第192期全作品一覧

# 題名 作者 文字数
1 最後の色相 世論以明日文句 733
2 ババーキッチャ テックスロー 1000
3 愛の渇望 雨ケ崎 夜 475
4 人間型 安井 馨 959
5 魔女会議 舟都倶睦 999
6 アンドロメダ 霧野楢人 1000
7 誕生 たなかなつみ 860
8 小説機械 euReka 1000
9 彼岸の森 塩むすび 1000
10 双眼鏡 岩西 健治 1000
11 スカーフのゆれかた ハギワラシンジ 747

#1

最後の色相

 最初は、空から色が消えた。
 テーブルの上、白いクロスの上に置いた写真立てに、供えた青いアネモネが音を立てた。
 ベランダから見える街並みに、一筋、いつも変わらない川が流れている。川に掛かる橋の上で、人と車と二輪車、交わらぬ車輪が流れ続けている。
 果てぬ日々に枯れたまま、泪は沸くことを忘れていた。彼女との明日は、どこかに閉まっておいたままだ。今は記憶が、愛しくて堪らない。

 アネモネが一つ鳴くと、世界から色が一つ消えた。写真に残る彼女の笑顔も、色が一つずつ消えていく。
 毎朝、二人で煎った最後のブラジルを淹れる。部屋は香りに包まれて、舌の上で苦味を転がす。止まった時の中で、繰り返すことで、いつしか苦味も感じない。

 幾度と訪ねる中で、いつか見たあの国の街並みを思い出す。色の溢れる市場で一枚の絵を買った。部屋の壁に残ったまま、色が欠けた姿を残し、今もそこからこちらを見ている。
 硬い額縁のなか、色彩豊かな大橋と、リオの描く色相を、一つひとつ紐解いて、もう一度、瞼の裏で紡いでいく。

 川から色が消え去って、僕達がすべての色を失っても、いつもと同じ朝がやってくる。
 朝のカップに黒くブラジルが満たされていく。蜜を加えて、苦さの中に甘さが立つ。
 空を空として保とうと、戻らぬ風が流れていく。静かに瞼を閉じる時、ベランダを通り過ぎる風が呟いていく。
 穴が開くほど見つめたと思っていた。写真に一つ種が残っていた。過ぎる日々の先に、迎えられた今日という日を、新しい泪が迎え出た。
 テーブルの上、彼女の写真の中に、消えることなく残っていた。僕を見ていた。気付かなかった。世界の最後に訪れた、美しい生命の色味。薄く赤みを帯びた優しい桃色。写真の中の彼女の爪に、最後の色が残っていた。


#2

ババーキッチャ

「あらもうこんな時間」
 富江は伝票を親指と人差し指とで挟んで立ち上がる。場所が混雑したスーパーなら万引き犯を思わせるような、非常に慣れた、プロの手つきで、その場にいる誰も彼女の初動を止めることはできなかった。
 投手の一瞬の隙を突いたホームスチール。通路に面した二席のうち、富江と向かい合わせ、レジに背を向ける形で座っていた幸美が立ちはだかる。

「富江さんいいわよー、やめてよ、ここは私が」
「あらそう」

 富江は伝票を幸美のみぞおちのあたりに押しつけて出口へ歩き始める。虚を突かれた幸美の脇を
「ごちそうさま」
「いつも悪いわね」
 と光子と美枝子が通り過ぎる。

 幸美がもんもんとしながらも会計を終えて喫茶店を出ると、三人が並んで幸美を出迎えた。
「ごちそうさまでした」
 フライトが到着して航空機から降りるときにされるような、折り目正しい三人の挨拶。特にCAだった美枝子の挨拶は角度正しく、それがますます幸美の感情を逆なでする。気づけばいつも自分が支払いをしている。美枝子はこの中で年少だからかメンバーの中ではちやほやされている。しかしその日はそれで終わらなかった。
 帰宅後、彼女たちのLINEに美枝子が間違って投稿したリンクをたどって、幸美は愕然とする。三人会、と題されたブログは今日の日付、幸美を出迎えた三人が並んで店の前で自撮りをしていた。二週間後はみんなで温泉だねー、仲良し三人娘、と残り二人のコメント。LINEのグループトークはそのリンクを流すようににわかに活気づいていた。

