第197期全作品一覧

# 題名 作者 文字数
1 豚の部屋 ハギワラシンジ 1000
2 ぷろこん テックスロー 998
3 キャラメルラテ tochork 931
4 きかんしゃユーモア 出しなよ、音 439
5 サガシモノ わがまま娘 947
6 仕事人の顔 霧野楢人 1000
7 カプセル euReka 1000
8 アルバム 塩むすび 999

#1

豚の部屋

 僕の部屋。僕の部屋。眠る場所。他にはないところ。起きて、石のご飯を牛乳で押し込んで、電車。
 電車では森が立ち尽くしてる。森が鞄持ってつり革にぶら下がって寝てる。動物はいない。小鳥も、木漏れ日も。

 僕は屠殺事務の仕事してる。ここで生まれたので。
「ぶぅぶぅ」
 机に座る豚さんたち。みんな血を流しているけど、スーツとベルトで止血してる。
「ぶぅー」
 オフィスの豚さん。隈はいないよ。部屋がないからね。
 僕は同僚に話しかける。
「なぁ、やっぱりこれって屠殺的じゃないか?」
「…」
 同僚は自分の出荷、加工データを抽出するのに忙しい。

 次は会議。
 豚さんの作ったあじぇんだ。ふぁしりてぃたーは豚さん。
「ぶぅーん」
 豚さん上司。
「ぶぶう」
 豚さん先輩。
「……」
 同僚。
 みんな活発な議論をしてる。でも何て言ってるのか分からない。だから僕は仕事ができない。積極的に屠殺できないからね。
「ぶふう?」
 先輩豚さんから意見を振られる。
「あの、やっぱり屠殺的じゃないですか?」
しん、と会議室が静まり返る。
「ぶふぅーっ」
「ぶっひっひ」
「…ぶっ」
 豚の皆さんはすごい勢いで笑いだした。おかしくて仕方ない様子で。
「 すみません。論旨に合っていなかったでしょうか」
「ぶふぅーっ」
 豚さんたちは大笑いだ。僕は自分を恥じた。なんて無能なのだろう。会議もうまくできないなんて。僕は心を閉じ、沈黙した。

 時計の針が17時を指す。
『終わりだね、終わりだね』
『そうだね、そうだね』
 16時くらいから妖精たちの囁き声が聴こえるようになる。
『かえろ、かえろ』
『あそぼ、あそぼ』
『あんだれぱ、あんだれぱ』
 妖精たちは歌い、僕は荷物をまとめる。
 豚さんたちはまだ屠殺してる。
「おつかれさまでした」
「ぶふぅー」
 皆さんも挨拶してくれる。職場でのコミュニケーションはできてる。皆さん、良くしてくれてる。僕が、僕が。

 電車には森が押し込まれてる。
 森はスマホをいじり、twitterでRTしてる。tiktokで短い動画を見てる森もいる。
 がたん、と大きく揺れた。足を思い切り踏まれる。
 痛いので文句を言おうと顔を上げると森しかいなかった。森は話せない。沈黙している。森は動かないし、動けない。当たり前のことだ。だから足なんて踏まない。なら仕方ないか。仕方ない。

 家に帰る。僕の部屋、僕の部屋。
 ホットミルクを飲む。
 あそばなきゃ。でも、どうやるんだっけ。


#2

ぷろこん

 「ぼくのひゃくえん」と題された、彼の小学二年の文集の書き出しはこうだ。

 ぼくはきょう、お父さんにひゃくえんをもらいました。ぼくはおこづかいをもらっています。でも、こんげつのおこづかいはもうもらいました。ごひゃくえんです。でもお父さんはぼくにひゃくえんをくれます。お父さんはぼくにひゃくえんをくれると、どこかにいってしまいました。

