第187期全作品一覧

# 題名 作者 文字数
1 この街で一番の景色 ハギワラシンジ 829
2 猫の粒 トモコとマリコ 107
3 I was born shichuan 937
4 カンジャンケジャン ぷらわん 618
5 ノイズ たなかなつみ 940
6 思い出 5895 977
7 巨大なおじさん 宇加谷 研一郎 1000
8 空っぽの部屋 棚山(つなやま) 600
9 灰かぶり 岩西 健治 1000
10 祈り 塩むすび 996
11 鉄分いっぱいもりもりプルーン qbc 1000
12 猫博士 euReka 1000
13 イドの蘇生 志菩龍彦 1000

#1

この街で一番の景色

 沢田は自販機でコーラを買う。
 すると秋本がネギを振り下ろした。
「ガード」
 沢田はきっちりガードする。
「ざけんな」
 と秋本は言う。
 そこへ萩山がやってくる。二人に向かって手を振り、二人も一緒に手を振る。
「このペースでいけば明日には終わるんだ」
 萩山は嬉しそうに走り去っていく。誰が終わりと言ってあげるんだろう。
「ネギいる?」
 秋本は剣のようにネギを構えた。
「頂いておこう」
 沢田はうやうやしく手をのばす。
「うっそー。お前さっきガードしたろ」
 秋本はネギの切っ先を沢田の鼻に突きつけた。沢田は顔をしかめ、コーラをぷしっと開ける。泡がこぼれて沢田の手を濡らす。ごくっと一口飲んだ後、目の前のネギをがぶっとかじる。
「まず」
沢田は顔をしかめる。
 萩山はもうどこかに去っていた。彼はやりたいことがあるから。
 二人は川沿いの土手を歩く。野鳥が空を飛ぶ。
「何の鳥だろうね」
「バード」
二人はそう言う。そう言うと下の川で鴨が鳴いた。水面下でのバタ足に二人が気付くことは無い。
「ぐぁぐぁわっ」
「似てねー」
「分かってるから真似したんだよ」
言い訳は工事の音で掻き消された。「土手の向こう側かな」コーラの空き缶を蹴飛ばして川の中の鴨に背を向ける。
「そうも言ってられない」
 前から赤いりんごがころころ転がってくる。
 とりあえず秋本がそれを拾う。かじっていい、と目が爛々。
「ありがとう」ぱたぱたとおばさんが駆け寄ってきた。秋本はかじっていないりんごを渡す。「ありがとうね」おばさんはまた言う。
「どうしたの」
 沢田が言う。
「自転車が倒れちゃったの」
 おばさんはアゴで事切れた自転車をしゃくる。秋本はりんごを食べたそうにしている。
「傷んでないかしら」
 沢田はおばさんが二重アゴだと気付いた。
「一つあげる」
 とりんごを沢田にあげた。
「いいんですか」
「いいのよ」
 おばさんは再び自転車に乗った。
「りんご」
「ごりら」
「はい負けー」
 秋本は沢田に勝った。
「ネギは」
「やるよ」
 今はりんごがお気に入り。


#2

猫の粒

 飼いはじめたばかりの猫が逃げてしまった。
 猫の粒を水で戻す時に、水の分量を適当に量ってしまったせいだろう。
 もったいないことをした。
 猫の粒、高かったのに。
 「本物に近い」ってやつ買ったから。
 本物知らないけど。