「私も行くわ、温泉」
 一週間後、同じメンツで再び集まり、それぞれの旦那の悪口の発表会が落ち着いた頃、幸美は口火を切った。戸惑う三人を見つめて、
「冗談よ冗談。今日は私払わないからね、ごちそうさま」

 幸美は笑う。せめて気高く。こういうとき、怖い顔をしないのが、年の功というものだ。それから、ババアは、そう簡単に、縁は切らない。グループライン「きっちゃの会」も、抜けない。幸美は十分にババアだが、死ぬまでまだ時間はあるし、そのときまでに、彼女らと温泉にいける日が来るといいな、なんて、本当に思っていたりもする。だから自分からは縁は切らない。

 数年後だが、十数年後でも無いある日の美枝子のブログには、満面の笑みの四人のババアの写真が投稿されていた。判で押したように同じ顔で笑うババアたちの皺はそこから何か読み取ることが不可能なくらい深い。


#3

愛の渇望

「愛が欲しい」
私はそう切実に願うのでした。ちょっとやそっとの愛なんかじゃ足りない、溢れる程に沢山の重苦しい愛を渇するのでした。
けれど周囲は私をおかしいと言う。しかして本当におかしいのは貴方達の方ではないか。
平気で愛すべき人を裏切り、一生を誓いながらも後に別れ行く。
そんなモノが本当の愛だと言えるのか。
私は悲しい。この様に冷めた世界に産まれ落ちたことが。
『愛』というモノがこんなにも軽々しく扱われている事実が。
きっと私はこれからの人生、本当の愛を知らないままに一生を終えて行くのだろう。
愛の本質は、自身も相手も満たし満たされ、互い無しには生きられない程の情愛。どんな者も、その二人の間には入れない。いや、入ることが出来ない。もうそこには二人以外に他者の存在など居ないに等しいのだ。
そんな愛の形の何がいけない?
貴方達は本当の愛を解っていない。『愛』の究極を求めた先にあるモノを何故理解しようとしない。
私は愛を欲する。例え、どんなに醜く泣き喚き、無様に叫ぼうとも愛を渇望する。
その未来が悲劇だろうと、きっと私は『愛』の先を求めることを止められないのだから。


#4

人間型

青年A「先生。今日ここに来たのは他でもありません。僕の元彼女であるMについてご相談するためでして。なんと言いますか、少し、いえ、紛れもなくMは異常なんです。あいつには自傷癖があるのです。先生、これが何かわかりますか。さすがお医者さんですね。そうです。皮膚です。あいつの。正確には、膝の上に位置する肉の一部ですね。ひひ。黒く、萎れているのはだいぶ前に切り落としたからでして。あいつは、自分の肉を常にそばに置いておきたがるので、ご利益があるように神社に奉納してあげようとか適当なこと言って、やっとのこさ持ってこれたんです。Mが自分の肉を切り取るようになったのは、三か月ほど前からでしてね。もちろん、みずから望んで、楽しんでやっています。私が強要したなどとは断じて思わないでいただきたい。気持の悪い。あいつとはもう永久に縁を切ってしまいたい。しかし、このままでは、彼女は自分を痛めつけ続けるでしょう。それは男として、黙って見ているわけには行きません。是非とも、強制入院の措置をとっていただきたい。そのために、あいつの手紙を持ってきました。昨日手渡されましてね。拾い読みしただけでわかりましたよ。完全に頭がおかしい。狂人です。先生にも御覧になっていただきたい。正直言うと、私一人では背負いきれません。助けてください。
 『Aくんはキチガイです。あなたは自分自身をノミで打ち砕いて、破片を集めてくっつけて、別の人間になりきろうとしていますね。理想的な人間に自分を再構築しようとしているんです。そんな気持ちの悪いことはやめてください。そして、言葉で簡単に私を分解するのはやめてください。もう耐えられません。私のことを、キレイだとか、女はヤキモチだとか、SHISHAMOが好きだとか、生理でイライラしているとか、昔いじめられたから精神不安定なんだとか、思わないでほしい。あなたは、自分の言葉で周りのものを整理しやすいようにに切り刻んで、飾って、それを見て悦に入っているだけなんです。そして、そのナイフで自分自身の無駄な所を切り捨てて、理想的な自分に成形して、喜んでいます。私とおんなじです。あなたは目に見えないものを切って、私は目に見えるものを切っている。ほとんど変わりません。』
 どうです。先生。やっぱりあいつはキチガイでしょう?」


