第186期全作品一覧

# 題名 作者 文字数
1 自業自得 さばかん。 951
2 おじあく戦争の後に shichuan 955
3 ファンシー 5895 984
4 モロコシ畑でつかまえて ゐつぺゐ 715
5 ExpandAI テックスロー 1000
6 不安、不安、安定剤 ウワノソラ。 961
7 浦島太郎 岩西 健治 1000
8 日記的なこと qbc 1000
9 春はロマンチック 宇加谷 研一郎 1000
10 忘れ物 euReka 1000
11 Fade Away 塩むすび 997
12 英雄たちの墓場 青沢いり 999

#1

自業自得

何もかも手放した。
最初にはそう思った。
部活を辞めてから、何もすることがなくなって自然にぼーっとすることが増えた。虚無感、それが私をふわふわと曖昧な気持ちにしてしまうのだ。
私は、何も努力してきたことがなかった。勉強や、運動、他にも色々な事において、それなりにこなすことが出来た。だからかもしれない。心の何処かで自分に慢心していたのだ。自分は出来るから、必要以上に頑張る必要はないのだ、と。
決定的だったのは、部室に入ろうと思ったとき、聞こえてきた会話だった。
「○○ってさ、速いけど絶対朝練とか出ないし、必要以上しないよね、練習」
「ね、なんでも出来ますって顔してるし。努力してるうちら、バカにしてる感じ」
そういって笑う部活仲間だと思っていた彼女らが、自分の中で知らない人になっていく気がした。いつもにこにこと喋っていたはずの彼女たちは、私の中にいなくなってしまっていた。
ドアが開けられずに、そのままそこから立ち去る。手が冷たくなっていくのがわかる。今、彼女たちと会って、ちゃんとしたいつもの笑顔を見せることが出来るとは思えなかった。
図星だった。何処かでバカにしていたのだ、努力を重ねても私に劣る彼女らを。
恥ずかしかった。それを見透かされていたことに。
それから、しばらく部活に出られなくて無断欠席を繰り返した。そんなことをするのは初めてで、彼女らの言葉が頭を反芻していたことも相まってお腹が痛くて、心なんていうものは実際頭の中に存在しているものだとわかっているはずなのに胸も痛かった。
慢心していた自分が愚かで恥ずかしくて。他人を不快にさせていたことにも申し訳なくて。
無断欠席を重ねていたこともあり、更に部活に行くのが辛くて部活は辞めた。最後に挨拶に行った部室には、もう私の居場所はなくて。寂しくなる、と言ってくれたけれど、笑顔のその裏で「いなくて清々する」と言われていることを想像してしまって、うまく笑えなかった。
部活を辞めてからは、心は軽くなったけれど、あまり人と関わることを止めた。もともと人間関係の構築は得意ではなかったし、なんとなく笑顔の裏が映るようで、人が怖くなったからだ。
手元には何もなくなった。
実感したときに、胸がきゅっと痛くなって、自嘲気味に笑いが零れる。
自業自得、その言葉は今の私の為にある。


#2

おじあく戦争の後に

 4年に及ぶ戦争が終わった。
 南北に国境を接する国同士の戦争のきっかけを紐解くと、人類の歴史にはありがちな、実にくだらない理由で、初対面でお辞儀をするか握手をするかであったと言われている。戦争に勝ったのは、北のお辞儀をする国だった。端緒がどうあれ、戦争であるからには、死者がでる。それは、○○町2丁目の大野三郎さんが焼夷弾に巻き込まれ亡くなりました、ではなく、○○市死者32万人○○町死者3千人…という地名と数字の羅列だった。
 趨勢を決した梨礫ガ坂の戦いは、実際には双方の無能な士官と、記録から消し去られるどちらにも与しない偶発の市民蜂起により、勝敗がついた。市原拓哉はたまたま左眼と右手を失っただけで、生き残った。たまたま戦勝国の所属だった。野戦病院の簡易ベッドの上で、失くした右手の感覚を、残された右眼でぼんやり眺めていた姿を、慰問に訪れていた銃後婦人会のメンバーにちらと見られた。

我が軍神は、御身を銃弾とし、縦横無尽に敵陣を蹂躙された!今、犠牲となった尊き右手は、敵国とは決して和解せぬという、固い決意なのだ!!その崇高な精神に、私は涙し、勝たねばならぬと改めて誓った。

