# | 題名 | 作者 | 文字数 |
---|---|---|---|
1 | 途中で有名な金魚屋がある | なゆら | 982 |
2 | 雨のにおいと高架下 | ウワノソラ。 | 999 |
3 | スターフルーツ | 蒼井しの | 586 |
4 | 完璧に黙示的な気分 | ハギワラシンジ | 455 |
5 | 森のくまさん | 岩西 健治 | 1000 |
6 | 問. | テックスロー | 993 |
7 | だるまさんになる | 宇加谷 研一郎 | 1000 |
8 | 叫んでいいんだよ | qbc | 1000 |
9 | テラリウム | 塩むすび | 993 |
10 | 正直者の世界 | 志菩龍彦 | 998 |
11 | 一人暮らし | euReka | 1000 |
すれ違う瞬間、男は微笑んで会釈したからたぶん知り合いなのだろうが、記憶にない。忘れているだけだろうと、高をくくって急ぐ。と後ろから肩をぐっとつかまれて、引かれる。体勢を崩しながら見ると男の微笑みだ。続いて腹部に鈍痛、とともに世界が反転。
意識を失った私は男に倒れ掛かり、男はなお微笑みのまま、受け止める。それから停めてあるセダンに運ぶ。あくまでも大切な商品を扱うバイヤーのように慎重に、無駄がない。セダンのトランクは意外に広く、人間がらくらく入る。詰め込めば5人ぐらいは入るだろう。エンジンがかかり、振動が伝わった唇からよだれが垂れる。
男から鼻歌が漏れる。甘いポップスだ。嫌い。全然嫌い。やめてほしい。耳が腐る。私の意識は戻っていないけれど、細胞がそう言ってる。荷物にそれを指摘する権利はないわけで、身を任せる。道が悪いのか、男の運転技術が悪いのか、やけに揺れる。意識があったら体のあちこちが痛くなるだろうな。あざが残ってしまうかもしれない。見える部分に付かないようにせめて意識よ、戻れ。
停車し、男はセダンから出る。家がある。中に人がいる。やはり母だった。男と母は親しげに言葉を交わす。男がトランクを指差す。ふたりが微笑む。近づいてくる。トランクが開いて、男と母は私を取り出して家に運ぶ。この道具は30キログラムしかなくて簡単に運べるから便利なんですよ、と女性アシスタントが微笑むように、母は運んでいる。どこか心躍っているように見える。
家の中はとても暖かい。大きな緑色のソファーがあって、そこに父がいる。隣に私は置かれる。父は視覚と聴覚を奪われ、裸でいる。無理矢理というわけではないのは、意識があり、なおかつひどく勃起していることからわかる。父が探ってくる。それが人で女だということはすぐにわかる。父は隣にやってきた道具をどうやって使えば、母が悦ぶだろうかかと考えているのかもしれない。父は乱暴に私の服を脱がそうとする。母はなおも微笑んだままで、それを見ている。
3時間後、私は男によって同じ場所に戻される。歩いている目的はなんだったのか思い出そうとする。アルバイトに行くはずだったが、もう間に合わない。店長はひどく私を叱るだろう。家に帰ることにする。途中で有名な金魚屋がある。そこでお友達の金魚に今日の出来事を報告しよう。金魚はぱくぱくぱくと餌と私の話を食うだろう。
高架の下、雨のしのげる場所。人通りも疎らな夜に、僕はあまり上手くもない歌とギターを披露していた。雨がしのげると言っても、時折吹く方向の定まらない風が細かい雨粒を運んできて、ギターのボディーに貼りついてくる。楽器って水を嫌うんだよな、分かっていながらギター虐めていた。ここでは自分の持ち曲2曲を何度も何度も繰り返し弾くのが常だ。立ち止まる人も居ないから、繰り返しに飽きるのは自分以外居ない。