#3

I was born

 結婚して5年、妻の家の習慣に合わせて朝食は白米と決まっている。その妻が、食パンしか食べられなくなった。物忘れが増え、情緒不安定になった。先日は、突然、マイホーム購入に踏み切れない私を詰った。今日も妻は悪阻がひどく、醤油の臭いを嗅いで、トイレに駆け込んだ。それでも、不妊治療をしていたときの眉の辺りに漂っていた憂鬱な焦燥感がなくなった分、表情は柔らかくなった。
 スマホに妊婦が使うアプリをいれ、食べてはいけない食品や葉酸のサプリメントなどのチェックに余念なく、就寝前には、今この子、親指くらいの大きさなんだよと、と教えてくれた。寝る前に無線ランの電源を切る習慣が加わった。出産に際して必要な費用の算出、産院の選定、自治体の補助から、粉ミルクやベビーカー、おむつなどの必要になる物の書き出し。食パンしか食べない妻のどこにそんなエネルギーが蓄えているのか、不思議なくらい精力的に調べた。
 試しに無臭のにんにくを買ってきて、吐いた。下腹が痛いと言う。声をかけることもはばかられ、息を詰めて見守る。わたしはこんなにつらいのに、あんたは何もしてくれないのかと罵られた。肉が捩れ、骨が軋む音を聞いているようだった。妻が妻でなくなる。外的ストレスに起因するのではなく、体内調和の崩壊。身体の内側にある異物は、ごく当たり前に、妻を侵食し、別人にする。
 見た目からして妊婦らしくなったころ、悪阻は少し落ち着きを見せたが、今度は腰痛に悩まされはじめた。仰向けで寝ることができず、側臥し何度も寝返りを打ち、夜中にトイレに起きる回数が増えた。そんなある日、妻がダイニングに一人座り、お腹をさすりながら、つぶやいた。妻は寝ている時も無意識にお腹に手を当てる。「ああ、この痛みは、君が与えてくれる希望なんだね」。俯いた拍子に、妻の顔にひと束の髪がかかった。その妻の横顔には、美術館に飾られた芸術品のような凝縮された凄みがあった。峻酷で神聖な美。これほど美しい妻を見たことがなかった。いや、この美しさは妻のものではない。慈愛の母の美しさだった。
 生命をつなぐ。妻は、母は、生命の螺旋の奔流と清流にさらわれ、崩れ輝き、生きている。こうして、自分は生まれたのだし、息子はもうすぐ生まれる。
I was born


#4

カンジャンケジャン

Re:
いつものマックに13時に集合。

...

人が多い。平日なのに。春だからか。くそ。


          ひとおおい。別のとこで。



...

結局、ホテル近くのコンビニにお互いの車を停めて、カノジョの車に乗り換えた。

...

「人、多かったね」
「ん?」
「マック」
「あー、春だからだろ」

そか、と言ってカノジョは背を向ける。
肩にあるほくろが目に入る。
ほくろ?
そこでカノジョが髪を切ったことに気づく。
怒るかな。まぁ、いいや。
切りたての髪を崩さないように、後ろから肩を抱いて、ついでに胸を揉んで、目を閉じる。

「寝るときは離れてー」
「はーい」

反対を向き、もう一度、目を閉じる。

(あ、喉かわいてたんだった)
(まぁ、めんどくさいから、いいや)

...

「今日はもう帰るね」
「早いね」
「うん、カンジャンケジャン食べるの」
「カンジャン?」
「カンジャンケジャン」

韓国の食べ物で、しょっぱくて、色が鮮やかで、寄生虫がいるかもしれない。
要は、カニの塩漬けだ。

「食べてみたくない?」
「うーん、カニは食べるの面倒で」
「つまんない男ー」

よく切り揃えられた前髪の下にある目は、笑っていない。

「私、剥いてあげるよ?いつでも」

答えられない僕に、じゃんねー、とわざと素っ気なく車に乗り込むカノジョ。
コンビニで立ち読みしようも、カンジャンケジャンにかぶりつくカノジョの姿が頭から離れない。

減り続けるカニの塩漬けと、上下する揃った前髪。

(髪切るか、春だし)

