第191期 #6

五輪書

 二〇二〇年。喉は乾ききっていた。戦いよりも、まず生ビールだった。
 戦いが終わった涼しい店内で生を一気に流し込む。喉がしびれると同時に目の表面に水分が満たされ、涙のように目をうるわす。追い越せるという安堵感からなのだろうか、武蔵の脳裏には、すでに勝利後の妄想が広がっていた。そして、実際に武蔵の前をいくアイツの背中は武蔵に手が届くほど眼前にあった。
 武蔵が荒い息をはくと同じように肩を上下させるアイツにだけ意識を向ければいいのではなかった。武蔵の背後には武蔵を追い越そうともくろむヤツもいた。武蔵がスピードをあげると、それを見計らったかのようにヤツもまたスピードをあげる。背後からの圧力。武蔵はそれを背中に強く感じる。
 武蔵が力を入れた脚は弧を描くように空転する。上手く先へは進んでくれない。疲労である。そして、それはアイツとヤツも同じだった。

 何故、戦うのだろうか。敵と味方、異星人と人間、怪獣と人類、そのような対立はどこから生まれるのだろうか。前を行く者と後に追う者、武蔵はなぜ、彼らと戦っているのだろうか。人間は本質的に戦わなければならないのだろうか。平和を語ることは本質を消し去ろうとする建前なのだろうか。映画。アニメ。ゲーム。実際の戦争はなくなっても、娯楽の中で絶えず戦いは繰り返されている。
「戦いは惰性で繰り返されるのさ」
(どこかで聞いたようなセリフだな。俺もまさに無意味な戦いをしている一人ではないか)

 とりあえず生。
 武蔵はそんな哲学を芳醇な泡で一掃した。自転車を漕ぎ出せば、反対のペダルは自動的に繰り出され、そのペダルを押し込めば、また、反対のペダルが繰り出される。武蔵の足はまさしくその繰り返しだった。これは反復運動であり、本質ではない。
 目の前のアイツに意識を集中させる。アイツを追い越して戦いを終わらせる。武蔵個人にできることはそれだけであり、そこに血は一滴も流れない。

 手を伸ばし、呼吸を合わせる。
 アイツの肩をつかまえた瞬間だった。ふいに肩をつかまれた武蔵は振り返った。けれども、武蔵の背後には誰もいない。それでも肩の感触だけは生々しくある。そして、武蔵が前に向き直るとアイツも消えていた。武蔵の体幹を喪失感が貫く。アイツを追い抜くという闘志は消えたが、足だけは空転を続けていた。
 七十五年目の夏、追うことも追われることも忘れた武蔵の頭上に空は蒼く、気温は四十度を越えた。



Copyright © 2018 岩西 健治 / 編集: 短編