半時間ほど経ち、雨脚が少し弱まってきた頃足を止める女性が居た。傘もなく、白のTシャツが雨で透けて肌に張り付いていた。手には酎ハイの缶を持って、ぷらんぷらん揺らしている。2曲した後に声を掛けてみた。
「風邪引きますよ、こっち側のが雨まだマシですけど」
「そうだね」
とぼとぼと、缶を片手に彼女はこちらに来た。よく見ると落ちたマスカラや、よれたアイメイクで目がドロドロだ。それと雨のにおいに混じって、酒やら汗やらの臭いで息苦しくなる。
「はぁ……。これくらい、ゆっくり見るライブが丁度いいね」
雨にこれだけ濡れながらなのによく言えますね、と本当は突っ込みたいくらいだった。
「そこのライブハウスに行ってたんだけどね、モッシュが激し過ぎて吐きそうだったよー。揉みくちゃ過ぎて途中ブラジャーのホックも外れるし、最悪」
「それはちょっと危険ですね」
透けまくりのその赤いブラジャーのホックも大変だな。ただ初対面男性に対していきなりそれをぶっちゃけてしまうのは、やはり酔いが回っているからなんだろう。僕は苦笑いする。
「ライブは痴漢する奴も居るからねー。今回のは女性ファンが多かったから、どさくさ紛れにホックも直せたけど」
「ははっ、凄いですね」
やや乾いた声で笑うしかない。隣の女性はフワフワ揺れて、愚痴を言っている割には機嫌が良さそうだった。
「いい歌だね、なんか暗いけど歌詞がすごく耳に残る」
「ありがとうございます、こういうのは雨にやるのがいいでしょ」
「確かにそうかもね!」
汗臭くて酒臭い女は、乱れた髪の毛の間から無邪気な笑顔を覗かせた。
「風邪引く前に早く家帰った方がいいですよ」
「んー……、でも。今はもう少し君の歌を聴きたい気分かな」
女の期待した眼差しがこちらに向く。
「はぁ。仕方ないですね、じゃあ最後に一曲だけ」
ギターのボディーをゆっくりと3回ノックして、大人しめのギターに乗せ歌を始めた。雨粒が着いたギターは冷たい。
「わあ!可愛い!」
コース料理の最後に出されたデザート、彼女はそれを見てはしゃぐ。さくらんぼとオレンジと黄色い星形の果物が添えられている。あまりにも可愛い可愛いと言う彼女に店員が話しかける。
「スターフルーツ、可愛いですよね」
「これスターフルーツって言うんですか?」
見たままの名前じゃないか、と思った。でも彼女はその名前も気に入ったらしい。また可愛いと言った。
このレストランでコース料理を注文したのは初めてだ。平日の夜だからか客は他にいなくて、店員がすぐに皿を下げて、次の料理が運ばれてくる。彼女は美味しいと言ってすぐに食べてしまうから、僕のほうが彼女を待たせることになる。
彼女とは大学のサークルで知り合った。もう付き合って長い。社会人になっても何も変わらない。あいつはどうしてるだとか同じような話をしている。どこにいるとか誰といるだとかそんなことくらいだ。2人で一緒にいる時間は、学生時代の延長線上なのかもしれない。
前菜、サラダ、主菜、パスタ…コースが進むにつれて、お腹がいっぱいになったわけでもないのに、箸が進まなくなってくる。でも僕と違って彼女の食べるペースは変わらない。
彼女は変わっていない。むしろ綺麗になった。
いつもと同じように、彼女がトイレに行っている間に会計を済ませて店を出る。
スターフルーツは見た目とはうらはらに、ちょっとだけ酸っぱい、味の薄い果物だった。
「君の視点はどこから?」
「私は肌から」
蒸し暑い部屋。湿気を帯びたシーツが僕の肌に張り付く。寝転がってブローディガンを読むと天啓を受けた気分になった。
テレビでは男女が先ほどから自分の視点について話し合っている。それは意味のないようなことに見えたし、現に意味のないことだ。
それは誰が考える?