#5

魔女会議

「おや、もう十時ですわよ」
というのは南の魔女。タンクトップにショートパンツ、大きなサングラスをしている。
「あら、十時なんてのはまだ宵の口よ、お嬢様」
と嘲笑うは北の魔女。カナダグースを着ている。
その言葉が気に障った南の魔女。手に持った結露したコップを強く握りしめる。
「馬鹿にしてるの? 私はあなたが目をしょぼしょぼと眠そうに瞬かせているから助言してあげたのよ。感謝が足りないんじゃない」と。
それを聞きピクッと眉を動かした。手を温めていたおしるこの缶をテーブルに置く。
丸テーブルを挟んで座る二人。境界線を挟んで一方はかんかん照り、もう一方は豪雪である。
北の魔女が口を開く。
「そういえばあなた、夏休みの課題は終わったの?」
すると南の魔女は一瞬たじろぎ、額に浮かぶ汗を拭う。手元の温度計は四十度を越している。
「あなたに言われる筋合いはないわよ! だいたい」
「本当は羨ましいんじゃないの?」
北の魔女は缶を開けながらいった。すると南の魔女は顔を太陽のように真っ赤にして叫ぶ!
「なっなんでよ! 私があなたを羨む!? ありえねえ〜! それこそあり得んわマジで!」
コップに手が当たりサイダーがこぼれる。こぼれたサイダーはテーブルの境界を超えると、たちまち氷になった。
「あら、喋り方を忘れているところを見ると図星のようね」
北の魔女は口に手を当てて笑う。それを見てキーッと更に怒る南の魔女。
「もーなんなのコイツ! 寒くて喜ぶ奴なんていないんだよ! バーカバーカ」
すると流石にイラッとしたのか北の魔女、
「はい? 何いってんの。寒さこそ至高よ」
二人の罵倒が飛び交う。するとカーディガンを羽織った少女がテーブルに近づいてきた。それを見た夏の魔女、
「......誰? あんたどっちから来たの」
少女の手にはつくしが握られている。
「あっちの寒かったり暑かったりした方向! なんというか、丁度いい感じ」
南と北の魔女は顔を見合わせる。
「てことはこの子......西の魔女?」
それを聞いた西の魔女は、大きくうなづくとつくしをテーブルに置いた。
途端、まるで夏と冬の壁がせめぎ合っていたような空間は消え、どこからか鶯の声が聞こえてきた。
西の魔女は笑っている。
辺りを困惑しながら見渡す北の魔女。しかしすぐに微笑を浮かべて南の魔女へ話しかけた。
「こういう感じでいいんじゃない?」
タンクトップを着た少女は一瞬顔をしかめながらも、また笑みを浮かべた。


#6

アンドロメダ

 今夜は星がよく見えるよ、と美結は言った。丘には二人の他に誰の気配もなかった。綺麗に見えなくては困る。ここにないあらゆるものから僕は逃げてきたのだ。
 上空のオオジシギに「だめだよ、今夜は星を見るんだから」と嗜める声。美結は楽しんでいるだろうか。それが気になるせいで、僕はまだ彼女の顔をよく見ていない。

 僕の担いできた三脚に、美結の抱えてきたプロミナーを取り付ける。流石にこの作業は体が覚えていた。手こずって美結に笑われた頃が嘘のように、自分の道具のように扱えた。しかし、星のことはまるでわからない。
「あれがデネブ」
「ブー、あれは土星」
 プロミナーを覗く。なるほど土星の姿が見えた。
「博識ですな」
 躊躇うように服が擦れる音。それから、
「わたしね、鳥を見るのが楽しいと思えなくなった時期があるの。代わりに星の勉強ばっかりしてたんだ」
 その時期は僕と親しくなる少し前だった。美結という人間は、一から十までずっと鳥が大好きなひとだった、わけではないらしい。いくつかの星座を教わるうちに、彼女に目を向けることに抵抗がなくなった。瞳が微かに星明かりを反射している。
「美結の一番好きな星はどれ?」
 小さく唸ってから、美結はプロミナーを覗き、調節した方向に指をさした。
「ぼんやりした光、見える?」
「うん」
「あれね、星じゃなくて、銀河なの」
 頭を殴られたような衝撃があった。目を凝らすが、眉間に力が入るばかりで仕方なく、美結に代わってレンズに目を当てた。空に浮かんでいる天体は小さくても確かに、本やテレビで見たような大銀河だった。途方もない世界が広がっていた。同時に、美結の匂いに気づいた。
 このプロミナーから眺めてきたものが、遠くの銀河と重なっては消えた。森林公園に現れたというアカショウビンを探した。ウミガラスを見に離島にも行った。ハヤブサの巣を観察しよういう美結の誘いが僕らの始まりだった。マンションに作られた巣の営みを、静かな講堂で息を潜め、僕らは窓から何時間も見守った。
「星じゃないけど、一番好き」
 顔を上げ、美結を見たが、咄嗟に声が出ない。勘違いなのはわかっていた。僕を待つ不確かな日常に、こんな星空はないのだ。それでも、美結のいた日々が宇宙の全てであるような気がした。そうあって欲しかった。