 誤解を与えないように付記すると、彼の父親は特にその後失踪したりはしていない。作文はその後、百円で買えるもの、買えないものが列挙され、次ののような終わり方をする。

 ぼくはひゃくえんをいつかつかう日がくるとおもって、つくえのひきだしにいれました。

 その机は彼が小学三年生になり転校するときに引き取られ、百円玉はついに使われること無く机の引き出しに眠ることになる。しかしその顛末はどうでもよい。大事なのは彼の文集の中身ではなく、その周りにたっぷりとある余白にいったん書かれて消された文字列だ。ガリ版刷りされた文集ではきれいに消されてしまっているがオリジナルの原稿の鉛筆跡はくっきりと以下の文字列を浮かべる。

 ぼくはぷろこん、

 ぷろこん。消費を専門的な生業とするもの、プロのコンシューマを略して称されるが、彼が小学二年生の頃はまだそこまで知れ渡っている言葉ではない。
 その後の彼の消費遍歴はまさにプロコンの名にふさわしい。コト消費という言葉では補足できない。彼にかかればどんな日用品の購買もドラマチックな物語に早変わりする。消費それ自体が価値を生むお金の使い方。原始的な例では高級店でのカードを出す仕草や、コンビニでおつりを777円に合わせるところから、大きな例では戦闘機を1円で買う芸当まで。誤解されやすいのだが、彼らプロコンはコト消費に特化しているわけではなく、購入したモノにもぞくぞくストーリーを付加していく。その最先端で活躍する彼が、プロコンとしての自覚が芽生える瞬間が私の手元にある。

 私は彼の消費の熱狂的なファンだ。この原稿を手に入れるために投じた資金と労力はスマートとは言い難いが、アマチュアの消費者としてはよくやった方だと思う。いつか彼はとてもドラマチックな方法で私からこの文集を買う。そのときは、あのときの百円を持ってきて欲しい。もしくは、彼の消費の琴線にはこの原稿は触れず、私は何の意味も無い、紙切れを手元に、老いて死ぬかも知れない。それはそれでいい。


#3

キャラメルラテ

弟の煙草は好かれていた――受験生だった翼はキャビンを愛煙していた。わたしの経営するちいさな喫茶店へと、翼は予備校の帰路に立ち寄っていた。
小柄な恋人がいつも一緒だった。百花さんは一度も吸っていなくて、いつも翼の手許に置かれた灰皿から甘い白煙がただよっていた。

二人はクラスの噂、探しあてた雑貨屋、調べた映画を熱心にさずけあっていた。
わたしは決まって閉店後にやってくる二人を内心歓迎していた。帰宅が遅くなるうえ二人に料理をふるまうから赤字だ。勿論わたしは早く帰りな、ここに通うなと愛想なくもてなしていた。
ただね、来客に憮然と接すること、カウンターで小説をたぐるのも、夜更けに二人を自宅へ送ることすらそうした年配者の役割が好ましかった。

わたしは稀に車中で喫煙する。月に数回も吸ったら頻繁、一度にたった二三本。
ただその日は匂いが残っていた。後部座席に腰かけ車窓をながめていた百花さんがわたしに尋ねた。
「お姉さんも煙草吸われますか」
「うん? 匂いが付いていたかな、たまにね。空気が心地よくひやりとするとき、景勝地に着いたとき、それに好きな音楽をかけるときに」
「なんだかわかります」
「へえ?」
「好きなバンドがなんていうか、紫煙のゆらぐようなノスタルジーを喚起させるんです。それを聞くときにひとり煙草をくゆらせたくなるんです」

百花さんの口ぶりは純朴だった。見ためにあこがれて一度も吸ったことはなく、まだきっとどこにもいけない受験生。
はは、とわたしは言った。エゴラッピンの「色彩のブルース」をカーステレオから流す。かすれたペーソスが充溢する。煙が染みた音はある。
「煙草はドラッグだからね、大人として、わたしはあなたに吸わないほうがいいと言いたいかな。せめて受験のストレスに姉の店でキャビンをふかすくらいが可愛らしい。ねえ?」
「うるせ」と翼がこぼす。
「百花さんもいずれ吸い場所を見つけられる。ライブハウス、喫茶店、旅行先。愛車もいいよ。でも、ウチに来ているあなたは煙草を必要としているようにうつらない」