と僕の思考を妨げるものがいる。それに実態はない。あるのは香りで、その香りはお風呂のにおいだった。妹が風呂に入っているのだ。僕の部屋の窓は開け放たれていて、そこから香りが立ち込めてくる。
この蒸し暑さに対して僕が心得ていることはあんまりない。それが世間で言う怠惰だと、このときの僕はほとんど分かっていない。
窓を開けて空を見ることは、とても直喩的な行動で、それはみらいへの開放を暗示している。「でもそれは真っ暗じゃないか」夜の空気を吸い込むと、それは沈黙を帯びて僕の肺を大理石にする。
僕は妙に黙示的な気分だった。空の暗闇は僕を明日にいざなっているかのようだった。僕ベッドに寝転がる。意識を絶つ。暖炉の炎を消すように。
戦争だと言うのでついて行くとそこはゲーセンだった。くまさんを撃ち抜く対戦ゲームはゲームにうとい僕でも知っていた。
「戦士は多い方がいいからな。だから初心者のおまえも誘った」
普段、そんなに会話のない同僚の織田は画面を操作しながらそんなことを呟いた。一通りの操作を教えられ、まずは訓練コースという実際の対戦ではないコースでの飛行訓練を行った。
「なかなか筋がいい」
織田のレベルがどの程度かは知らないが、なぜか教官のような口調で僕に言った。僕は532という数字をたたき出した。それはすごいことらしい。明日は実戦へ出るということが決まって、その日は解散となった。
帰路、僕は何度かまばたきをした。近距離ばかり見ていたのでピント調整機能がまだ回復していない。夕日がやけににじんで見えたのでコンビニで目薬を買った。
風呂からあがり、ニュースでは、空爆があったこと、民間人が大勢死んだことを告げていた。空爆の場所は僕の知らない外国だったが、それよりも死者の数、532という赤い数字の偶然に釘付けになった。
次の日、ゲーセンには20人が集まった。軽い自己紹介(ハンドルネームの登録)があって、僕はそんなこと聞いてなかったから、急遽、532をハンドルネームとして登録することにした。
戦車隊、飛行隊、戦艦隊の三つのステージがあり、どこからでもスタートできるが、定員があり、僕は一番人気のない戦車隊をあえて選んだ。なぜ、戦車隊が人気ないかと言うと、戦車は相手陣地へ直接乗り込むからで、それは相手から逃げられないこと、即ち死を意味していたからだ。途中昼飯をはさんで前後半で六時間、各隊で奪ったポイントの報告と戦況の説明のあと解散となる。一番人気の飛行隊は十人で、奪われたポイントは682、奪ったポイントは1055、戦艦隊は七人で、奪われたポイントは284、奪ったポイントは783、そして僕らの戦車隊は三人、奪われたポイントは132、奪ったポイントは498だった。総ポイント数は少なかったが、ポイント比3・77は歴代三位の成績とのことだった。
帰路、何度か目薬をさし、コンビニでチューハイを買った。
風呂からあがるとニュースが流れていた。昨日と違う外国の街で内戦があり戦車で民間人を攻撃したとのことで、死者は赤い数字で498だった。デジャブでも見ているかのようだったが明日も対戦がある僕は、チューハイを飲んで早々に眠った。
以下の設問に答えよ。
45個のリンゴが34個の籠に入っている。この時、ほかの籠に入っているのは何か。
ある会社において入社試験で使われている設問である。受験者は誤植ではとまず疑うが、質問は受け付けられない。限られた時間と情報のなかで受験者は必死に考え、答えを導こうとする。問の末尾が「何だと考えられるか」や、「考えを述べよ」などで終わっていないことから、明確に答えがあると出題者は想定しているらしい。
