第197期 #2

ぷろこん

 「ぼくのひゃくえん」と題された、彼の小学二年の文集の書き出しはこうだ。

 ぼくはきょう、お父さんにひゃくえんをもらいました。ぼくはおこづかいをもらっています。でも、こんげつのおこづかいはもうもらいました。ごひゃくえんです。でもお父さんはぼくにひゃくえんをくれます。お父さんはぼくにひゃくえんをくれると、どこかにいってしまいました。

 誤解を与えないように付記すると、彼の父親は特にその後失踪したりはしていない。作文はその後、百円で買えるもの、買えないものが列挙され、次ののような終わり方をする。

 ぼくはひゃくえんをいつかつかう日がくるとおもって、つくえのひきだしにいれました。

 その机は彼が小学三年生になり転校するときに引き取られ、百円玉はついに使われること無く机の引き出しに眠ることになる。しかしその顛末はどうでもよい。大事なのは彼の文集の中身ではなく、その周りにたっぷりとある余白にいったん書かれて消された文字列だ。ガリ版刷りされた文集ではきれいに消されてしまっているがオリジナルの原稿の鉛筆跡はくっきりと以下の文字列を浮かべる。

 ぼくはぷろこん、

 ぷろこん。消費を専門的な生業とするもの、プロのコンシューマを略して称されるが、彼が小学二年生の頃はまだそこまで知れ渡っている言葉ではない。
 その後の彼の消費遍歴はまさにプロコンの名にふさわしい。コト消費という言葉では補足できない。彼にかかればどんな日用品の購買もドラマチックな物語に早変わりする。消費それ自体が価値を生むお金の使い方。原始的な例では高級店でのカードを出す仕草や、コンビニでおつりを777円に合わせるところから、大きな例では戦闘機を1円で買う芸当まで。誤解されやすいのだが、彼らプロコンはコト消費に特化しているわけではなく、購入したモノにもぞくぞくストーリーを付加していく。その最先端で活躍する彼が、プロコンとしての自覚が芽生える瞬間が私の手元にある。

 私は彼の消費の熱狂的なファンだ。この原稿を手に入れるために投じた資金と労力はスマートとは言い難いが、アマチュアの消費者としてはよくやった方だと思う。いつか彼はとてもドラマチックな方法で私からこの文集を買う。そのときは、あのときの百円を持ってきて欲しい。もしくは、彼の消費の琴線にはこの原稿は触れず、私は何の意味も無い、紙切れを手元に、老いて死ぬかも知れない。それはそれでいい。



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