もうすぐ18時なのに、空はまだ明るい。


#5

ノイズ

 耳鳴りが始まったのは、ひと月ほど前のことだ。
 当初のそれは虫の羽ばたきのように聞こえた。耳のなかに異物が入ったのかと、ペンシルライトの光を当てて鏡を覗きこんだが、それらしき気配はない。小さくぶんぶんと聞こえるそれは煩わしくはあったが、BGM だと思えば特に気になることもなく慣れてしまい、生来の面倒くさがりも相まって、病院に行くのを後回しにしたまま日が過ぎた。
 耳鳴りの聞こえ方が変化してきたのは、半月ほど前のことだ。
 一定の音が絶え間なく鳴り続ける当初のそれとは異なり、音に上下動と強弱が備わり、かちかちという音に聞こえる。単調な音ではなくなった異音が耳障りになり、耳をそばだててしまうようになったのはそれからすぐのことだった。そばだてるといっても単なる耳鳴りにすぎないのだ。ばかげていることとはわかっているが、それでも。
 なぜ、その異音の連なりのなかに、意味を見つけようとしてしまうのか。
 世界は言葉でできている。そんなことをあらためて考えてしまう。家を出てから大学に辿り着くまでに耳に入ってくる通りすがりの人たちの会話。講義を進める講師の発する言葉。見知った人たちとの挨拶。そうした、あって当然の言葉の世界に、異音は暴力的に割り込んできて、注意を引こうとする。目の前の友人との会話をおざなりに続けながら、異音の変動に耳をすませる。そうして、その音の流れから意味を汲みとろうとする。
 やがて異音に振り回されて日常生活がままならなくなったので、億劫に思いながらも、やっと病院へ足を向けた。年老いた医師はペンシルライトの光を耳の奥に当て、ノイズですね、取ってほしいですか、と問うてきた。もちろん、ないほうがいいですと言うと、寸時に吸い取られ、異音はなくなった。後に残されたのはこれまでどおりの日常と、穏やかに流れゆく生活音だった。それはもう、呆気ないほどに。
 治療代を払って外に出た。通りすがりの人たちの会話が聞こえ、店先で売り込みをしている店員の声が聞こえる。アパートに戻ると無音の部屋が待っていた。耳をすませるけれども、意味のある言葉は聞こえない。部屋の中央ではひと月ほど前から彼女が眠り続けている。耳をすませてみるけれども、彼女はずっと口を開かない。彼女の声は聞こえない。


#6

思い出

ある日、妹の蜜子が智の前から姿を消した。
智は何故蜜子が消えてしまったのか思い出せなかったが、もう一度蜜子と会う為に、もう一度お兄ちゃんと呼んででもらう為に智は蜜子を探した。よく一緒に行った公園。よくおやつを買っていたドーナツ屋。通学していたのがつい最近の様に思える学校。思い出を辿り智は探し続けた。しかし、影すらも見えなかった。

次に智は蜜子との思い出を本にして世に出した。これならば蜜子の目に止まり探している事に気が付いてもらえると智は意気込んでいた。次の日の夜。智の前に蜜子が現れた。蜜子は「ただいま、お兄ちゃん」と照れくさそうに呟いた。セーラー服が初々しい蜜子。悟は涙を流し蜜子の手に触れた。しかし、その手は蜜子の手をすり抜けた。ハッと蜜子を見れば其処には誰も居らず、只一人男が立ち尽くすだけであった。

再び蜜子が現れたのは翌日の夜であった。悟は蜜子に問う。
「何故兄さんの元から去ったんだい?」
蜜子は悲しそうに眉を顰めてから弱々しく微笑んだ。
「兄さん思い出して。兄さんも見た筈よ。私白い綺麗な着物、着たのよ。」
「認めない。俺は認めない...戻ってきてくれ!蜜子。」
「兄さん、もうあの頃の私を忘れて下さい...。人は変わるものなのよ。」

いつの間にか眠っていた智は畳の痕を頬に残したまま押し入れを探った。蜜子と書かれたダンボールの中には蜜子が着ていたセーラー服と微笑む蜜子の写真が入っていた。
「蜜子は、蜜子は死んでしまったんだ...。」
智はセーラー服を抱え一日中泣いた。智は蜜子を愛していた。兄妹を超えた愛情を蜜子へ注いでいた。赤く泣き腫らした目を擦り準備を始めた。
「蜜子、今お兄ちゃんもそっちへ行くからね。」


