第188期全作品一覧

# 題名 作者 文字数
1 フレーバー テックスロー 997
2 ある心 5895 765
3 何年何か月。 さばかん。 813
4 月光屋さんの紙弁当 海音寺ジョー 863
5 放課後 かんざしトイレ 1000
6 アートの外でダンス 岩西 健治 1000
7 受容と風化と俯瞰 ウワノソラ。 998
8 恵美の或る一日 志菩龍彦 1000
9 粉かぶり姫 たなかなつみ 927
10 渋谷オリンピック 宇加谷 研一郎 1000
11 80点の面白い出来事 euReka 1000
12 瘤蠼螋 塩むすび 996
13 ムネモシュネ qbc 1000
14 詩大将 ロロ=キタカ 1000

#1

フレーバー

 なんとなくこの人悲しいんだろうな、と、第三者なりに気づいてしまう経験というのは誰しも一度や二度、あると思う。顔色や表情のちょっとしたこわばりなんかに意識を向ければ、その人の悲しみに寄り添うことは意外とたやすい。いや、実はそんなサインが出ていなくても、沈黙や無表情から悲しみを汲み取ることというのは、簡単なのであって、難しいのはその人がうれしい瞬間を捉える方なのだ。人が本当にうれしい瞬間は流れ星のようで、一緒になって笑っていてふと相手が冷めていることはよくある。
 より子さんはとらえどころのない人だった。人との距離の取り方が抜群で、愛想笑いがとても上手。容易に人に真意を悟らせないが、私はより子さんがうれしい時どうなるか知っている。彼女がうれしい時は、しおのポップコーンの匂いがする。とってもわかりやすい。残業でへとへとになって帰ろうと身支度しているより子さんに、課長が「明日まで」と新しく仕事を押しつけた。ほかの課員は「そりゃないんじゃない」という顔をしたが、より子さんがえっ、という顔をしたときに発したしおのポップコーンの匂いを嗅ぎ逃さなかったので、私は安心して退社した、そんなこともあった。
 とても明るくて懐かしい匂い。私の思い込みといわれればそれまでだが、しおのポップコーンの匂いを発している時により子さんがうれしさ以外の感情を感じているなんて、考えられない。はじけて、乾いて、仕事をこなしている横顔を思い出す時には、いつもしおのポップコーンの匂いがあった。

 より子さんの最終出勤日、みんなが口々に「おめでとう」と言って、より子さんも大きなお腹をさすりながらそれに満面の笑顔で答えているのに、私にはしおのポップコーンの匂いがしなくて、とても不思議な感じがした。神妙な顔をして鼻をひくつかせている私がよっぽど悲しんでいる風に見えたのだろう、より子さんは私の手を握って、「あなたにもきっといい人がいるわ」と言ってくれた。父親になる課長は照れくさそうにより子さんを遠くから見ていた。その視線に気づいたとき、むせかえるようなのキャラメルポップコーンの匂いがして、吐きそうになり私は思わず片方の手で口元を押さえた。より子さんは私の手を握る手を強めながら、「大丈夫、大丈夫」と繰り返し、私は吐き気で一刻も早くそこから逃げたくて、首を振り続けるのに、より子さんはいっこうに手を離してくれそうにない。


#2

ある心

枯れた花は戻らない。
死んだ心は戻らない。
死んでしまった詩は、絵は、思いは消えてしまうだけ。
それを防ぐ為に新しい自分へ移り変わる。
過去の自分を遺産として、新しい自分を作り出し繰り返す。
振り向けば死んだ心の墓が連なっている。
振り向けば幽かな思いを抱いた死骸が連なっている。
一体僕は何代目なのでしょうか。

私の死骸を総て燃やしその炎でパンを焼いた。
過去は味気なく、どんなにジャムを塗ろうと美味くない。それどころかジャムの味しかしなくなる。飾ろうが飾るまいが過去の味は味気なく変わらない。
きっと明日のパンも明後日のパンも味気ない。
止まろうが進もうが過去は変わらない。

