第2期 #5

バラと十円玉

 通夜に出るのはこれが初めてだ。祖父母は、父方も母方も僕が生まれる前にはすでに故人で、親戚の少ない家に育ったために、社会人になるまで葬式を経験したことがなかった。死んだのは叔父だ。自殺だった。変わった人だったらしい。あまり記憶がない。小さいときに会っただけだ。母は連絡を取っていたが、僕はそれすらも知らなかった。どうも、身内が死んだという実感がしない。いや、人が死んだという実感も持てなかった。
 就職活動時に使用したチャコールグレイカラーのスーツをだした。母が、「これで良い」と言ったからだ。黒に近くて葬式でもおかしくないらしい。どこか投げやりな気がしたが、たぶん、そうなのだろう。
「そういえば、まだクリーニングに出してなかった。」
 最後に着たのは、大学の卒業式だな。ブラシをかける。逆目にブラシをかけるために、スーツをひっくり返した。あまり行儀のいいことではないかもしれない。僕も投げやりだ。床にコインが落ちた。拾い上げると、スーツの胸ポケットから赤茶色のカリカリしそうな物体が落ちた。最初は何なのかわからなかった。バラの花びらだ。

 卒業式の二次会で、伊藤紀子から十円玉とバラをもらった。バラは会場に飾られていたものを、酔った伊藤がとってきたのだ。伊藤は僕の胸ポケットにバラを挿した。「花は、俺じゃなくてお前だろう。」そう言って伊藤に返した。その時、十円玉をもらった。どういう意味だったのか。よくわからず、そのままにしていた。伊藤は、実家に帰って結婚すると聞いていた。大学以前から付き合っている男がいるそうだ。僕は伊藤がうらやましかった。同じ人をずっと思う彼女がうらやましかった。

 十円玉をぼんやり眺めた。スーツが逆さまのままだった。
 あ。
 バカだ。今ごろ気がついた。伊藤がうらやましかったわけじゃない。最初から、初めて会ったときからずっと諦めていた。気持ちを転化していた。僕は恋を殺したのだ。彼が言いたかった言葉も無視して。
 もしかしたら、叔父もそうなのかもしれない。何か伝えたい言葉があったのかもしれない。それを伝えることができなくて、死を選んだのかもしれない。最後の言葉も残さず。
 通夜の前に「死」を理解した。何も、伝えられなくなることなのだ。十円玉がそれを証明している。ここにある理由を知らない。

 何も言えずに殺された僕の恋心と、何も言わずに死んでいった叔父を思い、通夜の前から僕は泣いた。


Copyright © 2002 坂口与四郎 / 編集: 短編