# | 題名 | 作者 | 文字数 |
---|---|---|---|
1 | 淡い、淡い。甘ったるい。 | ウワノソラ。 | 970 |
2 | 良薬口に苦し | こんにゃく王子 | 534 |
3 | 見越し入道 | テックスロー | 1000 |
4 | なんども、なんどでも…… | わがまま娘 | 998 |
5 | 新しい名前の子供たち | qbc | 1000 |
6 | 異民族の人 | euReka | 1000 |
チカチカと光るチューナーのメーターを見ながら、か細く鳴る弦に耳をすませていた。それで何気なく考えた。この弦のか細い音のように、ぽそぽそと囁くのが常な喉の弱いうちのボーカルのことを。抜けるように肌が白く、小動物に似た愛らしさを持つ彼女のことを。
昨日の寒空の下だった。
練習前外で待ち合わせたついで、音源と譜面の入った袋をボーカルである加代子さんから受け取った時だ。指が、多分触れたのだろう。僕が気づかないくらい些細な接触だったが、途端彼女は「冷たいねぇ」と心配そうに目を丸くしてみせた。そのまま両手のひらを差し出して、僕の手をそっちに伸ばすように示した後「私、手だけはあったかいの」と笑っていた。
本当の所、このようなシチュエーションは気恥ずかしさもありはばかれるのだが、仕方なく促されるまま手を出したのだった。
加代子さんのことを考え出すと、もやもやさせられる。今日だって気がつけば、あの小さくて白い手の柔さと温さを思い起こして何度でも余韻に浸ってしまうし、いい加減自分が嫌になっていた。
なんというか角砂糖が口の中で溶け出して、ざらついた強い甘さが胸の辺りに広がっていくような感覚になる。それはつまりの所、僕は彼女のことを好きになってしまいそうで怖いということなんだけど……。
――加代子さんは、ズルいな。
頭が騒ついている。特別に意識しないようあえて気を逸らしていたというのに、向こうは遠慮なしに滑り込んできた。あの時手を温めたのはただの親切心だろうけど、僕の意識を揺らすくらい生々しく伝わってきた感触だった。
特別な意識がないにしろやっぱりズルく感じる。というか彼氏が居るのに躊躇いもなく、ズルい……。
別に僕は加代子さんと付き合いたい訳でもないし、彼氏との仲を邪魔したい訳では決してないけれど。この胸のもやもやが何かの間違いであってくれと、ただひたすらに願っていた。
どの弦もチューニングが済んだので、ピックを振り下ろし弦を一撫でする。粒の揃った音が心地よく響く。
さて練習曲でもやろうと、昨日もやった曲のイントロを始めると二人で入ったスタジオ練のことが浮かんだ。僕の手元を必死に目で追って、歌をギターの音色に乗せて揺れる加代子さんの姿を思い返す。
結局どこまでも付いて回る淡い昨日の記憶に振り回されながらも、僕は目を細めていた。
ある博士が大発明を成し遂げた。これを飲むと不老不死になるという。
それを知った博士の友人は
「大発明じゃないか! すぐに発表したほうがいい」
と興奮しながら言った。しかし博士は
「いやしかしだね、まだ実用段階ではないんだよ」
とあまり乗り気ではない。博士の友人は、薬は偶然できたもので博士が薬を独り占めしようとしていると考え、その薬を盗み出すことにした。
盗むことに成功した博士の友人はこれをどうするか考えた。ふむ、この薬を発表するとともに被験体として私が飲もう。そうすれば名誉も不老不死も自分のものになる。作り方は不死身になった後、じっくり考えれば良い。発表の手はずを整え、全世界生中継の中
「お待たせしました! ついに人類の長年の夢、不老不死を実現する薬を作りました!まずは私が飲んで見せましょう!」
と息巻いた。薬を口に入れた瞬間、博士の友人は苦悶の表情を浮かべ死んだ。