死のう。死に場を求めてフラフラと。僕は只夜の街を漂う塵。
昨日。何事も無かった筈なのに心が疲れていたんだね。見えないから仕方が無いさ。
左様。だからこそ溜め込んでしまうんだ。さぁ、もう疲れた。死のう。死のう。死のう。
朝。拝めるかなどうだろう。このまま薬飲んで眠ったまま。
嘘。本当は首を吊るんだ。苦しまない絞め方で。辛いのはもうごめんなんだ。
砒素。飲んでも良いけれど。手にいれる時間が惜しいんだ。僕はもう疲れた。死のう。死のう。早く。
夢。見てたんだ色んな事さ。仕事にお金に君の事。それも全部無駄になっちまって。
駄目。人生とは何だったんだろう。僕自身も駄目人間さ。もう駄目駄目なんだよ。
でね。別に昨日は普通の日だったんだ。だからこそ、何も無い時こそ死に時なんだよ。さぁ、死のう。逃げたい。早く。
結局。疲れて逃げたいだけなんだ。でも休んでも休んでも疲れが取れない。そればっかりか増え続けるんだ。
薬局。薬買い込んで、怪しまれて、人生の様に厳しい目で睨められ辞めてさ。もう、疲れた。逃げたい。早く。死にたい。早く。疲れた。早く。死にたい。早く。辞めたい。早く。
ひっそり。一人首吊ったんだ。


#3

何年何か月。

時間が過ぎるのなんて、あっという間だ。
永遠とパソコンと向かい合い、眠くなったら布団に潜り、朝日がカーテンから漏れ出した頃合いに目を覚まし、リビングの食卓に用意された冷めた食事を口に運ぶ。
毎日の僕の生活は、時間というものをあまり認識せずに行われている。
もう僕のことを諦めた母さんは、それを「ひきこもり」と呼んだ。
僕は否定も肯定もしない。僕は自分を「時間の浪費者」と呼んでいるからだ。毎日部屋にこもってばかりなのは認めるけども、たまになら、夜散歩に出かけることもあるし、どうしても自分が引きこもりというような分類にあると思えない。
もう随分時計というものは見ないけれど、それでも時間が過ぎているのは嫌でもわかる。
最近では、ちょっと前まではうちの前の道路を、本を読みながら歩いていた文学少女は、しばらく見ないうちにセーラー服からスカートの短くなった見知らぬ制服になっていた。スマホを買ってもらったのか、その手には本ではなくスマホが握られていた。
雪が降っていたと思えば、窓を見れば今度は桜が風に舞っていたり、朝がきたと思ったら既に夕焼けが沈みそうになっていたり。
こないだまで元気にしていた祖父は、知らないうちに病気になってなくなっていたり。
ふと、顎をさすったら、自分に少し髭が生えていたり。
ネットには、つい最近まで引っ張りだこだったタレントが不倫やわいせつが露見され、どんどんいなくなり、そして代わりのタレントが人気を出し始める。世間の時の移り変わりは一番早い。

僕が今何歳なのか、そんなことすら忘れて、眠っては起きてを繰り返す。まるで、獣のようだと思った。いや、それすらも獣に失礼だ。生きることに必死な彼らとも僕は違う。それならなんと表現するのだ、今の寿命の長い僕に有り余った時間を浪費する僕は。

いや、結論を出すのは、この長い生涯でめいいっぱい考えてからでいいんだ。いくらだって時間はある。

目をつぶる。

とりあえず今日はシャットダウンだ。


#4

月光屋さんの紙弁当

 ブーは本の虫なので文字を食べるのだが、モニターに走る虚の文字しか摂ったことがなかった。しかし、それらの情報から紙の本というものの存在を知った。大昔は、字は紙に書かれていたのである。いちど紙の字を食べてみたいと、ブーは願った。

 東の方にある飛び地に、紙の本は残存しているらしい。ブーは静電気でぴりぴりするモニター画面を凝視して、走るデータを(食わずに)長い時間をかけて解析し、そのことを知った。月光屋という店に売っているらしい。

 四足歩行動物にまたがり、ブーは東に向かい旅に出た。月光屋に着くまで五箇月かかった。月光屋は飲食店なのだが、旅人のための弁当も売っていて、あらゆる種類の弁当が用意されていた。銀の弁当、銅の弁当、真鍮の弁当もあった。水の弁当、木の弁当、火の弁当もあった。

「紙の、本の弁当を下さい」とブーは注文した。月光屋の店員は、かしこまりました、と紙の本を弁当にしてくれた。
 紙の本をうっとりと眺めながら、ブーは呟いた。
「この、五音、七音、五音、で構成された文字列は何だろう」
「それは昔ほっく、と呼ばれたものだ」
店員は、ブーの質問に答えた。
「では、さらにこれに七音が二度繰り返される列は?」
「それは昔わか、と呼ばれたものだ」
店員は、ブーの質問に答えた。

