第190期全作品一覧

# 題名 作者 文字数
1 スイカ 萱島 蓉子 775
2 いっそ嫌いになりたかった ウワノソラ。 993
3 感情泥棒 テックスロー 998
4 夏の夢 霧野楢人 1000
5 雨ニモマケヌ 岩西 健治 1000
6 大富豪の家政婦 宇加谷 研一郎 1000
7 スピーチの草案 qbc 1000
8 繋がれた男 塩むすび 987
9 任務遂行者と監視役 euReka 1000

#1

スイカ

大人になって、スイカが食べられなくなった。
あんなにも大好きだったのに、成長するにつれて、知らぬ間にスイカを受け付けない身体へと、ゆるやかに変化してしまっていたらしい。
でも、小さい頃に夢中でかぶりついたあの味を、温度を、風景を、私はまだ鮮明に覚えている。
丸いフォルムに、真っ赤な果肉。溢れ出る甘い果汁で喉を潤すのが、私はたまらなく好きだった。うだるような夏の暑い日に、キンキンに冷えたスイカが食道を通りながらゆっくりと体温を下げてくれる心地よさは、今でも忘れられない。
食べ方にもなんとなくこだわりがあって、三角形に切ったスイカの一番下、緑色の皮が現れるギリギリまで味わうのが私の長年のお気に入りだった。赤と緑の境目にある、甘味と苦味が混じり合った癖になるさっぱりさが、少しもたれた口の中をリセットするのにはちょうど良かった。あの味を感じることで私は、ああ、スイカを食べたんだなあと満足感に浸ることが出来たのだ。
しかしこんなにもスイカが好きな割には、私は何故か食べるのがずっと下手だった。口が小さいのか、持ち方が悪いのか、毎回のように飲み込みきれなかった赤い蜜で口元をびしょびしょに濡らし、何本もの雫を襟元まで走らせては、呆れた声の母にしょっちゅう怒られていた。それでも決してスプーンを使わず、かぶりつくことをやめなかったのはきっと、真っ白のおしぼりで少しだけ乱暴に口を拭ってくれる母の手に甘えていたかったからだと思う。
今はもう、あの頃のように自由にスイカを食べることは出来ないし、これから先もそれは変わらない。けれど、私のなかに蓄積された何十回もの夏が、思い出の中でいくらでも私にスイカを食べさせてくれるから。
遠い昔、陽のあたる縁側で初めて頬張った、宝石のように輝く瑞々しい果実。その甘く懐かしい味が、じゅわりと口に広がったような気がした。


#2

いっそ嫌いになりたかった

嫌いになろうとして、でも頭にこびり付いて。
貴方が居なくなって、連絡先さえ知らないというのに今だに心の隅には貴方の残像がいつまでも消えない。

雨の日に、ふと傘を差してスタスタと早足で歩く人が私を見て会釈をした。

「……、? お疲れ様です」

ヘッドホンをしていたから、何か言ってたけど何言ってるかも分からないし。
通勤帰りだったから、ここで声を掛けられるとしたら同業者なのかな…と推測して自然と出た言葉は お疲れ様 だった。
よくよく見ると、1年以上前職場が一緒だった人によく似ていて。でもやっぱり違ってて、本当に誰だか分からない。

あ……、この人も音楽聴いてるから私の声なんてあんまり聴こえてないよね? チラつくイヤホンのコードを眺めて考えた。



――この知りもしない会釈をした人に『よく似た』とある人の事が、私は昔好いていたんだと記憶が湧いて出て心臓が軋む。

確かあの人も、早足で私を追い越して、いつも音楽を聴いていたような……。


昔ドギマギしながら、「井上さんは、普段どんな曲聴くんですか?」と尋ねた事がある。
それで、教えて貰ったアーティストの名前を 意 地 で も 、覚えの悪い脳みそに記憶させたのだ。その名前だけは忘れまいと。

持っていた音楽雑誌を家で開くと、たまたまそのアーティストの記事が載っていて嬉しくなって。夢中になって雑誌を読みふけった。
今となってはどんな記事だったかも記憶には残ってもないけど、そんな感情だけは覚えている。
好きな音楽だけでもいいから共有していたくて、早速私はレンタルショップへ行ってちゃんと覚えておいたアーティストのCDを借りた。

ただ、それだけなのにその曲を聴くと特別で、なぜだか切なくなったのだ。

今、あの人は、何をして、何を聴いて居るのだろうか……?