 写真付きでSNSにアップされたが、傷痍軍人など珍しくもなく、感傷的愛国精神についた「いいね」は、無感動な国民的義務でしかなく、銃後の戦意高揚とは程遠かった。この投稿が、掘り返されたのは、戦後五年が経ってのことだった。おじあく戦争の重要なターニングポイントとなった梨礫ガ坂の戦いを検証するさい、戦勝国としては、厭戦の市民蜂起とその虐殺は、黙殺せざるをえず(当然市民虐殺を知る者はまだ沈黙したまま生きていた)、かといって、梨礫ガ坂の戦い自体をなかったものとするわけにもいかなかった。戦勝国の戦後に必要なのは健全なる忘却ではなく、英雄の物語だった。史家はこの投稿を見つけたとき、天啓を得た思いだった。
 市原拓哉は、英雄となった。退役軍人会から、手の甲部分に軍旗が刻印された黄金の義手が贈られた。物語を一過性の流行でなく、歴史とするために、沈黙が求められ、従った。死後、市原は英雄から歴史上の人物となった。
 戦争の死者たちは、一様に地に返り堆積した。ざらざらした地表に残されたものたちは、変わらず握手をしたりお辞儀をしたりして暮らしている。


#3

ファンシー

放課後美苗はほぼ毎日ファンシーショップ『サニー』へ足を運んでいた。お目当てはファンシーグッズ、ではなく黒岩と云う店員である。『サニー』はどことなく寂れた雰囲気を出している。棚には薄らと埃を被ったぬいぐるみが陳列され、アクセサリー類は古めかしいデザインが多い。しかし、それなりに客は来るもんでレトロブームに乗る学生や純心な小学生が見受けられる。その客に混じり美苗は黒岩を観察していた。
黒岩は『サニー』を一人で経営している。無精髭に一つに束ねたボサボサの髪。服装はいつも萎れたワイシャツと丈の短い黒のスラックス。びっくりする程ファンシーじゃない。しかし、人は見た目で判断してはいけない。何を隠そう黒岩は中身がファンシーなのである。彼の特技は絵を描く事。それも砂糖で描かれたかの様に甘くキュートでファンシーな絵を描くのである。美苗はその絵に惚れた。レジで暇そうに絵を描く黒岩を盗み見したり、こっそりポップのイラストをカメラへ収めた。

ある日、美苗がポップにおすすめと書かれていた商品をレジへ持っていくと黒岩が居なかった。ベルを鳴らしても出てくる気配が無い。店内をザッと探してみても黒岩どころか他の客すら見当たらない。まさかと思い窓越しに看板を確認するとopenの文字が光っている。美苗は閃いた。もしかしたらこれは、神様がくれたチャンスなのでは?と。レジ横の机には遠目からでも分かる程暇そうにしていた黒岩の落書きが置いてある。美苗は落書きを盗み逃げた。悪い事だと自覚している。監視カメラで撮られていたかもしれないし、もうあの店には行けないのも分かっている。しかし、本物を手に入れた代償だと思えば軽い物だった。
肩で息をしながら帰宅し急いで自室へ入る。折れないように下敷きで挟んだ落書きを見て美苗は目を丸くした。紙にはいつも通りの甘いタッチでいつも通りでない絵が描かれていた。甘いタッチで描かれた美苗の似顔絵...。女の子のイラストは珍しくはない。しかし、美苗の似顔絵はいつもの女の子よりも写実的で繊細であった。美苗は急に恥ずかしくなり落書きを押さえる様に下敷きで隠した。鼓動で体が揺れる。嬉しさと罪悪感と羞恥心がドロドロと混ざり思考能力を奪った。放心した美苗を現実へ戻したのは、けたたましい呼び鈴の音であった。
数日後、美苗は『サマー』でバイトを始める事になるがそれはまた別のお話。