 ブーは月光屋で買った弁当を包に入れて、四足歩行動物の背に乗り、帰途に就いた。
 夜が来たので、ブーは弁当を食べようと包みを開けた。しかし本はなかった。ブーの隙を見て、四足歩行動物が食べたらしい。
「なんてこった」
 四足歩行動物は、山羊と呼ばれることをブーは今はじめて知った。山羊の乳を搾って飲むと、さらに色々なことがわかった。改めて周囲の景色を見渡してみた。あの高い所は丘というのだ。丘陵の間に覗く、水の溜まっているくぼみは海というのだ。ああ、世界は煌びやかだと思った。意識が明晰になってゆく。脳裏にわいてくる言葉を、噛みしめるように読む。
 ブーは自分の名が無ではなく、舞であったことを知った。歓喜が、彼の心中を満たしていった。

 頭上では、弦月が煌々と照っている。


#5

放課後

 高橋は塾に通っていた。
「おれ今日塾だから」
学校が終わるとたいていそう言って帰っていく。だから今日塾、さらに転じて教授というあだ名になった。うちの学校で塾に通っていたのは数えるほど、大学まで行こうなんてのも少数派だった。
「あいつ馬鹿なくせにさ、きたねえよな」
 田中は勉強嫌いだが物分かりのいい男だ。はっきり言えば頭がいい。勉強も嫌いなふりをしているだけかもしれない。だが結果的に勉強しないから、高橋よりもテストの点数がいつも悪かった。
「ばはは。馬鹿同士仲良くやれや」
 中村は馬鹿だ。ノリのよさで生きている。勉強はできないし、成績も良くなりようがない。部活をやってないのが不思議だ。こういうのは運動部で後輩に威張ったり、先輩を茶化したり、楽しくやっていそうなのだが、根本的なところで従順さに欠けるのだ。
「馬鹿はお前だろう」
 松本は辛辣な人間だ。何を言っても言葉に棘がある。斜に構えているのがかっこいいとかそういう意識ではなくて、天性のものに違いない。こういう発言だけは的確だが、こういうタイプを頭がいいとは言えない。こいつは分かっているという感触が得られない。
「なんだと」
めずらしく中村が向きになった。自称馬鹿の中村が馬鹿と言われて怒るのは奇妙だった。他人から言われると腹が立つといっても相手は松本だ。怒るだけ無駄というものだ。
 田中は少し下を向いて黙っている。松本はいつものポーカーフェイスで中村の方をじっと見ている。中村は怒りを顔に出したままやはり黙っていた。
「おれも帰る」
中村はくるりと後ろを向いた。
「今日は用があるからな」
 田中はそれを横目で見送って、まだしばらく黙っていた。松本も無言だった。もっとも松本の無言はいつものことだった。
「みんな馬鹿なくせにきたねえよな」
田中がぽつりと言った。
「でもお前は馬鹿じゃないな」
松本は無表情で感情が見えない。ほめているのかけなしているのかよく分からない。
「でもお前の家じゃ仕方がない」
「うるせえな。お前はどうなんだよ」
松本はまた黙っている。何かを言おうとしているのか無視しているのかそれすらよく分からない。
「あーあ、おれも帰るぞ」
田中が出ていった。松本はずっと黙っていた。
「お前さあ、なんかしゃべれよ」
松本は苦笑いを浮かべた。
「おまえこそしゃべれよ。お前はおれのコピーか」
松本は立ち上がり、歩き出した。
「お前はおれの影武者か。お前はおれのダークサイドか」


#6

アートの外でダンス

 ※表現を展示するのではなく、表現を創造した脳をけずり、それを展示する。脳の中にあるコンセプト。穴を開けて取り出す。第三の目。開眼。それにはたくさんの目が必要だ(※少年のノートより抜粋)