蜜子は兄の葬式の為、実家へ帰省した。
「本当に俺が居て良いのか?」
「大丈夫よ。お兄ちゃん以外は皆賛成してくれてたんだから。今更お兄ちゃんがどう思ってても私達には分らないもの。」
親族に簡単な挨拶を済ませ棺の置かれた部屋へ行く。蜜子は夫のネクタイを正しながらチラリと横目で棺を見た。
「どうしてセーラー服なんか抱えて首を吊ったのかしらね。...死人に口無し。一緒に居る時ですら分からなかったのに死んだら尚更、貴方の事が分からなくなったわ。」
部屋を出る際、蜜子は智が書いた本を取り出した。偽りの思い出を書き連ねた日記。蜜子はその本とため息を棺の中へ入れた。


#7

巨大なおじさん

今日の昼ごろ、通っているヨガスタジオの先生と街で会って、「これから珈琲でも飲みませんか」と誘ってみると彼女は笑顔で応じてくれた。

出会ったから、声をかけて、ちょっとカフェへ。

考えてみると、とても自然であるし、私はこのときあまり何も考えていなかった。たとえばヨガの先生は私より10歳は年下で、独身である。彼女は少女のころはフィギュアスケートの選手であり、大学生からはジャズシンガーとしてアメリカにも勉強へ行った。美しく、頭がよく、なにより心がきれいである。

以前の私だったら、まず彼女の美貌にひるむであろう。つぎに、鬱屈し偏向した欲望でてらてらと鼻を赤めた挙句、奇妙で強引な誘いを試みたかもしれない。私は自分のことを知っている。私はそんな男だったのだ。

ヨガをはじめて変わったことは、ヨガスタジオには美しい女があふれるほどいるという衝撃な事実をしってそこに自分の生身を置いてみたことでどれほど「デジタル」の世界が矮小でつまらないものかを経験したことと、女たちは世のほとんどの男とちがってデジタルよりも生身を求めている。そういうことを体験して私は肉食系女子という単語の語源を知悉した。

私はただ珈琲を、世話になっている先生と飲みたかっただけだった。いつも前向きで身体から赤いオーラがでている先生と気を交わしたかったのである。

「昨日夢をみたのです。天井まで届くくらい巨大なおじさんのオブジェをかざっていて、そのことがすごく自慢なんです。その巨体なおじさんが実は…あなたなの」

私は彼女にひっぱられるように店をでて、昼間のホテル街へまさに「消えた」のだったが、これもいわゆる気の交換なのか、と思うと違和感はなかった。

ヨガの先生とは笑顔でわかれた。その帰り道に少年が地面を這いつくばって何かを探しまわっていたので、「手伝うよ」と声をかけて一緒に探した。彼のおとし物の消しゴムはみつからなかった。私は自分のホルン柄の消しゴムを彼にあげることにした。それは会社の同僚の女性が「よく消えるんです、あげます」とくれたのだ。

「僕もあげる」

そう言って少年は私に10円玉を2枚くれた。我々は何かを共有した気分になった。

私は帰宅して習慣となっている瞑想をしながら今日の1日をふりかえった。昨年、5年前、10年前と遡りながら、当時の自分、卑屈で、鬱屈して、エネルギーの循環が悪かったころの自分に声をかけた。昼に交換した先生の気が心地よい。