#4

モロコシ畑でつかまえて

母はトウモロコシを上手に食べた。ひと粒ずつ丁寧に捥いで口に入れてはまた捥いで。後に残る芯は乳白に調和があった。子供だった私はそれにならってひと粒ずつつまんで食べてみる。私はあの綺麗な芯を期待するのだ。ところが二、三粒食べたあたりで頭の中で声がする。
「かぶりついちゃいなよ」
三〇〇ヘルツくらいのその声は私にちまちましてないで欲に従え抗うなと言ってくる。私は頭を振って三〇〇ヘルツを追い出す。そしてまたひと粒ずつ食べ始めた。イライラする。めちょめちょイライラする。三〇〇ヘルツ後の世界ではひと粒捥いで口に入れることが煩わしくて仕方がない。何故だ。三〇〇ヘルツ以前に抱いた崇高な志は何処へ行ってしまったのだ。冷静であれ私!
「かぶりついちゃいなよ。昨今ストレス社会だよ。我慢しないで。やれるときにやらなくっちゃ」
うるさい。うるさいうるさいうるさい! なにがストレス社会だよ! なんだそれ!? 私はまだ子供だぞ!
何かに追い詰められて蒼白しながらまた捥ぎ始める。
「かぶりつこうよ。しあわせになろうよ」
喧しいぞ! いい加減にしてくれ! あーーかーぁぶりつきてーーー!!
思ったのも束の間、食い散らかされたきったない芯が皿の上で転がっていた。私は芯を見つめた。芯は徐ろに語り始める。
「哀しい目をしないでくだせえ。確かにきわきわの部分にゃまだ黄色い実が残ってまさぁ。食べてほしかったにゃちげえねえ。そう思ってお日さんをそりゃそれです。あんたは食べたいように食った。それも悪かねえ。誰も……誰も悪かねえんでさぁ。だからそんな哀しい目をしなさんな。半端もんの実を思って哀しむのはわしの役目ですから」


#5

ExpandAI

 物語が消費されるスピードが早くなっている。0か1かの積み重ねで極小単位の物語が作られた。膨大な数のパターンが消費された。最小の物語は我々がいわゆる碁石と呼ぶものにきわめて近い形をとった。
細切れになった物語を順列並べ替えで2パターン揃えて戦わせるのはAIの常套手段だった。盤上に碁石を置く場所がなくなったので、AI甲はついに白の碁石の上に黒を置くようになった。あ、それならといってAI乙は碁盤の外に石を置いた。石を打つ甲乙のリズムはあくまで規則正しく、お互いを浸食しながら領域を3次元に拡大していく。

 ディープラーニング研究の第一人者で知られる目川洋次は後にこう述懐する。「ディテールを追求して実際の碁石使い彼らの思考を現実に再現する仕組みを作っていたのが良くなかったかも知れません。しかし、碁石をインターフェースとして使わなくとも、彼らは白黒つければ何でも良かったと結局は言うでしょうし、いずれ彼らは碁石などにとらわれなくなっていた」
 
 高々と隆起した黒の碁石の円柱が、白の碁石の襞奥深くまで入り込み、前後運動を始めた。白の碁石は弱く強くリズミカルに黒の碁石を締め付け、ついに円柱の中心から白の碁石が放出される。

 運が良かったのも一つあるが、金もだいぶ使った。常に最前列に陣取り民放のインタビューを受けている男は、実は2週間ずっと開場時間から終わりまでそこに座っているのだが、インタビューを受けるのは意外にも今日が初めてだった。

「失礼します〜今朝は何時から並ばれて?」
「いつも通り朝の五時には」
「いつも通り? ひょっとして昨日も?」
「ええ、もうずっとここにいます」
「へー!そうなんですね! やっぱり何度見ても可愛いですよね!」
「はい」
「毎日見ていると昨日とは違うな〜なんてこともあるわけですよね」
「ええ、実は」
「あー! テレビの前の皆さん見てください! シャンシャンが出てきました! 可愛い〜!」

 男はリポーターの指さす先で愛嬌を振りまくシャンシャンを見てやはりと思った。昨日より黒い部分が多い。一昨日までは白い部分が多かった。おずおずと日々大きくなるパンダと目が合う。その目が一瞬碁石のように白く剥かれ、ほかの観客が気付く直前にまた黒目に戻った。パンダはこれ見よがしに寝転がり、見せつけるように笹を食べだした。観客の興奮は最高潮に達したが、男の脳裏から白い碁石のイメージが消えることはなかった。


#6

不安、不安、安定剤



―――プツン、プツン、プツン…。

 日曜の夜、日付が変わる前くらいの若干気だるい時間になって銀色の錠剤のシートに入った薬剤を一つずつ押し出してピルケースに分けていく。フリウェルにラミクタール25mg、それとリーマス200mgが2錠。これが私の薬のルーティーン。
 ラミクタールとは子供でも飲めるような小粒で、水なしでもすぐ口の中で溶けていく変に甘い薬。リーマスはコロッとしていてやや存在感がある薬だ。因みにフリウェルは月経痛を緩和するための低容量ピルで飲み忘れをすると月経周期が狂ってしまうから、正しく飲み続けることが必須である。
 さて、始めに挙げた「ラミクタール」「リーマス」はどのような作用がある薬か当ててみて。