 屋根裏部屋に引きこもった少年。脳の損傷で死んでしまう。その部屋で発見されたペットボトル。

 そう、それから遺品整理があった。そこで、見つけた。
「何をよ?」
 素材は消しゴムのカスだったかも知れないし、小麦粉を練ったようなものだったかも知れない。
「ちょっと待って。抽象過ぎて分からないわ。何見つけたっていうの?」
 正直、僕もまだ理解しているわけじゃないんだ。だからさ、見たままを言う。抽象と捉えられてしまうのは本意じゃないけど、それはそれで間違ってないと思う。というか少し自分の中で整理する。
 彼の障害がどんな分類の障害だったかを僕は説明できない。ご両親は明るかった。お姉さんを仕事関係で知っていて、頼まれたのは、ほんと、偶然だった。何も力にはなれないと最初断ったんだけど、それでも弟の遺品をとりあえずでも見て欲しいと。
 生前、少年は明るさをひどく嫌っていたらしい。まぶしさや騒音というものにひどく敏感だったそうだ。いつからか屋根裏に引きこもるようになっていて、いつしか、たくさんの顔に囲まれていた。
「顔?」
「そう、その一つ一つに顔があって、小さな像になってるんだ。円空は仏像を十二万体彫ったとされる。ピカソは九十数年生きて、十五万点の作品を残している。でも、まだ彼は十代だ。制作スピードが群を抜いてるんだよ」
「仏像みたいの想像すればいいのかしら?」
「ものすごく小さくて緻密なね」
 米粒ほどの大きさでペットボトルに入っていたから最初わからなかったけど、米は一キロで五万粒ほどになるから、単純計算でも五十万体にはなると思う。
「僕はそれだけで参ってしまったんだよ」
 想像してごらん。幾万もの小さな顔に囲まれて、自身のおでこに自身で穴を開け脳を取り出そうとしていたら。その行為が死因になったけれど、僕は彼を異常だとは思えなかった。それが世界を変えることもないだろうし、そんな事実を知る者もいない。家族は彼の尊厳を守りたいと考えて他言は嫌うだろうしね。精神的な障害とかそんなことじゃなくて、何かこう、純粋、という言葉が彼を支配していたんじゃないだろうかと。
 そう言ってから僕は包みを開けた。
「そのペットポトルの一つがこれだよ」


#7

受容と風化と俯瞰

 14年前の雨が降ったりやんだりで鬱陶しい季節、父が自殺した。その時は丁度季節外れの台風が何年振りかに来ており、不穏な天気に不穏な知らせが重なり余計に胸をざわつかせた。私はその頃まだ高校に上がって間もない多感な時期だったと思う。それもあり私の言動はかなり酷かった。特に母に対して嫌悪感を抱いていた為散々「死ね」とか「気持ち悪い」などの罵声を執拗に浴びせるのが日常だった。甚だしい母への暴言に対しついに逆上した父に「家を出て行け」と言われ、そのまま家出という名の下姉の家に厄介となり始め10日程経った頃、突然の知らせだった。聞いた話によると第一発見者は母。慌てふためき近所の兄の家に電話したが、あまりにも支離滅裂過ぎて何を言っているのかも分からないくらいだったらしい。異様な雰囲気から電話を受けた嫁が駆けつけると家の中で父が首を吊っていたという。
 もう随分前のことだから、父が居なくなったことや自殺を選んだというショックは薄れ客観的に過去の出来事と割り切れるようになった。これは悲嘆のプロセスというものに当てはまるが、キューブラ=ロスの「死」の5段階説によると、死を受け入れていく過程として(1)否定と孤独(2)怒り(3)取引き(4)抑うつ(5)受容 という流れを経るという。
 そういえば最近私が読んでいる本が「自殺論」という海外の著書で、自殺率が地域によって違うが何か自殺率を上げるような法則はあるのか検証していくものだ。昔通っていた大学の先生の推奨図書であり「理論と根拠に基づいた文章であり読み手の好奇心を掻き立てる。余分な表現がなく理路整然としたよい読み物」とのことだったが、私はたちまち飽きてしまった。仮説を立て検証する為に数字を照らし合わせ仮説が証明できるのかどうという、何だかややこしい文章の繰り返しに私の興味はそそらなかった。
 10分と少し読むと眠気に襲われる為少しづつしか頁が進まない。夫に読書に疲れてしまったとその事を話すと、そりゃ眠いだろと笑われる。そのついでに聞いてみた。
「ねぇ、もし私が自殺したらどうする?」
「そんだけよく寝てよく食べて自由に生きてるんだから、それはないだろ」
 やや呆れた調子で、私が自殺するなど想像も及ばないらしい。確かにテーブル上の読書のお供に食べたお菓子の抜け殻達に、ソファーで寝落ちてついさっきお目覚めの腑抜けた私に尋ねられたところでそうもなるかな。


