第196期 #7
見習い猫には、まだまだ覚えることが沢山あります。
その日は、初歩中の初歩である、右のレバーと左のレバーについて教わったばかりでした。
「いいか」と指導官は、胸に付けた一級指導官のバッジを光らせながら言いました。「この左右のレバーはな、ちょうど正午になると左右の役割がそっくり入れ替わるようになっている。従って右は左になり、左は右になるのだ」
見習い猫は、説明を聞くとしばらく腕を組み、急に何かを思い出したように口を開きました。
「指導官殿。私は子供の頃、レバーが嫌いでした。肉だと思って食べたら、どこか粉っぽいし、変な味がするので、なんだか騙されたような気分になったものです。大人になってもやはり好きにはなれないのですが、その不味い味がむしろ懐かしくて、心が少しほぐれることがあります。だからぜんぜん好きではないのに、無性にレバーを食べたくなる自分がそこにいるのです」
指導官は、ずいぶん人間っぽい話をする猫だなと思いました。そこで、手に持っていた見習い猫の書類をのぞいて見ると、経歴の欄に元人間だったことが書いてあります。
「無論、指導官殿が説明しているレバーと、食べるレバーは違うということは知っています。それに指導官殿の講義を私の話で中断させていることにも心苦さを感じていますし、あるいは猫のくせにお喋りが過ぎると不愉快に思われているかもしれません。ですが、まだ私が人間だった頃は、ほとんど他人と喋るということがなく、石ころのように自分を打ち捨てていたような気分でいました。自分は価値の無い人間であり、石ころに等しい存在なので喋る必要はないと……。しかし不思議なもので、猫になった途端に言葉があふれ出るようになったのです。雪が溶けて川が流れ出す時のように、私の中で季節や景色が変わっていったのです。私は猫になったことで、人間の頃に持っていたあらゆるものを失いました。しかしその代わりに、私は自分の言葉を見つけることが出来たのです。とはいえ、その言葉をどう発音したらいいのかということはまだ分からないのですが、こうやって喋っている時にぴったりとくる言葉を発音しているかもしれないと思うと心が踊ってしまい、指導官殿の左右のレバーの説明を聞いている最中も自分の言葉を発音することで頭がいっぱいになって、ちょうどいま正午になったので左右が入れ替わったのだなあと思うと同時に、お腹も空いてきた次第であります」