「こんな安い給料のとこ、いつまでも働いてられるか」

そんな文句を垂らしながら、職場を彼は辞めてしまった。
連絡先を聞く事も私はあえてしなくて、ただ「寂しくなりますね」とだけ零してはにかんだように笑っていた。


そうして、その人の居なくなった席に数ヶ月後、何故か私がその席に座っている。
移ったばかりの頃は薄汚れたデスクに、キーボードにはコーヒーが飛んだ跡がちらほら残っていて堪らず私は掃除した。


「……全く、」

そう零しているのに、心はニヤついて気色悪くて。

ああ、なんだかんだ慕っていたのだなぁとデスクを布巾で拭きながら思ったのだった。


#3

感情泥棒

 返事はいい。しかし伝えたことが正しく遂行されない。そのくせ、要求だけは1人前。いや、その要求も、腹立たしいことに、一応は遠慮してみせるが、その遠慮が最終的に彼に与える利を最大化している。労働を効率化することに全く創意工夫を施さない。全く同じところでミスをする。彼にとって労働とはなんだろうか。
 すべてがいやいや。やらされている感。部のゴルフコンペがあるので、一応彼に声をかけると、「行きます」と。それで打ちっ放しに行くことに。ドライバー。まっすぐ飛ばない。ネットで検索。なるほど、体重移動。右足に体重をかけ、それを左足に。違う。ボールはすべてスライス、右方向。
 恐ろしいのは、それを飽きもせず、100球近く続けている。たまらず声をかけると、半笑いで「なんでまっすぐ飛ばないんでしょう」そこで教えてやる。スイング後に脇を締めること、のけぞらずボールをのぞき込むようにして打つこと、身体を開かないこと。
 「やってみて」
 ボールはまだスライス気味だがさっきよりはまっすぐ飛んだ。彼の目に浮かぶ少しの喜色。
 「いいね、ナイスショット」
 上気した彼は調子に乗って打ち込み始める。するとまた彼の身体は開き、ボールは右方向へ。
 「意識して、ボール」
 彼が萎縮したのが分かる。固い身体で振り下ろしたブリヂストンのパーシモンはティーの下面をかすると鈍い音を立てた。父親にもらったものだという。

 たぶん君には今よりいい居場所があると思うんだ。その言葉をぐっとこらえる。俺には分かる。この手合いは自分から辛いと言ってくることはない。ずっと辛そうにほほえみ、じっと我慢し、自分のエネルギーから、不満や、不平を差し引いたほんの少しの余りで撫でるように仕事をする。その対価として我々とほぼ変わらない、給料を面白くも無い顔をしてもらって家に帰る。同情すると小出しに自分の事情を話し、どうでもいい昔のエピソードなどを少しずつ開示する。そして十分自分が同情されていると分かった時、共犯者のような顔をして開き直る。この感情泥棒め。
 気づくとまた犬のようにクラブを振り始める。叩かれたボールは醜い軌道を描き続ける。球数を見ると214とある。彼はドライバーを振るたびにの手のひらを気にするそぶり。肉刺がつぶれて血が出ている。それを見つめて横目で俺を捉えてまたボールを叩き始める。
 残っていてもいいが、帰ってもいい。本当にどうでもいい。


#4

夏の夢

浅い川の流れを足に感じた。瀬に溜まった砂の中へ、少しずつ沈んでいく。その感覚から根を張るように川面が広がっていく。
昼前に川で遊んだのだ。淵の方に魚が見えて、追いかけようとしたら、岸で見ていた父に怒鳴られて思わず立ち竦んだ。気持ちだけが川に流れて、流水と細砂の冷たさだけが、ずっと残っていたようだ。
背伸びをしたり、中腰になったりして、魚は見えないか、色々な角度から川面を眺めてみた。日差しが白く反射して煌めく。その合間には高い木々の影が映って、魚は見えなかった。
顔を上げて振り返ると、岸に父はいなかった。山間の空が濃くて恐ろしかった。雲ひとつなかった。父は空に食べられてしまったのだろう。次に食べられるのは僕かもしれなかった。
頭の上を小鳥が掠めた。小鳥はまっすぐに、川の向こうにある枯れ木へ飛んで行った。枝先に溜まった小鳥は青い、オオルリだった。オオルリが大きく口を開けて、澄んだ声で鳴く。
鳥が飛んできた方を見た。岸辺に少女が立っていた。
「危ないよ、早く川から上がっておいで」
少女は僕を呼んだ。
「でも、空が」
「空より川の方が怖いの。さあ」
川から出た僕の手を引いて、少女は丘に登った。踊るような少女の綺麗な素足に、僕は膝まで捲ったままのズボンが恥ずかしかった。少女は髪が短かったけれど、顔はよく見えなかった。
開けた小さな丘の頂上で、少女と僕は腰を下ろした。
「良かった、あなたが消えないでいてくれて」
少女は可愛らしく笑った。丘からは、さっきまで立っていた川が見えた。ここからなら魚がたくさん見えた。魚たちは皆、底の見えない青い淵を泳いでいる。
「君は誰?」
「わたしはね、あなたのお嫁さんなんだよ」
僕は少女の顔を見た。目が大きいのと可愛らしいことだけがわかった。手に掴んだ草をちぎって少女に吹きかけると、少女は楽しそうに笑いながら草切れを摘み上げた。
「こうしてわたし、あなたが子供の頃に会っておきたかった」
風が強く吹いて、草切れが舞い上がった。少女の隣にいるのに、穴に落ちたような気分になって、僕はこれが自分の夢なのか、少女の夢なのか、わからなくなった。
穴じゃない、空だ。
もう一度風が吹いて目を覚ました。祖母の家は風通しが良いのだ。蝉の声が聞こえるが、家族の音はなかった。きっと出かけているのだろう。
縁側に出た。まだ夏休みだった。木の葉や草に照る光がかぼちゃ色に変わり始めるのを、僕はしばらく呆然と眺めていた。