#8

恵美の或る一日

 いつもと変わらぬ朝が来た。
 恵美はベッドから身を起し、軽く伸びをした。時刻は午前七時半。昨日と同じ起床時間。顔を洗い、制服に着替えて、居間で家族と朝食をとる。
 テレビはどの局も同じニュースを扱っていた。映し出される焼け野原。父も母も妹も、ぼんやりとした様子でそれを眺めている。デジャブを感じる光景。あの大地震の時のよう。
 スマホに目を向けた恵美は顔を顰めた。学校からの連絡で、授業は通常通り行われるらしい。何もこんな時に、と思う反面、何故か安堵もしていた。
 通学途中の電車の中では、誰もがスマホに目を落としていた。顔に浮かぶのは一様に曖昧な表情。ピンと来ないのだろう。恵美もそうだった。あちこちで囁き声が聞こえる。「大惨事」、「戦争」、「報復」、「被爆」――そんな言葉が乗客の口から零れていた。
 大変なことが起こったのだ。恵美にはそれぐらいしか解らない。きっと誰もが同じで、出来ることと言えば、取り敢えず会社に行き、学校に向かうことぐらいなのである。
 学校では全校朝礼が開かれた。校長が「冷静な対応」を説いていたが、生徒達が耳を傾けたのは部活動の休止に関する話ぐらいで、後はヒソヒソ話に夢中だった。
 教師が授業を始めても、真面目に話を聞く者はおらず、皆こっそりとスマホを弄くり、ニュースをチェックしていた。教師も見て見ぬ振りをしてくれる。
 昼食を食べながら、恵美は友人達と今後のことを話した。部活の全国大会はどうなるのか。期末テストや夏休みは。殊更に騒いでみせたが、無意識に皆が皆に気を使っていた。居心地の良い空気ではない。
 放課後、人の疎らな校庭で、制服姿の野球部員がキャッチボールをしており、乾いた音を響かせていた。陸上部の恵美も無性に走りたくなった。だから、暮れなずむ街中を、走った。駅から家までの道を、全速力で。
 帰宅してすぐに夕食になった。母から、スーパーでカップ麺を買い漁ったという武勇伝を聞かされる。妙に夕食のカレーが貴重なものに思えて、いつもより味わって食べた。
 湯船に張られたたっぷりのお湯に浸かり、恵美はほっと一息を吐いた。考えるのはこれからのこと。まずは明日の英語の小テストをどう乗り切るか。それから部活の練習をどうするか。アレのことは放っておくしかない。
「出来れば、遠くに落ちて欲しいな」
 そう呟いた恵美が、ふと窓に目をやった刹那だった。
 強烈な閃光が全てを白く塗り潰した。


#9

粉かぶり姫

 浦島太郎が開けた玉手箱のなかに入っていたのは、白い煙。白煙をかぶった浦島太郎はあっという間に年をとって、お爺さんになってしまった。
 わたしが別れ際に彼氏(今となっては元カレ)の浮気相手(実はそちらが本命)にぶっかけられたのは、白い小麦粉。頭からそれをかぶったわたしは別段年をとることもなく、ただ真っ白になって、止まらない咳に悩まされただけ。
 真っ白に染まったわたしは、混乱の最中に捻挫した脚でよろけながら家路を歩いた。思いだしたくもないのに、元カレとのあれもこれもが思いだされて、そうして、なるほど、そうか、そりゃあ、わたしは浮気相手だったわけだから、と納得することばかりのリストを作りあげて。
 なんておめでたい人間なのだ、と、確認させられる羽目になる。
 真っ白に染まったままぼんやりとした頭でアパートまで戻ってくると、向かいのばばあがいつもどおり見張るかのように通りの掃除をしている最中で、小麦粉まみれになっているわたしを見て、蔑んだような目を向けてくる。やれやれ、これはまた大家さんに言いつけられるわ、と思いながら階段を上がろうとすると、あんた、あんた、と呼ばれる。なんでしょうか、と苛々しながら振り向くと、人生悪いことばかりやないからね、と言って、階段に並んで座らされる。あたしもなあ、若い頃にはいろいろあったよ、あたしもあんたと同じでな、若い頃にはいきがってたからな。ばばあは、わかるわわかるわとうんうん頷きながら話を続けるが、そんなことより部屋に戻らせてくれ、早くシャワーを浴びたいし着替えたいんだと心底思う。ばばあの話は終わらない。いつまで経っても終わらない。
 なんてことがね、若い頃のわたしにもあったんだよ、などと意味のない言葉を口から発しながら、隣に座って泣き続ける若い娘っ子の様子を窺う。娘っ子は頭から白い粉まみれになって、顔をぐちゃぐちゃにして泣き続ける。たぶん放っておいてほしいんだろう、一刻も早く部屋に戻ってシャワーを浴びたいんだろう、と思いながらも、わたしは娘っ子に無駄話を続けるのをやめない。意地悪でやっているのではない。親切でやっているのでもない。あのときのばばあが、このあとどうしたのか思いだせないのだ。ただそれだけだ。