言葉遊び的なアプローチをするもの。すなわち、本来はリンゴと同じ個数の籠が用意されていて、一つの籠に一つリンゴが入るはず(なぜ?)だったが、二個リンゴが入ってしまった籠がある。つまりリンゴが入っていない籠が45−34=11個。11個、ジュウイッコ、ジューイッコしたがってジューシーなイチゴである、と回答欄に「イチゴ(ジューシー)」と書く。
数学的なこじつけをするもの。45は素因数分解をすると3,3,5、また34は2,17である。34個の籠とは、2と17の素数で囲まれた素数の範囲であると解釈し、その中にリンゴの数の素因数分解で得られた5と3以外の素数が「ほかの籠」に入っているものであると考える。すなわち7,11,13である、として、「7,11,13」と書く。
試験対策本に忠実に時間の無駄と何も書かずに次の設問に移るもの、「何もない」と書くもの、「分かりません」と書くもの、空っぽの籠の絵を書くもの、「みかん」と書くもの、「空気」と書くもの。
これらはすべて正解である。厳密には正解ではないが、模範解答ではある。入社試験は正解を求めるためではなく、受験者を選別するためにある。この問に関しては、ほかのどの設問よりも選別基準が低い。基本的に何を書いても書かなくても、回答が全体のスコアに与える影響は皆無である。また、回答欄には計算や思考のプロセスを記載する余白はないため、回答へのアプローチで差別化をはかることは不可能である。
しかしまれに本当の正解にたどり着くものがある。なんの迷いもためらいもなく、回答を一読した出題者が一番しっくりきてしまう正解を回答欄に書くものがいる。正解を発見した出題者は、口惜しいような、うれしいような、何とも言えない顔をする。
そのような受験者はほかの設問の回答がいかに良くとも、落とされる。しかし提出された履歴書は無期限に保管されることになっている。
風呂場のとびらをあけると、さっきまで意識していなかったがピンクのマットが敷いてあって、私の濡れた足の水分をマットのふわふわした部分が素早く吸いとっていった。浴室内にたちこめていたシャワーの湯気が洗面所の鏡をくもらせていた。火照った私の身体は急速に冷やされている。私はあわてて洗面所の換気扇のスイッチをいれた。
私の住処とは、いろんな点がちがっていた。頭が禿げあがっている私には必要のないドライヤーがとりつけてある。放置された洗濯物などひとつも見当たらなかったし、洗面所には歯磨き粉の泡でできたシミもなく、頭上の明るい照明は私の醜い容姿をはっきりと照らしていて、くもりが消えて埃ひとつついていない鏡がありのままの私を映していた。
彼女が用意してくれていた新品の下着は私の身体にぴったりの5Lサイズで、上も下も赤色である。
「だるまのような男性を探しています」
インターネットの掲示板でみつけたとき、私はそれがある種の冗談の一種かと思った。誰もが心に病みを抱えているこの時代特有の、毒にも薬にもならない嘘なのだろうと思ったが、そもそもこのような書込みに目を通しているくらいに私も疲れていた。掲示板には詳細が書いてあって、「私の家でダルマさんが転んだをしてくれた方に謝礼を100万円はらいます。ただし私は女性の1人暮しですから希望される方は免許証のコピーをあらかじめ添付してメールしてください」というものだった。
私は下着のまま洗面所をでて長い廊下を歩いて彼女の待っているリビングへ向かった。下着でというのは彼女の指示で、それは私をより本物のだるまに似せるためだった。
リビングの扉を開くと併設している巨大なシステムキッチンに彼女が立っている。最初一目みたときも驚いたものだったが、どうしてこれほどの美人がこのような奇妙なことを企むのだろう。彼女はカウンターで珈琲をつくっていた。豆を業務用の電動ミルでひくと、光サイフォンで珈琲を抽出しはじめ、その間私のことを犬か猫のようにしか見ていなかった。