#8

空っぽの部屋

ガチャリ
私の部屋のドアが開く。入ってきたのは5年ぶりに見た弟だった。
「ちょっとー!昔から言ってるでしょ?部屋に入るときはノックしなさいって!」
「そういえば姉ちゃんはノックしろってうるさかったな」
「わかってるじゃない」
「この部屋も久しぶりだなあ」
「それもそうね」
「なんだ、何も変わらない部屋なんだな...」
「家具も変える気にはならなかったの!」
「姉ちゃんは、元気してた?まぁ、姉ちゃんにはそんなの関係ないか」
「年中元気みたいに言わないでちょーだい。」
「あ、そうそう、俺さ、都会の高校行ってびっくりしたよ。こんな田舎町とは全然違うんだ。」
「いいなぁ、私も行ってみたかった。」
弟は手元の袋から懐かしいお菓子の袋を出した。
「これ、姉ちゃん好きだったよな。あとで食ってくれよ...」
「うっわさんきゅー!」
「さて、俺、そろそろ行くよ。って、こんな独り言、姉ちゃん聞いてたりするのかな...」
「そっか、もう行くんだね。大丈夫、あんたの話ちゃぁんと聞いてるよ!」
「お菓子、姉ちゃんのとこ持ってくからな」
「うん、ありがと」

パタン。
久しぶりに見た弟は、立派になってたなぁ。
私の姿は見えてないし、声も聞こえてないだろうけど。
5年前、私が事故死して以来初めて会えたね。
さ、お墓の方にも来てくれるみたいだし、そろそろ戻らなきゃ。
あいつが来るから私今部屋に戻って待ってたんだし!
さーて、行こ行こ。

扉が音を立てることはなかった。


#9

灰かぶり

 待ち合わせは正午。
 あの人の好物はカボチャの煮物だ。イオンで映画を観てからカボチャを買って。私はガラスの靴を持ってないけれど、カボチャの煮物には少し自信がある。

 地下から地上へ出ると、目の前の風景が消しゴムで消されていくようにかすんでいった。全てが真っ黒になる前に私は手さぐりで近くにあった手すりに右手をのばしつかまった。一瞬でシャットダウンされると表現する人もいたが、私には白が灰がかって、やがてゆっくりと黒になることの方が多かった。
 目の奥がジンジンと響くが痛い訳ではない。
(しゃがんでしまおうか……)
 人通りはまばらであったが恥ずかしさの方が先にたち、私の意識とは無関係に手すりを握る手に力が入る。倒れてしまわないように膝を少しだけ曲げる。

 バスタオルを頭からかぶった妹が風呂場からリビングへ素っ裸のまま現れた。雫をたらしたその足はつま先立ちである。母と私に似ず、妹の身体はモデルのように細く、それでも彼女は立ちくらみなどしないと言う。きっと、父の血が濃く出たのだろう。特に手足の指などは私より彼女の方が父親そっくりに出来上がっている。
「テレビ、邪魔っ」
 手首だけ動かし、テレビの前をどくよう彼女に指図した私。
 これでも血を分けた姉妹なのか。私とは違うそのスレンダーなボディに、今は嫉妬の声などあげないでおこう。

 かすんでいたモヤが少しずつ晴れ、景色が通常の色彩に戻るのにそれ程時間はかからなかった。私はいつもの立ちくらみから立ち直り、そっと手すりから右手を離す。それから、膝を少しずつのばしていく。体温を感じ、一歩前進。また一歩、そして、また一歩を繰り返す。流れに乗った途端、目の前にポケットティッシュを差し出されてもタイミングが合わず、反射的に出した私の手は空を切った。気恥ずかしさから腕時計を見つめる。時間を確認するフリをする。何かを考えるフリをする。誰かを通り過ぎ、その場をないものにする。十二時二分前。見つめた手にはやけに赤黒い粉末が付着していた。
(さっきの手すりだ)
 戻って、他人のフリをしたら、もらえるかも知れない。どうしよう。もらっておくべきか。ポケットティッシュ。でも、やっぱりできない。でも、もらって手を拭きたい。いや、やっぱりできない。手の平を見つめる。やっぱりできない。
 広場。正午を知らせる鐘の音。赤サビはやがて灰となり、あの人と映画とカボチャ。いざ行かん。急げ私。