#10

渋谷オリンピック

 16年間走り続けた男は、一度もレースで勝ったことがないまま陸上人生を終えた。その理由は男のカニ走りにあった。競技用のピストルが鳴ると、とたんに漫才師がおどけながらカニ歩きするかのごとく、男の顔つきはヘラヘラと崩れ、ひょっとこ顔でペタペタ走るのだ。レースをみている各校の陸上競技部のコーチ、ならびに選手たちは、その無様な状況を無表情でみている。彼ら陸上部員にとって神聖ともいえるレース本番での男の走りは、彼らの怒りを通りこして、無反応となっているのだ。

 男は、練習では走れるのだった。それも、男の本気の走りを一度でも見てしまったならば、惚れ惚れしてしまい、その残像がいつまでも脳裏にのこるような美しいフォームと、激しい動きであった。練習のタイムだけみるならば、男の参考タイムは、当時の日本記録を上回っていた。

 にもかかわらず、本番になると、男はカニになってしまう。脳に問題があるとしか思えなかったが、何度診察をうけてみても異常は認められなかった。しいて理由をあげれば、緊張している、ということだけだった。だがその緊張は数十、数百の試合を経てもとれることはなかった。

 そして大学最後の試合を迎えた。この16年間の日々と、自分の体を思うように動かせない歯がゆさに、レース中でありながらも男は泣いた。だが男の涙は笑顔に変換されていたらしく、ビデオのなかで、男は、叫びにちかい笑い声をあげて踊っていた。泣くことすらできなかったことは男に深い傷を与えた。男は走ることを完全にやめた。

 勤め人となった男はその日、渋谷を歩いていた。すると鳴るはずのないピストルの音が鳴ったのである。たしかに耳の内側に響き渡り、その直後に男のふくらはぎがもりあがった。腕は前にふれる準備ができていた。男はスーツで走り出した。

 その日、渋谷駅前でヤク中の暴力団員が発砲したのだ。一発目は、運良く空にむけられたものだったが、その一発に酔いしれた暴力団員は慄く群衆に狙いを定めて二発目を撃とうとした。引き金がひかれる直前、暴力団員は猛然と走りよってきた男にふきとばされた。

 勿論、あの男だ。運命が邪魔さえしなければ彼は五輪の100メートル走にて、日本人初の金メダル受賞者として報道されていてもおかしくなかった男である。彼は一発目を聞くと100メートル向こうから走ってきた。防犯カメラの分析によれば彼の100メートルタイムは8秒02だった。


#11

80点の面白い出来事

 クリーム坊やは焼きそばが好きだったので、毛の長い犬を見て焼きそばだと思い込むほどでした。なのでその犬が、僕は焼きそばじゃなくてアメリカン・コッカースパニエルだよと教えてくれなかったら、本当に犬の毛を食べていたことでしょう。
「アメリカの国家情報局のスパイです?」
「いや、アメリカン・コッカースパニエルだよ。それに実際に存在するのは中央情報局(CIA)だし、僕はスパイじゃない」
 クリーム坊やは、理路整然とした犬の話を聞いてつまらないなと思いました。犬が焼きそばではないとしても、せめてスパイだったら面白い展開になったかもしれないのです。だからダジャレを言ったのです。
「悪かったよ」と犬は、クリーム坊やに謝りました。「でも、犬がスパイになれるわけないじゃないか。警察犬だって、犬が単独で犯人を捜すわけじゃないし」
 クリーム坊やは、できるかできないかではなく面白いかどうかということが重要だと考えていたので、犬の話を0点にしました。そして犬の長い毛に紅ショウガと青のりを添えると、コッペパンの切れ目に犬を入れて焼きそばパンを作りました。これでようやく50点です。
「わかったよ、僕は焼きそばパンで、しかもスパイさ。見た目が焼きそばパンなら誰もスパイだとは気づかないし、それを買った人のカバンの中にも難なく潜入できる。パソコンの傍らに置かれた焼きそばパンからUSBケーブルを伸ばして、ハードディスクの情報を盗むなんてことも朝飯前さ。でもうっかり食べられちゃったら情報を本国に送れなくなるから、食べられる前に犬の姿に戻って……」
 クリーム坊やは急に犬の話を遮りました。クリーム坊やは作り話を聞きたいのではなく、面白いことが本当に起きることを期待しているのです。でも焼きそばパンになった犬が作り話を喋る様子が面白かったので、プラス2点で合計52点にしました。
「せっかく話に乗ってあげたのに、たったのプラス2点?」
 そう犬が文句を言おうとしたとき、犬の焼きそばパンが100円で売れ、点数もやっと100点になりました。でもやっぱり犬がかわいそうになったので、クリーム坊やは焼きそばパンをお客さんから返してもらうことにしました。そのことによって点数は20点マイナスされて結局80点になりましたが、それぐらいがちょうどいいねとクリーム坊やと犬は納得し、それ以来二人は80点の面白い出来事を探すようになったということです。