・ヒントは、脳に作用して働く薬。


 答えは、気分の上がり下がりの波を抑える作用を持つ「精神安定剤」という薬だ。これは、双極性障害といって以前は躁鬱病と呼ばれていた精神疾患に処方される。ようは繰り返す躁と鬱の症状を出来るだけ抑えて気分の波を小さくし、平和に過ごすことを目指す薬なのだ。だけど出来ることならこんな薬飲みたくない。薬を見る度、自分は双極性障害でありこの薬を飲み続けなければならないと認めざるを得ないのがまた嫌になる。

「 なんで "私" は 、こんなの 毎 日 毎 日 飲まないといけないの 」

 風邪薬等とは訳が違い周りに言いづらいし理解もされにくいことだから、私はこの薬を飲む事に対して少なからず引け目を感じている。
 ただこの薬のお陰で病状はいくらか改善したのは事実である。軽躁状態や鬱で不眠が続いて辛くなることは減ったし、鬱になっても深みにハマる程度がだいぶ軽くなった。ずっと望んでいた『普通で平和な生活を続けたい』という些細な願いが、ようやく続き始めている。

プツン、プツン、プツンッ………。

 グダグダどうにもならない感情をグズグズさせてたら薬の仕分けが終わった。そして今日も薬を手に取って口に放り込む。じわじわ口の中で溶け出した甘くて苦い塊の味を、急いで水で流し込んだ。
 一息ついて、今日も薬を忘れず飲み終えたという安堵感に包まれ深く息を吐き出した。私はこの薬を飲み続けることで、傾きやすい自分自身を保ちつつ生きている。時折私の心を不安定にさせる、精神安定剤。これからも長い付き合いになるだろう。


#7

浦島太郎

 奇異な神社は石段をのぼった山肌に沿って建っていた。この神社はカッパの剥製があることで有名であった。何を意図してカッパと称するものがつくられたのかは知らないが、現代の私が見ても魅力的で不思議なものであった。
 三人の若い女性たちが、お願いしますと言ってスマホを差し出してきた。この丸のところを押してもらえれば、と言われて、私は構図を決め言われるように画面を触った。少しぶれたかとも思ったけれど、写真を確認した女性たちはありがとうございましたと口々に言い交互に笑っていた。歓声が届く。
 平日の土産物屋は閑散としている。その店前でごついカメラを持った年配の集団とすれ違う。野鳥を撮るのだと勇んでいる。熱気を帯びる空気。

 顔にぼかしを入れればオーケーだとか、背中のショットならオーケーだとか、いや、本人が特定できる写真は背中の写真であってもだめだとか。最近ではニュース映像などにも顔のぼかし、車のナンバーのぼかしが増えた。ただ、報道の場合、個人のスナップとはまた違い、肖像権より報道の自由の方が優先される。映像が不鮮明ならまだしも、鮮明な映像であれば、いくら背後からの写真だって背格好や服装、また、撮影した場所の特定などでその個人を探し出そうと思えばできてしまう。今はスマホなどでだれもが簡単に多くの写真を共有できてしまう。無断でとられた写真は悪気なく、意図的でなく、莫大に増えてしまう。カメラがまだ宝物であった昔、写されることに権利云々を訴える者は存在しなかった。

 カメラ越しに年配者が叫ぶ。
「動物は明日を想うことができるのか」
 若い女性の一人が叫ぶ。
「それは人間だけの特権なのかしら」
 呼応する二人の女性。
「だとしたら、あまりにも混沌じゃないの」
「考えることもできないの?」
「いや、動物だって想えるはずさ。そうだろう、浦島太郎」

 四十歳は初老であると何かで読んだ。私は取り残されてしまったのか。
 私が叫ぶ。
「わたしは生きていく。その先の運命を知っていても、わたしは玉手箱を開ける」
 助けた亀の背。石段をのぼった山肌の竜宮城にはカッパの剥製。年寄衆は忙しく料理を並べている。姉妹だという三人の乙姫は交互に笑っている。
「お礼に玉手箱と剥製をどうぞ」
「カッパは海では生きられないのですから」
「決して玉手箱はお開けにならずに」
「最後に記念撮影です」
 乙姫の顔にはモザイクがかかっている。これで本人の特定は難しい。