#10

祈り

 母が死んだ。名を呼ばれたような気がして病床にある母の口元に耳を寄せたが、母は長く息を吐いてそれきり沈黙した。耳をいくら澄ましても最後の言葉は聞こえなかった。
 いつか中指の先端に痛みが現れた。痛みは片時も消えることなく苛み続け、定期的に激しく痛んだ。痛みはとても我慢できるようなものではなかった。痛みを終わらせるため中指を切り落とした。掴んだ道具が剪定鋏だと知ったのはその後のことだった。だが切断の後にあの痛みが残っていた。しくじってしまったのだ。今度こそはと痛みの発生源を突き止めて人差し指を落とした。あの痛みに比べれば刃が食い込む痛みなど物の数ではなかった。心地よくさえあった。こうして二本の指を失ったが、あの痛みはまだ残っていた。失ったはずの二本の指の先端に痛みが灯っていた。それならば、痛み中心の生活を心がけ、痛みを下敷きにした思考に切り替える選択もあったことを最後に知った。
「オハヨ、オハヨ」
 声を掛けたのは少年だった。少年は首から虫籠を提げていた。少年に表情はなかったが、こういうときの経験から心配しているのだろうと推察した。だがそんな経験があったのか不明だし、ただの思い込みかもしれなかった。
「ウルサイ、ウルサイ」
 実際に声を出していたのは虫籠の中の九官鳥だった。その後ろで母親が心配そうに少年の様子を窺っていた。母親は首を不自然なくらい捻り上げたままきちんと立っていたが、その顔は靄がかかったように滲んでいてよく見えなかった。少年が喫煙具を差し出した。一服すると痛みはみるみる遠のいていき、なんだかハッピーな気分を齎した。少年が母に倣うようにして空を見上げた。けれど空にあったものはもごもごと蠢く灰色の雲の畝あるいは何もない空間だけだった。
 二人はいくつかの音程を組み合わせて意思を疎通させていた。
 フンフン? フン。フンフーン! フーフーン。
 食卓を囲む。母がフフンと音を出す。少年がスルーしているのでフフンと応えて醤油を掲げる。僅かに躊躇って母は醤油を受け取る。これはぽん酢のメロディーだったかと訝しむが結果オーライ。母は右斜め上に向いた口と思われる靄の歪みに器用に魚を運んでゆく。
 失った指先には依然として痛みがある。悲鳴を聞きつけて母は生理痛薬を差し出す。服用するとたちどころに痛みが消える。鎮痛剤は幻肢痛にも効くのだ。聞き損ねた母の遺言もいつかこうして知るのだろう。


#11

鉄分いっぱいもりもりプルーン

(この作品は削除されました)


#12

猫博士

 私は猫が好きだ。しかし自分のスクーターに小便を引っかけられのは我慢ならないし、猫が好きであることと、好きなものから被害を受けることは別問題なのである。そこで私は、向かいの家に住んでいる猫博士に相談したのだった。
「でもね、好きな相手から被害を受けることは、むしろ喜びになることもあるんじゃないかしら?」
 猫博士は年下の女性であり、私が相談するとそう答えた。しかし私が聞きたいのはそういう精神的なことではなく猫の小便をどうにかしたいという話だ、と注文を付けると、彼女は続けてこう言った。
「少なくとも、その相手から被害を受けることによって何かの繋がりを持てるわけだし、好きな相手と全く接点が持てない場合と比べれば、ずっと幸せだと思えるわけで」
 いやいや、そんなストーカーの心理みたいな話ではなくて……。
「じゃあ、手間のかかる子ほど可愛いっていう心理なら一般的でわかりやすいかしら?」
 えーと、それは被害じゃなくて子育ての苦労の話でしょ。
「いいえ、どちらも根っこは同じで、コミュニケーションを深めることが喜びに繋がるっていう話よ」