#5

雨ニモマケヌ

 父の死から二十年が経った年、母が死んだ。雨の日だった。
 それからしばらくして、年老いた政治家が死んだ。次に、芸能人が続けて二人死んだ。一人は若く、これからだというときに急性白血病になり、もう一人は性的暴行の罪を悔やんでの自殺だった。梅雨に入り、叔母が乳ガンになった。その頃、伯父さんが死んだ。ここまでが僅か一年弱。
 伯父の葬儀が終わって、その足で叔母を見舞い、帰宅した家は暗くガランとしていた。ドアの閉まる音が強くこだまして、遠くで雷鳴が轟くのが聞こえた。椅子に座っても涙は出なかった。
 それからも世界は死んだニュースで溢れた。
 戦地では十歳に満たない女児が自爆装置にされ、スラムでは少年が暴行され死んだ。高位の僧侶の死で、ある国の体制が替わり、殺人鬼の死刑執行にある種の人間だけは陶酔した。
 休日。河原。少年野球。
 呪いという免罪符で片付けられれば気が楽になるであろうかと私は考えている。人は誰だって死ぬのだと私は考えている。いっそ、この川に身を投げれば楽になるであろうか。私が生きる意味は何であろうかと私は考えている。

 妹が子を産んだ。
 抗がん剤治療が終わっても叔母の経過観察は必要だった。
 近所に子犬が産まれた。三匹に触れた指の匂いを嗅ぐと、いつか嗅いだことのある、あの犬の匂いそのものだった。
 自然林を歩く。木漏れ日。ウグイス。花火。海水浴。紅葉。霜柱。紅白。桜の季節。
 妹の子は一歳を過ぎ、私を見ても泣かなくなった。
 妹の旦那と飲んだ。旦那はいつも笑っている。年下の旦那を私は見ならおうと思う。
 妹の子が三歳を迎え、私は結婚した。妻は料理が好きだと言って私を好きだとも言った。だから、私も妻を好きだと言った。
 帰宅した家には明かりが灯り、雷鳴は聞こえない。
 来年、我が子が産まれる。
 妹は私にとって妹であるが、妹の子は私の子にとって姉であることが不思議だった。
 明かりの灯った家は暖かく、それが、想像以上だったことを父母の墓前で呟いた。
「何か言った?」
「別に」
 隣の妻の問いを私ははぐらかす。
 妻が唐突に言う。
「叔母さん良くなるのかしら」
「生存率って、どれだけ生きられたら幸せだと思わなくちゃいけないんだろうね」
 雨が降り出すときのひと滴が頬に当たる感触は突然であると私は知っている。人は突然死んでしまうんだと私は知っている。それでも、妻を持ち、子を授かり、あのときの子犬も家族になった。


#6

大富豪の家政婦

「今日、いやなことがあった」

 女はそういって、ごろんと横になった。その部屋には、熊のぬいぐるみがあって、それは僕が女にプレゼントしたものである。女はぬいぐるみを抱きしめながら右に左に寝返りをうっている。

 女は大富豪の家政婦をしていた。

大富豪という人種は、平凡な家庭にうまれた女の人生観というものをことごと打ち壊してしまう別の星の生き物であるらしい。

僕が女と出会ったのは、女がすでに大富豪の家政婦として働いていたころで僕らは街で出会いがしらにぶつかったことがきっかけだった。

ナンパということになる。

僕が「シナモンロールでも食べよう」と誘ったのだ。

後に女は僕が「シナモンロールを食べよう」と意気込んで誘ってきたことが「かわいかった」といった。シナモンロールを食べようというのは「俺の肖像がはいった金貨をあげるよ」という“大富豪”に比べると、実に温かいことばだったというのだ。