#12

瘤蠼螋

 編集された映画に飽きもせず繰り返し没入する息子の後頭部を、つむじから柔らかな髪が流れる後ろ姿を彼もまた飽きもせず眺めていた。録画した映画に編集点を設定し不必要なノイズを削ぎ落として都合よく繋げてゆく作業は記憶のそれとよく似ている。彼は日常の穢れの中にささやかなハレを探すような、退屈さにかまけた空想に搦め捕られてゆく。
 映画は六十五分目に差し掛かり物語の転機を迎えた。少年たちの内の一人が取り返しのつかない状態に陥る。善意とむき出しの悪意の伝播。少年たちは危機に晒される。死屍累々。それは悲しい事件となって少年たちの人生に暗い影を落とす。そして終焉へと転がり落ちるその瞬間、映画は暗転する。停止ボタンが押され、映画は再びはじめから繰り返される。リモコンを握り締めた息子が瞳を煌めかせる。映画は終焉を迎えない。
 幼さが、繰り返す日々も繰り返し見た映画もハレに映す。通算何度目かわからない少年たちに降りかかる苦難も息子には新鮮な痛みとして蘇る。灰色の空も、理不尽な事件も。かつての彼と同じように。息子には彼が失ってきた全てがある。失ってしまえば取り返しのつかない類の煌めきが芳しく咲き乱れている。
 少年たちはたき火を囲み、記憶に閉じ込めた過去を打ち明ける。夜の闇の中に置き去りにするように、たき火に焚べて灰にするように。いくつもの瞳にたき火の炎が揺れる。瞳に映る少年の影に表情はない。やがて夜は明けるはずだった。どんな終焉であれ、それを乗り越えてその先にある未来へと踏み出すはずだった。だが再生停止、頭出し。物語は何度でも巻き戻る。息子の瞳から煌めきは失われない。劇を終えた役者は観客にすぎない。少年たちだけが虚構の中に取り残されている。
 息子はやがて彼になる。反発と挑戦とを繰り返し、だが違う何者かになることもできず血にどうしようもなく染み付いた遺伝子から逃げることを諦め、なんとか折り合いを付けてやっていく。彼もそうしてやってきた。彼はやがて父になる。彼の中にある無念と諦めを確認することもせず当然そこにあると織り込んでなお穏やかなあの瞳で。全てを失った父の瞳と失ったはずの全てのものが溢れている息子の無垢な瞳の合わせ鏡の中に彼は閉じ込められた。
 少年たちは事件から永遠に救済されない。痛みは明かされない。夜は明けない。言葉もない。少年たちは深い諦めの隠された瞳で永遠にたき火を囲み続ける。


#13

ムネモシュネ

 春のこと。陽の差す窓ガラスに頬をあてる。熱っぽくて暖か。ソファに座る。眠りに落ちそう。
 男友達から連絡が来た。家の近所の喫茶店で会う。
 彼が言った。
「昔の女が中絶していた」
「あなたの子供?」
 違うって。彼は痩せた胸の前で指と指を交差した。

 人生は大それている。彼は三七歳で性的に破天荒。私も以前に彼に襲われた。でも五年前の結婚以来対象外。彼とは小学校からの友人で、彼は二年生の時の転校生だった。
 私は言った。
「昔の女って?」
「八年前の、十歳下の大阪の子」
「誰の子?」
「上司」
「どうして二十代の女子はしくじるのかな」
「転ばないと覚えないからな」
 若さの言換は闇雲。

 私は忘れない。
 学生時代に彼が手を出した女たちの名前。眞緒。優佳。史帆。陽菜。菜緒。美玖。彩花。好花。社会人になってからの。愛萌。虹花。佑唯。莉菜。美波。冬優花。美愉。菜々香。梨加。理佐。葵。愛佳。奈那。詩織。
 彼は「お寿司」と宣言した。
 私たちはやはり小学校以来の友人が嫁いだ寿司店に入る。 
 昼酒のたしなみ。