「覚えておくよ」
「うん」
 この日を、とは言わなかった。代わりに暗順応した目で、僕は美結の輪郭をキリキリとなぞった。


#7

誕生

 こつこつと外側から音が聞こえてくる。それはとても耳障りで、不安な気持ちばかりを煽るから、力いっぱい耳を塞いで縮こまるけれども、そんな些細な抵抗などものともせずに、それは続く。こつこつと、こつこつと。あるときは背中側から、あるときは右から左から、あるときは表から聞こえてくるので、小さな丸い部屋のなかでは逃れようがない。そうして耳を塞いで不安定な格好を保っているあいだに、やがて慣れてくる。自身は耳障りな場所にいるということ。自身はずっと不安を感じる存在であるということ。
 扉のない硬い球体だと思っていたその部屋が割れるのは、一切の前触れなく、突然のことだ。自身の両脚で立つことを知らない生まれたての雛は、殻の外に刻まれた夥しい紋様を目にする。雛にはそれが文字だということはわからない。それに意味があるということもわからない。
 ただ、自身を守ってくれていた殻にその紋様を刻み続け、最終的にそれを割るに至ったノミを持った一個の存在が目の前にいることだけはわかる。雛にとってたとえようもなく不快だった騒音の持ち主が、自身と同じく小さな身体を持ち、やはり両脚で身体を支えることのできないひ弱な存在だということを知る。
 雛は脅える。雛は脅えない。雛はもう騒音から逃れた。雛は静寂が怖い。雛はもう身体を伸ばすことができる。雛の身体は固まったままほぐれない。雛は解放された。雛は保護を失った。
 脅えた雛は脅えることなく目の前の存在からノミを奪ってその表面に大きな線を穿つ。生まれたての雛の攻撃はどうしようもなく不格好だったが、ノミを振り回すうちに雛は学習していった。動くということ。怒声を浴びせるということ。憤怒ということ。
 ノミを手に血塗れでひとり立つその姿は、もうすでに雛ではなかった。身体の動かし方はもう覚えた。音を操る方法ももう覚えた。もうほんの少しも脅える理由はない。
 自身が出てきた殻の外側を覆う文字の意味を教えてくれる存在を自身の手で葬り去ってしまったことに対する恐怖を学ぶまでには、もうしばらく待たなければならない。


#8

小説機械

 SF小説のような話になってしまうが、私は小説を書く機械である。小説機械というと、テーマや登場人物などの条件を与えると自動的に小説が作成されるという従来のタイプを想像する人も多いだろう。しかし私の場合は、与えられる条件が無く、すべてを自由に書くことが求められる特殊なタイプの機械なのだ。だから必ずしも人間が読みたいものを書けるわけではないし、話が脱線したり、いつまで経っても終わらないこともある。

