第197期 #8
父が死んだ。あっけなく。世界には怒りも憎しみもないかのような顔をして。棺にいくつもの細い腕が伸びて花を敷き詰めてゆく。痕のある腕が胡蝶蘭で顔を飾る。母の腕だ。棺に眠る父を囲んで写真を撮った。母は笑っていた。姉も笑っていた。二人に笑えと言われて私も笑った。
死が宣告されると父は変わった。過去を悔い改め、生きた証を良いものに上書きしようとしていた。哲学にも傾倒した。後悔と孤独と死への恐怖から涙を流す事もあった。やがて父の部屋に胡蝶蘭が飾られた。辛気臭いよと父は嫌がった。母は献身的に介護した。家族写真を撮るようにもなった。母は長袖で痕を隠していた。
ある夜のことだった。私は幼かった。父はひどく怒っていた。コンロで油が煮えたぎっていた。母は部屋の隅でうずくまっていた。父が油を掬って私に近づいてきた。私は逃げることも目を逸らすこともできなかった。母はただ黙って見ていた。父はそれをせせら笑って煮えた油を母に浴びせた。
どうすれば父を許せるのかと母に訊いた。憎しみに代わりなどないと母は答えた。母の身体に残された夥しい傷痕のひとつひとつに記憶がある。
お父さんの介護をさせられてとても惨めね。
あの人はもう死んだのよ。
まだ生きてるじゃない。
もう死んでいるの。間に合わなかったのよ。あの人も、私達も。
過去を清算せずに変わるなんて許せない。
死ぬと決まった人間が改心したところで意味ないでしょ。
忘れることなんて絶対できない。
私達にできるのは呪いを残さないことだけ。あの人は死んだ、いい人だった。そういうことにしてしまうの。
遺影の中の父は怒りも憎しみもないかのように穏やかだった。ほかのどの写真にも、死の匂いのする父と、満面の笑みを浮かべる母と姉がいた。
こんなことなら私ももっと笑えば良かったな。なんの話? 写真の話。そっちの写真ちょうだい。
母と姉の腕がアルバムに伸びて写真を敷き詰めてゆく。腕の痕が写り込んでいる一枚を見て母が照れ臭そうに笑った。この痕、胡蝶蘭の花みたいだねと私がいった。見える見えると姉は喜んだ。そうかなと母はまんざらでもない様子で腕まくりした。
お父さん胡蝶蘭好きだったよね。そうだっけ。そうだよ。そうだったね。
真夜中に、父の部屋に置き去りにされた胡蝶蘭が花を落とす。ひっそりと、ぽとりぽとりと。私達はその幽かな音で目覚める。蘭は母の腕に咲いた。もう扉は開かない。