自分より随分年下のはずなのに、彼女には相手を跪かせるような圧倒的気品と自信でみなぎっていて、私は黙って彼女が珈琲を作り終わるのを待った。
「どうぞ」
私は珈琲がまったく飲めない人間だったが、一口すすってみるとこれまで飲んできたものは珈琲のような別ものだったことがわかった。
「飲み終わったら、ダルマさんしますからね」
彼女が言った。
選択肢などなかった。満月の青い夜、母は僕を産んですぐにいなくなった。被っていた母の皮を脱いだようなものだ、どうってことない。それから僕は襤褸のように無価値な物を着ると透明に近づけることを知った。だから汚い服を好んで着ている。この性癖のせいで、おかしな姿の人に妙な親近感を覚える。けれども接触しようと思ったことはなかった、これまでは。
職場に小出茉莉という人がいる。小出さんは髪を二つに結ってピンク色の何かで全身を装飾している。この幼児趣味は奇形を騙ったり偶像と同化したりというよりは、自分が可愛いと思える物を身に付けることである種の安寧を得ている、いわばお婆ちゃんのお守りのようだった。小出さんの皮は他者との溝を底上げして埋めるためのものであり、僕の皮とは違う。小出さんは耳にだけ青いイヤリングをしていた。
小出さんと仲良くなると、織田真紀という人物が僕に関わってくるようになった。彼女は社会性と女性らしさとの調和を取った小綺麗な出で立ちで、化粧や声の綺麗な人だった。だからこれが皮だとは思わなかった。このときは話が合ったような気がしていて、はじめて友人と呼べる人物を得ることができるのかもしれないと胸がときめいた。織田さんにあるとき飲みに誘われた。バーで待ち合わせたところ、彼女は毛玉の立ったジャージの上下姿で現れて、汚れた青い眼鏡を掛けていた。今から思えば試し行動なのだけど、そのときの僕はくだらない話題のことで頭がいっぱいで、外見のことなんか気にもかけていなかった。彼女は震える携帯をポケットにしまい込み、青いカクテルに口を付けながら僕から何かを見透かそうとしていた。でもそのときの僕には気が付きようもなかったし、選択肢などなかった。それから僕は織田さんの自宅へ招かれた。小出さんもいるとのこと。けれど社内で二人が会話しているところを見たことはなかった。織田さんの手の中で携帯が震え続けていた。
織田さんの自宅のドアは目の覚めるような青で塗り潰されていた。部屋の明かりは消えていて、けれど電気のメーターは激しく回転していた。やがてドアの鍵は室内側から開けられた。お試しではなく本番を迎えたのだ。僕は合格したのだ。織田さんと小出さんの捌け口として、彼女らに被られる皮として。異物が呼吸をするための皮。闇の中で輪郭を溶け合わせる二つの影。その夜は満月で世界は群青色に沈んでいた。僕には
晴れた日曜日の午後、後藤博は街を歩いていた。
街は妙に閑散としていた。普段なら人でごった返している街路には、退屈そうな浮浪者が一人座っているだけである。
ふと、後藤と浮浪者の目が合った。途端に、後藤の頭の中に、あるイメージが浮かび上がった。髭面の浮浪者が、ビールを片手に焼肉を頬張っている姿である。
それが彼の一番の〈欲望〉だった。後藤の脳がそれを読み取り、イメージが像を結んだのである。
自らの秘めた〈欲望〉が、他人に伝わってしまうという現象が起こり始めたのは、今から一週間前のことだ。半径五〇メートル以内の人間なら、誰にでも〈欲望〉を読まれてしまう。目を合わせた場合はより確実だった。
この現象によって、人々の生活は一変した。今や誰もが他人と顔を合わせるのを恐れ、一億総引きこもりの様相を呈している。
後藤は落胆した様子で溜め息を吐いた。浮浪者の〈欲望〉があまりにも下らなかったからである。しかし、反対に後藤の〈欲望〉を感じ取った浮浪者は、顔を青褪めさせ慌てて逃げていった。