博士の研究所のテレビではこの様子が映し出されていた。助手が博士に問う。
「何故彼は死んだのですか? 薬は失敗ですか?」
すると博士が言った。
「いや、違う、大成功さ、あの薬はかなりの良薬だった」
「では何故彼は死んだのですか?」
「言っただろう、まだ実用段階ではないと、あの薬は人が拒否反応で絶命するほど、苦いんだよ」
「不倫するんだ?」
ブラウスに這わせた指が動かなくなった。指を引っ込めた上司は眉をひそめて
「え?」
「不倫するんだ?」
飲み会でのボディタッチは私からは二回、上司からは三回。私は手の甲、二の腕、上司からは肩、胸(肘で)、太もも。太ももに手を載せた技術には正直舌を巻いた。なんとなく視線を飛ばしたときには彼の手は私の太ももにしっかり根を生やしていた。いつ触れられたのか全く気づかなかった。上司の声のトーンは変わらず、私が太ももを見つめている間も周りの話に快活に相槌を打っていた。二年目の男性社員が面白いことを言って一同が笑ったとき、ぐっと強く太ももを捕まれ、その後確認するように二三回さすったあと私の耳元で笑って言った。
「いいことしようか」
あまりにださい言葉に笑ってしまい、彼もださい言葉をあえて使うことで緊張を、主に自身の緊張をほぐそうとしていることが分かった。私はお酒は強い。目はとろんとしないし、それが世の男性の歓心を買わないことは知っていた。私はパートナー以外の男性とそういう関係になるのは初めてだった。私が上司の手の甲や二の腕を触ったのは偶然と言えば偶然だが、受け取る方から見れば誘惑と捉えられても仕方の無いものなのかも知れない。これもハラスメントの解釈の一つなのか、と私は以前会社で受けた講習を思い出していた。
吹き出し笑いのあとの私はその次の瞬間にはにっこり笑っていた。甥っ子に向けたことのある笑顔を使ってみた。上司はその笑顔に満足し、手を私の太ももから外し、飲み会の間中は私を触ることも、声を掛けることも無かった。
ホテルにつくとまず強く抱きしめられ、その後に下から撫で上げるようにブラウスに手を這わせた。そこで私の口から出たのが冒頭の台詞だ。
「お酒でも飲む?」
くるりと私に背を向けて、ルームサービスの冷蔵庫を開ける彼の背中は面倒さを隠そうとしていなかった。その背中に私はまた同じ問いを投げかける。
「不倫するんだ?」
責めるつもりもないし、脅すつもりもない。恐怖はなく、性欲はまあ、ある。ただ、なんとなくはっきりとはさせたかった。
プロレスラーのポーズのように缶ビールを二本両手から垂らして振り返った彼は、冷蔵庫の光に照らされ、Googleのトップページの白いとこのような顔をしていた。私は彼の姿を頭の先からつま先までじっくりと見て、注文を確認するようにゆっくりとまた口を開き始めた。
「は?」
何言ってんの? って言葉を飲み込んだら、盛大な溜息が出た。
「やっぱりなんか引っかかってて……」
「いやいや……」
意味の分からない回答が返ってきて、また溜息が出た。
こちらは呆れて言う言葉がないし、向こうは言いたいことがまとまらないらしく、スマホを耳にあてたまま無言の時間が過ぎた。
暫くして、「だって……」とつぶやく声がして、「だってじゃねーよ」とすかさず返す。
「アイツの言葉のセレクションがおかしいのは昔からだろ? っていうか、こじらせんのはいつもお前じゃん。なにまともに受け取ってんだよ。お前ら一体何やってんの、もう」
ソファの背もたれに寄りかかり、天井を見上げる。文字通り耳が痛い。耳からスマホを軽く浮かせる。スピーカーにしようかと思ったが、こんなアホみたいな会話、洗い物をしている恋人に聞かせられないと思いなおして、大人しく痛い耳にスマホをあてなおす。