僕が彼女にぶつかったときの彼女の姿はお忍びのスターが気まぐれで遊びにきたような格好で、それでいてふとももが大胆に露出していた。太いサングラスがよく似合っていて、目の部分がすっかり隠されていた。

けれどぶつかったとき、そのサングラスがズレて彼女の瞳が、これも露出したのである。

その女の瞳にすいこまれた僕は、一瞬にして女が、ひとりぼっちであることを読み取った。

 僕たちは、恋人同然に会うと互いの部屋ですごしたり、料理を作ったり、お風呂にいっしょに入ったりした。けれど恋人同然であっても、恋人にはなれない。

 女は僕に「女」と名乗って、実名をあかしていない。

「私ほんとに女なの」

 と、女は言った。


驚いたのは女のアパートへいったとき、表札が「女」となっていたことだ。しばし考え込んでしまった。

女が「女」になった理由には、大富豪が絡んでいることを知った。

 大富豪は名前を買い取ってしまったという。名前を売った経緯について女は言わなかった。

 女が勤めている大富豪の屋敷は、日本になかった。女は毎朝赤坂にある某大使館に入る。その大使館には最新鋭飛行機がやってくるらしく、空気の色に化けるその音速飛行機にのって、女は大富豪の屋敷にむかうのだという。

 女が「今日、いやなことがあった」と言っている。僕は女に近づいて、彼女の豊かな髪にふれる。それはもはや毛ではなく、太陽があたった夏の小川のせせらぎのようである。女の髪に触れているだけで、僕の手は喜ぶ。 


#7

スピーチの草案

 ご結婚おめでとうございます。もう一度。おめでとうございます。
 二年前に新郎は私の教え子でありました。実を言えばあまり出来の良い学生でなかったのでありますが勘繰るに彼は私のような学問にまみれた年寄り男のことを珍しく思い、それで興味を持ったのでしょう。よく酒を酌み交わしたものです、よくあることです、好奇心を媒介とした青年と老人の交際。世間一般では普通の、有り得ないことではないです。このスピーチの機会はその縁で頂いた次第です。

 彼が酒席で口にすることと言えば私の専門である考古学ではなく、喰い物と恋でした。
「のれそれ、という魚をご存知ですか?」
「知らない」
「残念です」
 彼は次々と私に話題をぶつけました。私の返事の殆どが「知らない」「興味がない」でした。彼は私の関心領域がどこにあるのか探っていたみたい。「先生の恋愛は?」と問われたことがあります。その時は無言で退けましたが今日ここで応えたく思います。

 私は結婚をしておりません。しかし恋愛を嫌悪しているのではありません。私は淡い恋を好みます。自分と相手の心がふれるかふれないかの、その間の煙のような感情を愛しています。
 健康で艶やかな、肉づきの良いのが私の理想です。それは私の職場の手伝いの女性かもしれません。私は恐らくその女性を一目に見て恋したと思う。彼女は私によく飴を呉れます。その他の仕草の観察からも彼女が私に良い感情を抱いていると思う。だが告白の仕方が分からない。
 文献を取ろうとした時、彼女と手と手がふれあいます。温もりが伝わる。体温は様々な感慨を催させます。そして肌、驚きの小さな声。また視線が瞬間に交わる。互いに微笑を浮べ手を引く。
 私はそれだけで満足です。あの体温。肌。声。視線の交錯。あの頬笑。それだけでとても官能的です。私はその感情の記憶を再生し、反芻します。何度も何度も。彼女が私を愛しているという予測は、もはや確信に変わります。
 しかし確信はやはり行動を促しません。私はお気に入りのレコードに毎晩、寝床に就く前、針を落とせば満足なのです。

 ただこのような趣味の私は子を産み増やす重要な事業に参加する意志がないというという点において、自分自身を人類にとっての荷物のように思っています。しかしながら彼は今、子を作るべく家庭を築こうとしています。その素晴らしい勇気をここに心から賞賛したいと思います。
 ご結婚おめでとうございます。