後藤は苦笑して、他の人間を探した。彼にとって、他人の〈欲望〉を垣間見るのは面白い趣味である。自身のものが伝わるのは構わない。人間の裏側を覗けるなら安いものだ。
交差点に差し掛かったところで、後藤は交番を見つけた。此処なら人間がいる可能性が高い。案の定、真面目そうな巡査が勤務中だった。
後藤は「すいません」といきなり交番の中に頭を入れた。反射的に顔を上げた巡査と目が合う。瞬く間に、〈欲望〉を知った巡査の額に油汗が浮いた。目を見開き、後藤を凝視している。巡査は咄嗟に拳銃を引き抜き、後藤に突きつけた。
後藤はそれにも動じず、薄ら笑いを浮かべながら、言った。
「……まだ、僕は何もしてませんよ。ただ、やってみたいと考えてるだけです」
巡査の引き金にかかった指はブルブルと震えていた。だが、その顔はどこか引き攣ったような笑みを浮かべている。後藤は銃口を見つめていたが、やがて肩を竦めて、
「止めておきましょう。まだ、駄目ですよ。僕も、貴方も」
そう言い残して、あっさりと踵を返して交番から出て行った。
巡査はどっかりと椅子に腰を落とすと、肺に溜めていた空気を大きく吐きだした。血走った目を瞑り、何度も深呼吸をする。だが、絶えず指は拳銃を弄くっていた。
そうして落ち着くのを待ちながら、彼はふっと呟いた。
「……惜しかったなあ」
私はアパートの部屋に住んでいる。それは確かなことだ。
しかし問題なのは、玄関のドアを開けると地面が存在しないということだった。それに玄関や窓の外には暗闇が広がっているだけで何も見えないから、部屋の外がいったいどういう状況になっているのか全く分からないし、地面がないから無理に外へ飛び出したら奈落の底に落ちてしまうかもしれない。ようするに宇宙空間のような場所にアパートの部屋だけが漂っているという状況らしいのだが、いずれにしても部屋の外へは一歩も出ることが出来ないのだ。
しかし、ありがたいことに電気や水道は止まっていないし、食材も知らないうちに補充されているので生活に困ることはない。おまけにインターネット回線も繋がっているから、ネットを楽しむことも出来る。もちろん、この状況に陥った当初はパニックになったが、生活の不便もなく、働く必要もないので、次第にこれはこれでいいのかもしれないなと思うようになった。私は元々人付き合いがほとんどないので、外に出て人に会えなくても困らないし、とりあえず生きていければそれでいいじゃないかと。
十年ほどその奇妙な生活を続けていたある日、アパートの部屋に一人の女性が訪ねてきた。宗教の勧誘だったのだが、その女性は、存在しないはずの暗闇の地面に立って私にパンフレットを渡すのである。
「ちょっといいかな?」と私は、女性の勧誘トークを遮るように言った。「何をどう話したらいいか分からないけど、まず聞きたいのは、君がどうやってここへ来たのかということなんだ」
すると女性は、何かを考えるように胸の前で腕を組みながら言った。
「あなたの言いたいことは分かりませんが、あなたの苦しい気持ちはお察しします。だからこそわたしは、あなたを助けるためにやって来たのです。どうやってここへ来たのかは思い出せないのですが……」
女性の説明を聞いても何も分からなかったが、彼女にも帰る場所がなかったので、その後私たちはアパートの部屋で同居を始めた。するとそれに合わせるように、部屋の間取りが広くなったり冷蔵庫が大きくなったりした。そして彼女との間に子どもが生まれると、今度は部屋の外に庭が出現したり公園や保育園が出来た。やがて近所に人が引っ越してきたり商店街が出来たりして、彼女が来てから十年ほどで大きな街になっていったのだが、まだ暗闇の部分も多いので、うっかり落ちないように気を付けている。