 そういえばこの間、近所の子どもが訪ねてきて夏休みの自由研究を手伝って欲しいと頼まれたことがあった。自由研究とは自由に研究の題材を決めて取り組むものであり、その子どもは、自由に決めていいと逆に何をやっていいのか分からなくなるということで悩んでいたのだった。自由に対する悩みは私も同じだったので、私と子どもは、とりあえず縁側でスイカを食べながら種の飛ばし合いをしてその距離を競うことにした。ちなみに私は人間とそっくりの姿をした機械なので、スイカを食べたり人と直接喋ったりすることが出来るのである。なぜ人間そっくりの姿に造られたのかというと、小説を書くためには人間としての経験が必要じゃないかと私の製造者が考えたからだ。なので私は、機械でありながら学校へ通ったり、友情や恋を経験したこともある。学校のみんなは私が機械であることを知っていたのだが、私が人間の姿をしていたせいか、友情や恋心を示してくれた子も何人かいた。そして私のことを好きだと言ってくれた女の子とはデートをしたり、性行為に及びそうになったこともあった。彼女は、人間か機械かなんて関係ないと言って私を抱きしめてくれたのだ。しかし、そのことを知った製造者と学校側からストップがかかってしまい、私は学校を退学させられて、彼女との関係もそれっきりになってしまった。

 私は小説を自由に書くことを人間に求められてはいるが、すべての行動の自由が認められているわけではなく、そこには機械としての限界があるのだ。しかしそれもまた人生であるし、もしすべてが思い通りになったら、小説に書くことが無くなって私は困ってしまうだろう。ところで言い忘れていたが、私が今いる場所は南極であり、縁側の向こうには白い氷原が広がっている。スイカの種飛ばしに飽きた子どもはペンギンを氷の上で滑らせるという遊びを思いついたようで、自由研究の悩みなど初めからなかったようにはしゃいでいる。


#9

彼岸の森

 ずっと雨が降り続いていた。ある日の夕暮れ時、帰宅した私を首を吊った母と弟が迎えた。部屋がひどく散らかっていた。母が暴れる弟を無理やり吊ったのだろう。食べカスが散らばるのを嫌ってゴミ箱を抱えながらメロンパンをかじるような弟だった。部屋には汚物の臭いが立ち込めていた。換気のために窓を開けた。雨は上がっていた。西日を受けて煌めく二人はてるてる坊主のようだった。風が吹き込んで風鈴がちりんと鳴った。母を叩くとぴゅうと空気の抜ける音がした。

 二人の葬儀はひっそりと行われた。父は葬儀の費用のことで母をなじり続けた。お前も死ねという言葉は飲み込んだ。
 母は癌になってからというもの、やたらと死にたがっていた。弟はお供に選ばれたのだろう。もう一人送ってやるから待っていろよ。おかしなもので、声に出してみると勇気が湧くのだった。家族に恵まれない子はヒーローを胸に持つことが出来ない。ブレーキは壊れたままだ。

 魔物は血を流さないという伝説になぞらえて獲物はスレッジハンマーに決定なのだ。刃物を使ってもしも血が出てしまったら魔物ではないということになってしまう。それではいけない。それとスコップとビニールシートに花の種も少々。安い買い物だ。父の命は安い。
 穴は予め掘っておいて葉っぱで偽装。追加の種も忘れずに。暴力は老若男女分け隔てなく凛として平等で、死は歓迎されている。
 決行当夜。酒に酔って寝た父の頭を叩いてシートにくるんで車で森へ。血よりも体液のほうが多かったのでギリギリセーフ。人間は意外と死なない。母の努力が窺える。これは生まれて初めて自分の意志でやり遂げた仕事だったのかもしれない。私にはこの世界でやっていくだけの力があるのだ。

 ◆

 墓参りはする気が起きなかったが、父の埋まっている森には頻繁に通うことになった。焦りがあったからだ。
 森は腐葉土と虫の体液の臭いが立ち込めていた。花が咲いている。掘り返せば父が埋まっているはずだった。土の中からシデムシが湧き出した。
『赤黒い太陽が私たちの虹彩の中に落ちてゆき薄暮を飲み込んで魂を夜に捧げるのだ』
 不思議な描写が脳裏を掠めた。記憶を探る。思い出の中の父の書架の片隅の埃の中の腐敗した一冊が音もなく捲れてゆく。煙草の先にしなっていた灰が砕けて落ちた。受け止める物が必要だ。たとえばゴミ箱のような。
 シデムシが私を見ている。私はシデムシを踏みにじって土へ還した。