#8

日記的なこと

(この作品は削除されました)


#9

春はロマンチック

花見の時期になると酒場「ロマンチック」では、或る条件を満たせば「なんでもタダ」というイベントが開催される。その条件というのは、店のステージで「ちょっといい話」を披露することと決められている。ハゲた店主が「ロマンチック!」と叫べば合格である。

壇上に立つのは、だいたいが酔っぱらいである。彼らの多くは普段からスピーチをすることもない。春の夜に恋人と過ごすことより店に来ることを選び、この店のハゲた店主や美男従業員や客のことが好きで、いつのまにかいい気分になってステージにあがる人たちである。

――女の子

この場にいるみんなに贈り物をしたい気分です。あたしは普段、受付で働いています。趣味は最近陶芸です。土日に市民工房というところで、教えてもらいながら焼いています。正直、上手に焼けません。でもこの前、できあがった茶碗を友達にあげたら喜んでくれたんです。その子「あんたが頑張った時間がかたちになったんだね」って言ってくれました。その子ロマンチックーって思いました。

――店主

ロマンチック!

――従業員

告白します。身体を売っていました。今は……やってませんね……可愛い彼女もできましたし。ですが、一人忘れられない女性がいます。お相手は……80歳は超えていたでしょうか……。僕は指定されたホテルの最上階に行きました。もう、すごいホテルなんです。部屋に入るとメモを渡されて「洋服をぬいでねてください。くちをあけないで」と書いてありました。僕は服を脱ぎ、だまってシーツに寝ました。その人は枕元にやってきて、隣に座って僕の絵をかきはじめたんです。寝ている裸の僕を。朝に会って、昼も夜も……。途中、トイレのときは黙っていって戻りました。目を閉じるべきだったかもしれませんが、一応、何も言われなかったので開けていました。夜中に「できたわ」といって、その絵をみせてくれたんですが……ヘタクソだったんです!

黙って服を着て、部屋をでました。お辞儀をして扉をあけて出ると、執事の男性が封筒にいれた札束をくれました。物凄い重みです。僕はその札束で青山に引っ越して今ここで働いています……。昔というほど昔の話ではありませんが、僕にとっては随分前の話です。

――店主

ロマンチック!


――若い青年

えっと、思うだけじゃなくて、いろんなことをやっていきます

――店主

ロマンチック!




私もステージに立った。

「店主の頭もロマンチック!」

――店主

失格!


#10

忘れ物

 アパートのドアを開けると知らない子どもが畳の上に立っていた。なので私は、今日からここに住むのだから早く出ていきなさいと子どもに言ってやったが、当の子どもはぽかんとしているばかりだし、荷物を運ぶ作業も忙しかったのでとりあえず放っておくことにした。しかし、一通り作業が終わる頃になってもまだ子どもは部屋から出ていかなかったので、アパートの大家に電話してみると、あれは気にしない人は気にしないし別に害はないんですけどねえと弁解した。だがそれでは困ると私が訴えると、毎月の家賃を五千円安くしてもいいと大家が言うので、私はしばらく様子を見てみることにした。

 半年後、仕事から帰ってアパートに入ると、新聞紙で作ったバスケットボールのようなものがいくつも転がっているのが目に入った。一日中部屋で過ごすのは退屈だろうと思い、あらかじめ子どもに古い新聞紙を与えてこれで好きに遊んでいいと言っておいたのだ。初めはただ千切ったり丸めたりするだけだったのに、その日見たものは見事な球形をしており、畳の上に落とすとちゃんと跳ねるのである。不思議に思ってカッターで切ってみたが、それはただ新聞紙を重ね合わせて作られただけの代物であり、特別な材料が使われている様子はなかった。子どもはその後もボールを作り続け、五年後には直径が二メートルもあるボールが出来上がっていた。そのせいで六畳間の半分がボールに占領されてしまい、これはボール作りをやめさせる潮時だなと考えていたのだが、震度七の地震が起こったのが丁度そのときだった。部屋の中は落ちたり倒れたりしたものが散乱して足の踏み場もない状態になったが、巨大なボールだけは何事もなかったように鎮座しているのである。