百花さんは憮然としてしまった。次に遊びに来たとき百花さんは煙草を吸わず、翼はキャビンをふかしていた。
わたしは二人にキャラメルラテをふるまい、いつでもここにおいでとそっけなく告げた。


#4

きかんしゃユーモア

家出したユーモアが帰ってこない。
いつの間にかベランダから脱走したらしい。
今頃原付でエロティシズムと二人乗りしているに違いない。

家に残ったロジックとレトリックが、はじめこそ目の上のコブが取れた開放感に浸っていたが、ひとしきり遊びつくすと、途端に閉塞感に苛まれた。
さらに数日が経ち、閉塞感すら忘れかかった頃、開け放たれていたリビングの入り口から、Tシャツの襟元から顔面だけを出した男が、前習えを縦に振り回しながら入ってきた。

「きかんしゃユーモア!」

ロジックとレトリックが目を見合わせた。そこには二つの驚きがあった。
まず一つ。ユーモアが帰ってきたのがあまりに突然のことだった。そしてもう一つ、劇的な帰宅の一方で、全く成長していない彼のギャグに対して、失笑と安堵、どちらの顔をすべきか量りかねた。
2人がユーモアに視線を戻すと、彼は「これから鉄橋に差し掛かるのだ」と汽笛のまねをしてみせた。
彼のTシャツに「AIR FORCE」と書かれていることなど、2人にはつっこむ余地もなかった。


#5

サガシモノ

本を閉じる。ようやく読み終わったという気持ちと、読後の高揚感とが入り混じったため息が出た。
ずっと持って歩いていた短編集。新聞広告で見かけて、評判も良さそうなので買ってみた。
読み始めて割と直ぐに躓いた。何が書いてあるのか全く分からなかった。そういう本でも読み進めていくと途中で急に霧が晴れることがあるので、モヤモヤした気持ちのまま読み進めた。
長編であれば途中で霧が晴れたのかもしれないが、相手は短編で、1作目は結局モヤモヤしたまま終わった。
次の話はわかるかもしれない。そう思って読み始めたが、やはり理解できなかった。
どう読めばそこに書かれている意味が分かるのか、まるで見当がつかない。なのになぜ新聞広告には面白いと書かれていたのか。所詮ただの客寄せだったのだろうか。

無理をして読み進めていたのだが、2作目が読み終わらないうちにその本を開くのが苦痛になった。
ただ字面をなぞるだけ。字面のパーツパーツは理解できる。決して出くわしたこともないような言葉が並んでいるわけではない。なのに、そこに綴られている文章は難解だった。
本を開いては3行ほど読み進め、苦痛で本を閉じるという半ば作業的な毎日を暫く送っていたが、とうとう短編集は持って歩いているが開かないという状態になった。
4作目の冒頭5行程読み進めたところだったと思う。
もう開くことがないと思われる短編集をカバンに入れたまま持ち歩く日々が続いた。
カバンを開くと目に入り、うんざりする。なぜ買ってしまったのだろうか?
しおりが挟まっている場所は、表紙からそんなに遠くない場所にある。あれだけ時間をかけて読んだのに、まだそこなのかと思うと気が重くなった。

短編集を開かなくなってどのくらい経ってからだろうか。転機が訪れた。
「うんざり」が染みついたその本はもう二度と開かないと思い、しおりを抜くために手に取りしおりの場所を開いた。なんとなくサッと視線を右上から左下に動かしたら、なんだかワクワクした感じがした。
あぁ、そういうことだったのか。何かがストンと自分の中に落ちた。
そこから先は坂を転げ落ちる勢いで読み進めた。
ずっと視点が違っていたのだ。いや、もしかしたら始めからそうやって読むのだと気が付いていたのに、始めに躓いたことで焦って見失っていたのかもしれない。