 結局、猫博士に相談しても無駄だと判断した私は、猫除けグッズであるトゲトゲ付きのシートや忌避剤などを購入して自分でどうにかすることにした。途中で猫の執念深さにくじけそうになったが、最終的にはスクーター用のカバーを掛ければどうやってもスクーター本体に被害が及ぶことはないという極めて当たり前の発想に辿り着き、半年ほどでようやく問題を解決することができた。しかしその問題解決と同時に、今度は猫博士と、私の双子の弟が結婚することになってしまったのだ。話が混乱してしまって申し訳ないが、私には双子の弟がおり、二卵性なので顔がそっくりというわけではないが、そこそこ似ているのでたまに間違われることもある。そしてもっと話が混乱してしまうことを覚悟して言うと、その弟の存在を両親から知らされたのは今から一年前のことであり、ずっと一人っ子だと思っていた私はその事実に今でも混乱している。時系列で言うと、一人っ子→双子の弟が登場(一年前)→猫の小便問題(半年前)→猫博士と弟の結婚(現在)、という流れになる。弟とは未だに兄弟らしい話ができていないし、猫博士と親しかったのは自分の方だと思っていたので、そのことに対するモヤモヤした気分について猫博士の姉である犬博士に今から相談しようと思っている。


#13

イドの蘇生

 眼を覚ますと、イドは見知らぬベッドの上で寝ていた。痺れた頭は記憶も曖昧、弛緩した四肢はまるで他人の体。彼は人形のように転がっていた。
 イドの傍には三人の男が立っていた。皆一様に白衣を纏い、その相貌は爬虫類じみた酷薄さ。揃いの眼鏡に映るのは、初老の男の戸惑い顔。
「イド卿、お加減は如何ですか?」
 白衣の一人はそう尋ねながら、彼の胸に聴診器を当てた。続いて、瞳孔確認、脈を取る。
「混乱されているようですね、無理もない。今、ご説明致します。貴方様は亡くなっていたのです」
 唐突に、男は妙なことを口走った。イドは唖然としてその言葉を反芻する。
「ですが、御安心下さい。研究は見事成功致しました。死亡の二日前までの貴方様の情報は、培養済みの複製体に転送されたのです」
 あまりに馬鹿げたこの話。笑い飛ばせば良いものを、彼にはそれが出来なかった。頭蓋の内で囁く声。朧なる意識に浮かぶ過去の像。水面にゆらぐ月のような真実味。確かに彼は、その研究を知っていた。
「自我の定着には時間が必要、暫くはこの治療室で安静に」
 男の言葉通り、数日もすると、大凡のことを思い出していた。科学省の大臣たる己の身分。狂気じみた〈科学的な蘇生〉を推し進めた己の野望。真実、彼はイド本人である。
 だが、おかしな不安に心が疼く。今の己は、本当にイドなのか知ら。もし、今一度、同じ行程を繰り返して生まれる者がいたならば、彼もまたイドに違いない。彼は声高に叫ぶだろう。己こそがイドであると。中身も外見も同じ二人。どちらも真で、偽ではない。二人ともがイドなのだ。
 自分が自分である根拠。それが揺らぐ恐ろしさ。不安は彼の心を激しく苛み、後悔が全てを打ちのめした。
 イドが研究の中止を決意するまで、そう時間はかからなかった。
 彼は治療室の外にいる部下の白衣達に、それを告げた。最高責任者たる自分の意見を無碍に出来るはずもない。しかし、どんなに叫び喚き、暴れても、彼等は無視を決め込んだ。否、その実、興味深げに観察していたのだ。
 暴れに暴れ、疲れ果てた頃、一人の男が彼の前に現れた。
 彼を見つめる眼に浮かぶのは、落胆と僅かな憐みの色。男は深い溜め息を吐いた。
「嗚呼、お前も駄目か。やはり、〈私〉は研究を止めてしまうのだな」
 男は周囲の白衣達と囁きあう。もう誰も彼を見てはいない。
 蚊帳の外のイドは、茫然としてその男の姿を眺めていた。
 イドは、そこにいた。


編集: 短編