好き過ぎて、言われた言葉に一喜一憂するのだという。なんでもない、文字通りの意味しかない言葉なのに、好き過ぎて、大切過ぎて、言われた言葉が少しずつ胸に溜まって、気が付いたらその言葉を勝手に並べ替えて、別の意味があるんじゃないかと不安になるのだという。
勝手に不安になって、そうじゃないと否定したら、余計に自分の中の不安が大きくなって、大好きなのに疑ってしまうんだって。
大好きな相手を疑って、信じられなくなってきた自分が嫌になって。気が付いたら出口のない不安の中にいるんだそうだ。
「ごめんね、面倒臭くって」って泣きながら笑った恋人の顔を思い出す。
「不安だって言えばいいじゃん」
「そんなこと言って、面倒臭い奴って思われたくない」
「思うわけじゃないじゃん。お前ら何年付き合ってんの? 何年一緒に住んでんだよ」
傍から見てたらお前らは割れ鍋に綴じ蓋だと痛感するのに、当の本人はそう思ってないらしい。
「そんなのわかんないじゃん」
いずれ来るかもしれない終わりに怯えて、言いたいことも言えないなんて。そもそも終わりのない関係なんてないんだよ。持続させる方法を、ふたりで探していくしかないんだって。
「じゃあ、もう暫くそうしてろ」
そう言って一方的に電話を切った。そのうちアイツに当たり散らしたくなるだろう。当たり散らしたらいいじゃないか。
洗い物を終えてこちらに歩いてくる恋人を見る。自分達はそうやってきた。
言いたいことを言い合って、また、そこから始めるんだ。
ある夏、異民族の人が近所に引越してきた。
異民族の人は、私の家まで挨拶に来て、三リットル入りの業務用アイスクリームを引っ越し祝いに持ってきた。
しかし、私は貧乏なので冷蔵庫を持っていない。だから貰っても食べきれないことを説明すると、異民族の人は悲しそうな顔をしながら帰っていった。
しかし数日後、異民族の人は大きな冷蔵庫を持って再び現れたのである。
「これでアイスクリームを冷やせるね」と異民族の人は晴れやかな顔で言うのだが、その冷蔵庫は新品みたいだし、そんな高価なものは貰えないと言って断った。
ずいぶん気前のいい民族だなと思ってネットで調べてみると、彼らは祖国を持たない流浪の民族だということが分かった。数千年前まではどこかに定住していたようだが、ある理由で民族ごと旅を始めたのだという。現在では、民族がまとまって移動しているわけではなく、それぞれが、ばらばらに旅を続けているのだが、彼らにとっては旅をすることが民族の証になっている。
異民族の人はその後も、食品やテレビや車などを私の家に持ってきた。最初に出会ったときに、自分の貧乏生活を告白したことがまずかったのか、異民族の人は、あらゆるものを私に与えようとするのである。
「確かに私は、冷蔵庫もテレビも持たない貧乏人だ。しかし、だからといって他人が思うほど惨めな気持ちで生活しているわけではない」
ある時、たまりかねた私は、異民族の人にそう説明した。すると、がっくりと肩を落とした彼の後ろから、一人の女性が現れたのだ。
「父が失礼なことをしてすみません。でも、父はあなたと仲良くなりたいだけなのです。今日はすき焼きの材料を持ってきたので、一緒に食べていただけませんか?」
その後も、異民族の人の娘は、たびたび私の家に来ては料理をふるまってくれた。そして、一年後に彼女と私は結婚し、さらに一年後には子供も生まれた。異民族の人は、私たちの子供が生まれるのを見届けると、旅に出ると言って私たちの元から去った。そして子供は二十歳になると、民族の血がうずくのか、自分も旅に出ると言って家を飛び出していった。私の妻になった異民族の彼女も、きっと旅に出たい気持ちはあるのだろうが、「移動することだけが旅ではありません」と言って笑っている。
ところで君たちの民族は、みんな旅好きで気前がいいのかと尋ねると、「気前がいいのは父だけです」と彼女は言って遠い空を見た。