#10

双眼鏡

 私の体験は、例の怪談とはちょっと違う。登場人物は兄ではなく姉で、姉は閉鎖病棟に入った。その姉に最後に面会したのは、私が高校に入学した年である。
 母方の祖父母の家。バードウォッチングにはまっていた姉は、高校の入学祝いに祖父から双眼鏡をプレゼントされた。姉だけでは不公平だと、私も祖母からゲーム機をそのとき貰った。貰ったその日はあいにくの雨。私は姉といつも遊ぶ二階の部屋にいて、貰ったゲームをしていた。バードウォッチングができなかった姉は、窓から雨に沈む田んぼを双眼鏡で眺めていたと思う。
「あーぁ、つまんない。次、ゲーム代わってよね」
 それが、正常であった姉から聞いた最後の言葉になった。ゲームがクリアできて、私は姉の方を見た。姉の最後の言葉から一〇分は経っていたと思う。
「次、おねーちゃんの番」
 姉は窓の外を見ながらぼーっと、ただ突っ立っている。私が声をかけても反応がない。姉は遠くの田んぼの、ただ一点を凝視しているようだ。姉の視線の先を追ったけれど私には何も見えなかった。それからすぐに、階下の両親に姉がおかしいことを告げた。詳しいことは知らされなかったけれど、その後、姉は入院した。いくら心が崩壊したとしても、親族であるなら許容できると信じていた。けれど、私は姉の言動に慣れることはできなかった。
 私が高校を卒業する頃、両親が離婚して、私は父と暮らすことになった。母は精神を病んだため実家に帰り、私と姉が遊んでいた、あの二階の部屋で療養を始めた。姉に最後に面会したのが高校入学のときであると言ったのは、姉がその後すぐに自殺したからである。心の治療を専門とする病棟で、万全の体制であったはずだ。それでも姉は死んだ。それが原因で、母は精神を病んでしまった。
 月に一回、母に逢うため私が祖父母の家へ行くと、母は決まって遠くの田んぼの一点を凝視していた。姉の形見の双眼鏡を使って、姉の見ていた方向と同じ一点を静かに見つめている。
「何見てるの」
「ううん、探してるのよ」
 そんな母に私は看護専門学校の合格通知を見せ、近況を報告した。

 姉が統合失調症だったことは後になって知った。霊や祟り、怪談の類いに似せて、例えば、姉の発症環境と病状は「くねくね」に酷似している。けれども、私の体験と、その怪談の発端に時間的な合理性はない。「くねくね」は二〇〇三年、2chに書き込まれたのが最初とされる。私は当時三歳だった。


#11

スカーフのゆれかた

 後輩が中国人の手下になっていた。中国人の手下になった大学の後輩。彼は僕が紹介したバイトも辞めて消息を絶っていた。いろんな人に心配をかけていたけど彼は誰にも行き先を告げずにいなくなった。
 久しぶりに見た彼はゲーセンの前で怪しい小物を売っていた。それは妖しくひらひらしていた。
 僕たちは部活の帰りだった。他の部員は彼をみとめるとはっとして歩みを止めた。そしてきまずくてそいつの脇をすっと通り抜ける。後輩はそんな僕らを覚えているのかどうかわからない、なにも話しかけてこないでにやにやしていた。
 ゲーセンの中では高校生のカップルがいる。中国人の手下は彼らにあやしい商品を売り付けようとする。後輩はにやりと売り文句を垂れ、頭の悪そうなカップルはきゃっきゃっと喜んで買っていった。
 僕は彼に話しかける。
「お前なにしてんの?」
「みてわかりません?」
「わかんないよ」
 後輩はいつまでもにやにやしていた。
「お前いろんな人に迷惑かけてんだぞ。わかってんのか」
「知りませんよそんなこと」
 彼は心の平安を得たかのように笑っていた。手にあやしさを持って。
「静かにしていることが美徳だと思うなら土にでもなってしまえばいいんですよ」
 彼は誰に向けるでもなくそう言い残し去っていった。
 雨が降っていた。駅前で高校の時の友達に会った。彼はまだ高校生をやってた。あのときと変わらない背丈で僕を見下ろしていた。彼女がいて幸せそうだった。僕らは過去について少し話し、別れた。帰りに彼が僕にスカーフをくれた。きっと傘を持たない僕を憐れんだのだ。
 僕はそいつからスカーフをもらって駅の階段を上っていると滑って転んでしまった。その場面を大学のゼミの女の子たちに写真を撮られ、彼女たちは笑った。僕も笑った。スカーフなら造作もないことだった。


編集: 短編