#6

仕事人の顔

 至る所から湯気が湧き上がっている。合間にきらめく雪景色の中で信号は青になる。朝靄のバッファローさながら、圧雪で見えない横断歩道へと踏み出す群衆、のはずれで、ひとりだけ動かない。夜間専用押しボタンの近傍、臙脂色のマフラーに挟まってたわんだ長い髪が揺れている。彼女がペタペタと足踏みをしている間に僕は追いついた。
「何してるんですか」
「みんな通り過ぎるのを待ってる」
 そう言って見上げる彼女の小ぶりな目は雪のせいか、無垢に透き通って見える。エンジンを温めるように生真面目に、身体は行儀よく揺れ続ける。サラリーマンの群れが行き、次は小学生の群れ。
 冬が来てから、朝によく彼女と出くわすようになった。彼女は肌が白い。変な話だが、マフラーと髪の間から覗く頬が紅潮していてようやく気がついた。いや、冬だけそう見えるのかな。雪化粧に薄化粧。かたわらの彼女が急に笑い出す。
「どうしたんですか」
「思いついた。今日の夕ご飯手抜きしよ」
「何にするんですか」
「しゃけ」
 ニヤリとした顔はやはり無邪気に見える。ここで会う彼女は変わっていた。少なくとも会社で見かける彼女とは違う。時々自慢されるキャリアも、仕事ができて頼りになるという評判も、僕を助けてくれる熟練の所作もしっくりと来ない。家庭での彼女はどうだか、知らないけれど。やっぱり花柄のエプロンなんかするんだろうか。懸命に想像するも、家庭的な姿の象徴が母親であることの哀しさ。
「冬って好き?」
「え?」
 口から白い湯気を吐き出した彼女は群衆の最後尾を歩き始める。エンジンは十分に温まったわけだ。ペンギンみたいな足取りはペンギンよりもよほどしっかりとしている。追いついて、僕は答える。
「寒いのは苦手ですよ」
 ふふうん、と鼻から白い息。
「私は好きだな。綺麗だから。雪景色」
 ああ、それは分かるーーのだけど、彼女の横顔を見ながら、問いたくなった。
「いつか終わるとしても?」
 思いのほか意味深になった。しかし彼女は動じない。
「それはどの季節も同じじゃない」
「たしかに」
 年の功、という言葉を飲み込んで、会社まで歩いた。
 そうか、彼女は終わることを知っているんだ。それは大きな収穫のように思えた。同時に微かな罪悪感。少しずつ春に近づくなか彼女には悪いけれど、会社に着くといつも、僕は早く次の朝になれと願ってしまう。まだ煩悩が多いのだ。
 会社に着き、彼女はもう仕事人の顔だった。年の功。


#7

カプセル

 朝の海岸で、少女の入った透明なカプセルを見つけた。
 カプセルを軽く叩くと、少女は眠たそうに目をこすった。
 そこで私は何事かを話かけてみる。おはよう、大丈夫なのか、君は誰だ、とか頭に浮んだことを。
 あるいは、こういう場合、相手は何者かという質問にはあまり意味がないのかもしれない。
 相手がもし宇宙人だったとしても、私には驚くことしかできないし、その事実を受け入れるしかないのだ。
「ここはどこ?」 
 カプセルの中の少女が最初に話した言葉がそれだった。とても基本的な問いである。
「ここは、私が毎朝散歩している海岸。または、宇宙からみれば銀河系にある地球という星」
「じゃあ、あなたは誰?」

 そんなとりとめのない問答を続けているうちに、日が高くなり、お腹も空いてきた。
「君や私が誰かという問題も重要だけど、君はひとまずこのカプセルから出たほうがいいんじゃないかと思う」
 私はそう少女に提案した。
 少女を置き去りにしたまま食事に戻ることはできないし、このままだと彼女に食事を与えることもできないからだ。
 すると少女は、それもそうね、と言ってリモコンのようなものを取り出した。そして(1)と書かれたボタンを押すと、カプセルが急に膨らんで倍近くの大きさになり、私の体もカプセルの中に取り込まれてしまったのだ。
 少女も、私と同じようにびっくりしたようだが、すぐに、ごめんねと言って苦笑いをしてみせた。
「自分ことはよく思い出せないけど、このボタンの使い方はなんとなく覚えているみたい」
 彼女の話によると、このカプセルは、誰にも壊すことはできないが、周りを取り込みながら大きくなることはできるのだという。