#8

繋がれた男

 ペンを走らせる音だけが響いている。石壁に閉じられた十畳ほどの部屋は鉄格子で隔たれていて、牢の中には囚人が蹲っている。囚人は左右合わせて三本の指で床の暗がりに生えた苔を削り取ってしきりに口に運んでいる。囚人が狂ってから久しい。
 囚人は主人の人生に癒えることのない暗い傷をつけた。その復讐を受け、ここに繋がれている。囚人にはありとあらゆる拷問が加えられた。あるとき囚人にはその娘の肉が与えられた。飢えていた囚人は三日と持たずに娘の肉に手をつけた。飢えるたび肉を乞うようになるまでさほどかからなかった。怒りや悲しみはすぐに鳴りを潜め、生き延びるためと寝言を繰り返しながら残り全てを喰らい尽くす様をこの目で見た。
 痛みが囚人に後悔と絶望を与えることはなかった。囚人はただ痛み苦しむだけで、それ以上のなにをも引き出すことはできなかったのだ。囚人は復讐を受けるに値する人間ではなかった。囚人の人生にとって主役は自分ではなく、自分の立てた波紋ですら対岸で眺めているような愚かな人間だった。無様にもがく滑稽な姿はすぐに飽きられた。そして復讐は途切れ、消えることのない深い憎しみと諦めと、この厄介なお荷物だけが残った。
 主人の運命は、復讐するか深い憎しみを断つために自殺するかに分かたれていた。始まる前から終わっていた復讐において、囚人に何が為せるだろうか。がらんどうの飴細工のようなすかすかの倫理観のまま苦しんで死んだとして、何の意味もない。それならば生きてここを出て、受けた仕打ちを世に暴露したほうが、復讐が確かに存在したことを世に知らしめることになる。囚人がここを出るには牢番の手助けが必要だが、牢番は主人を裏切ることなどできない。だが牢番は主人の復讐に加担してここにいるのだ。
 ペンは走り続ける。記憶を掏り替えるのは容易い。いつか誰かの人生に黒い染みを落とした記憶に被せた蓋は悪臭を放つ。誰も与り知らぬところで事故にでもあって死んでいてくれた方が喜ばれるのだろう。
 天窓から牢に差し込んだ焼け付くような陽射しが正午を告げる。灼熱の太陽は実体よりも影を色濃く浮かび上がらせる。囚人は汚物まみれの身体をもぞもぞとよじって日陰へと逃げ込み、身体を丸めて時が過ぎるのを待つ。やがて熱を拭い取り、なにもかもを癒す夜は訪れる。過去は掏り替わらない。誰もがここに繋がれている。ペンの音は止まない。


#9

任務遂行者と監視役

 自分の正体がバレた時、必ず見るように言われていた封筒を開けるとこう書いてあった。
「この手紙を読んでいるということは、あなたは取り返しのつかないミスを犯したということですが、いまさら後悔しても仕方ありません。まずあなたは、重大なミスにより現行の任務が終了したことを自覚し、すみやかに次のプログラムへ移行する必要があります。また、現行任務の後処理等は、当局の専門班によって行われるため、あなたはこれ以上本件に関わることは許されません……」

 私はこの後、更生施設に連れて行かれ、再生プログラムというものを三年受けて再び仕事に復帰した。しかし今度の仕事は、正体がバレてはいけない任務遂行者と呼ばれるものではなく、その人間を監視する方の仕事だった。とはいえ監視役も秘密の仕事なのだから、一般の人に正体がバレることは避けなければならない。しかし、監視役は基本的に現地の人々と親しく関わることがないため、そもそも関心を向けられることがないのだ。なので任務遂行者と比べると、正体がバレることを常に心配する必要がない分、精神的には楽な仕事だと言える。

 しかし監視役を始めて五年過ぎたある時、担当していた任務遂行者の少女が自分で正体をバラすという事件が起こった。彼女は、生きて帰れる保証のない地獄のような場所へ向うことになったのだが、家族や友人に黙ったまま行くのは悲しいので、事情を説明するために正体をバラしたのだった。本来であれば正体がバレた時点で任務終了となるのだが、回収班が到着する前に旅立ってしまったので任務はそのまま続行されることになった。当然、彼女の監視役である私は責任を問われ、再び更生施設へ入ることになった。

 私はその後、仕事復帰と施設送りを何度か繰り返した。最終的には施設内の清掃をする仕事に落ち着いたのだが、またミスをしたらどうなるのか分からない。自分の正体をバラしたあの少女も、任務終了後に仕事を転々とさせられて、結局は私と同じ仕事をすることになった。特に責任が重い仕事ではないので、私も彼女もつかの間の安らぎを感じていたのだが、ある時、私たち二人に再び任務遂行者へ復帰する命令が出された。しかし私と彼女は施設から逃げ出したたため、追いかけてくる連中とたまに戦うことになったのだが、正体がバレないようにしている彼らを見てると、昔の自分たちみたいで少しかわいそうだねと最近二人でよく話すことがある。


編集: 短編