切った。