 結局のところ、少女と私は、リモコンの(2)と書かれたボタンを押すことで、狭い空間から解放された。そして遅い朝食を二人で食べ、縁側でお茶を飲みながら、ほっと一息つくことができた。
 とは言っても、リモコンの(2)は、宇宙全体をカプセルの中に取り込むボタンである。なので実際のところ、私たちはまだカプセルの中にいることになるのだが……。
「二人っきりになりたいときは(1)を押して、息がつまりそうになったら(2)を押せばいいのよ」
 少女は、自分が宇宙の中心にでもなったようにそう言った。
 ちなみにリモコンの(3)は、全てが嫌になったときに押すボタンなのだそうだ。しかし、そのボタンを押すと何が起こるのかは、彼女も知らない。


#8

アルバム

 父が死んだ。あっけなく。世界には怒りも憎しみもないかのような顔をして。棺にいくつもの細い腕が伸びて花を敷き詰めてゆく。痕のある腕が胡蝶蘭で顔を飾る。母の腕だ。棺に眠る父を囲んで写真を撮った。母は笑っていた。姉も笑っていた。二人に笑えと言われて私も笑った。

 死が宣告されると父は変わった。過去を悔い改め、生きた証を良いものに上書きしようとしていた。哲学にも傾倒した。後悔と孤独と死への恐怖から涙を流す事もあった。やがて父の部屋に胡蝶蘭が飾られた。辛気臭いよと父は嫌がった。母は献身的に介護した。家族写真を撮るようにもなった。母は長袖で痕を隠していた。

 ある夜のことだった。私は幼かった。父はひどく怒っていた。コンロで油が煮えたぎっていた。母は部屋の隅でうずくまっていた。父が油を掬って私に近づいてきた。私は逃げることも目を逸らすこともできなかった。母はただ黙って見ていた。父はそれをせせら笑って煮えた油を母に浴びせた。
 どうすれば父を許せるのかと母に訊いた。憎しみに代わりなどないと母は答えた。母の身体に残された夥しい傷痕のひとつひとつに記憶がある。

 お父さんの介護をさせられてとても惨めね。
 あの人はもう死んだのよ。
 まだ生きてるじゃない。
 もう死んでいるの。間に合わなかったのよ。あの人も、私達も。
 過去を清算せずに変わるなんて許せない。
 死ぬと決まった人間が改心したところで意味ないでしょ。
 忘れることなんて絶対できない。
 私達にできるのは呪いを残さないことだけ。あの人は死んだ、いい人だった。そういうことにしてしまうの。

 遺影の中の父は怒りも憎しみもないかのように穏やかだった。ほかのどの写真にも、死の匂いのする父と、満面の笑みを浮かべる母と姉がいた。
 こんなことなら私ももっと笑えば良かったな。なんの話? 写真の話。そっちの写真ちょうだい。
 母と姉の腕がアルバムに伸びて写真を敷き詰めてゆく。腕の痕が写り込んでいる一枚を見て母が照れ臭そうに笑った。この痕、胡蝶蘭の花みたいだねと私がいった。見える見えると姉は喜んだ。そうかなと母はまんざらでもない様子で腕まくりした。
 お父さん胡蝶蘭好きだったよね。そうだっけ。そうだよ。そうだったね。
 真夜中に、父の部屋に置き去りにされた胡蝶蘭が花を落とす。ひっそりと、ぽとりぽとりと。私達はその幽かな音で目覚める。蘭は母の腕に咲いた。もう扉は開かない。


編集: 短編