 のれそれという透きとおった食べ物をぽん酢で食べた。
 彼が言った。
「穴子の稚魚」
「へえ」
「ろくでもない上司は泊めるのに、初フェラの男を拒絶する女」
「発言・地上最低」
 表も裏も一面緋色のお猪口を手に、彼は昔の恋人の話を続けた。彼女に慰めに会うことを提案したら断られたそうだ。
 彼は酩酊の吹き溜まりでくつくつと与太を流涎した。清浄な、子供時代からの友人が作った白木の食事場が汚される。私は彼の指先でもてあそばれる箸の先を眺めた。玉子焼をつまみに彼は言う。避妊しない男か。もぐもぐ。どうかを。日本酒ぐぐ。見抜く力を養う道のり。
 私たちはまだお寿司を一貫も食べていなかった。炭水化物を摂りいれずにだらだらとつまみ喰い。これだけでお腹いっぱいになり、もしや私たち二人は主役の一皿まで辿りつけないのかもしれない。せめて芽葱の握りを私は食べたい。
 私はお銚子を持った。彼はお猪口の酒を口に一気に流しこみ、空っぽの底を私に見せた。私はお酌をする。彼はまた飲み干す。
 彼は言った。
「しょせん哀しみは一人で処理するものだからな」
 酒浸りの例に漏れず彼にはねばった抑鬱の陰がある。
 彼はこのまま日の暮れるまで深酒した挙句の翌朝に、まんまと記憶を喪っているのだろう。
 私は、性獣という言葉を思い浮かべた。次にこう思った。決して私は忘れてやらない。


#14

詩大将

 詩大将が詩の戦いを挑んで来た。
「日記帳に飛び込む男が居た。日記帳は光の渦の中、過激に結果を折って
 竹をひたすら待つ野木(のぎ)将軍。利子はつくのかの懸念材料
 モル濃度が気に成っても 真実は何かを見る事に存する事に気付く
 野木将軍(のぎしょうぐん)ああ、野木将軍(のぎしょうぐん)を待った
 毛は存在感を増し 森を下に睥睨して居るのか 将軍は 下士官は
 竹をひたすら待っても利子が付かず、毛の存在感が増しても糸電話は
 機能せず、今も日記帳は光の渦の中で織られた過激な結果が浮くパーク
 日記帳に飛び込んだ男はどうなったのか 光の渦の中の日記帳に
 ふとネアンデルタール人も飛び込んで、何か過激な結果が再び浮く
 
私は詩大将の挑戦を受けて詩を返さずにはいられなかった。

「牧場に鉄棒があった。そこはフィン(ランド)ではない土地なのだ
 フィン(終り)なのか。フィニッシュ(終り)なのか 牧場に
 鉄棒があった。執拗にある鉄棒に香りを纏わせる。今は語彙の世界
 ランド(土地)が問題だった まだ鉄棒がある牧場 降って来る
 歯磨き粉 歯ブラシ ルームメイトも牧場に鉄棒を設置する
 今は五等に下がり 父を賛美する 牧場に鉄棒があった・・」
 
詩大将は少しは感心したらしかった。再びを詩を返して来た。

 「シルクロードにあるゴミ屋敷はある意味伝説の屋敷だった
 そこに居る老婆をもてはやすと必ずご利益があったものだ
 我々は老婆を担(かつ)いで駄菓子屋を始める事にした
 始めるとお好み焼きが焦点になった。アオスジ揚羽が飛んで来て
 大変だった。店主は熊野詣(くまのもうで)に行ってしまった
 我々は老婆を持て余してしまった。駄菓子屋はどうする
 店主は何処(いずこ)へ。(私の詩のネタもそろそろ切れかかって)
 いるようだ・・」
 
私は構わず詩大将に詩を返した

 「庭に青木の木があるが常緑樹なので新芽が出て来ても若葉になっても
  分かり辛かった。それはキンモクセイも同様だ。柑橘類なども。
 だから母は毎回常緑樹を春や夏や秋に切ってしまうのか。また生えて来る
 輪廻転生みたいなものだが、クレマチスみたいに一旦枯れ尽くしてから
 本当にゼロから再生する物とは違う まあそれすら根株は残って居るので
 完全な輪廻転生ではないか・・」

詩大将は少しは感心して居るが完全に感心したわけではないようだと気付いて少し失望した。(きょうも雨が降り始めた)・・・・・ 


編集: 短編