 結局、アパートは半壊状態になり、余震で崩れる危険があったためもう部屋に住むことは出来なくなってしまった。そこで私は例の巨大なボールを何とか外に出してカッターで穴を開け、その中でしばらく避難生活をすることにした。近所の人には変な目で見られたが、そんなことを気にする余裕はなかったし、ボールの中は意外と快適だった。地震から三週間ほどで新しいアパートに引っ越すことができたのだが、新居のドアを開けたとき、私は何か忘れ物をしてきたような気分になった。地震のごたごたで忘れていたのだが、あの子どもは地震の日から見ていないような気がする。ボールのお礼を言えなかったのが心残りである。


#11

Fade Away

 母が死んだ。沈むようにして。私を知るものがなくなったその家で、私は私たちを知る最後の一人になった。私の意識と睡眠中の夢とを隔てるものもなくなった。生きながら死んでいた。痛みもなかった。いつからか家に母が現れるようになった。それは父の知る母でなく祖父の知る母でもなく、叔父の知る母でもないものだった。自分の遺影に線香を上げる母。母は私の記憶の中にある姿のまま永遠に生き続ける。
 夕暮れの光は窓を黄色く濁らせる。その光の影からネズミが現れ、そわそわと部屋を横断する。ネズミはやがて私に辿り着き、眼窩に湧く蛆の一匹をおそるおそる手に取る。私は、蛆たちが仲間の隙間を埋めるようにもぞもぞと這い回り、仲間などはじめからなかったかのように痕跡が消え去ってゆく様を眺めながら黄ばんだ蛆を齧るネズミの瞳越しにそれを見た。
 夕暮れの黄色い光はささくれて黄ばんだ壁にしがみつきながらやがて窓に吸い込まれ、家は闇と沈黙の沼で満たされる。二階に現れ始めた気配、線香を焚く母、車座になって明かりを囲む無言の男たち。ネズミは亡者たちを振り返らない。見つめ合う亡者の瞳は交錯しない。祈りもない。ネズミは死を悼まない。瞳に痛みもない。
 死は家族によって分かち合われ、死者は様々な姿で混ざり合う。遺影に写る萎んだ最期の姿に。黄ばんだアルバムに綴じ込めたはずの迷子の姿に。家族は記憶を語り合うことで死を薄める。行くあてのない死者の意識は語られなかった夢であり、忘れ去られた死者は永遠に死に続ける。
 朝の光が窓を黄色く染め上げ、押し寄せる波のように凝った闇を攫ってゆく。疥癬で黄ばんだネズミは壁の穴から川を目指す。瞳に黄ばんだ光を映しながら水を求める。その途中、朝日の中に仲間たちの面影を見るだろう。そしてやがて川に辿り着き、黄色い水面に映る自分の影に仲間を見るだろう。水を求めるように、仲間を求めるように、ネズミは口をつけるだろう。そして深く水の中へ。ふわふわと揺れる黄ばんだ闇の中で、ネズミは仲間の瞳に映る自分を見るだろう。
 だがいずれ私は立ち上がるだろう。ネズミの後を追って川へと辿り着き、水面にたゆたうネズミの死体を見るだろう。
 ネズミは再び現れる。私たちとともに永遠に死に続ける。ネズミは朝日を受けて黄色く濁った私の瞳の中に映っている自分と私とを不思議そうに見つめる。まるで初めて見るとでもいうような無地の瞳を浮かべて。


#12

英雄たちの墓場

遠い昔のある日、一人の男が死んだ。国家に意を唱え、一部の人間を唆したのだと暗殺者は主張した。銃口を向けられた男は最後にこう言ったという。
「この国はやがて自由で平等な社会を築くだろう。私はその道を作った。あとは人が歩くだけだ」
男は胸を撃たれ息絶えた。

その国の知識人たちは皆、その男の書いた物語を読んだ。それは国民の支配された苦しい生活を描く物語で、多くの者が胸に秘めていた感情に火をつけた。やがて人々は暴動を起こした。多くの犠牲の末に支配者が変わり、社会体制も変わった。しかしそこに自由と平等はなく、都市では以前よりも多くの血が流れた。国民たちは疲れ果て、また生きるために身を削った。

それから半世紀が経った頃、その国の貧しい村に男児が生まれた。成長した彼は、働きに出た隣町の図書館で、今は亡き英雄が書いた物語に出会った。青年は国を変えるのだと決意し、書を読み勉学に励んだ。やがて人望を得た彼は革命を企てた。それはすぐに国中を吹き荒れる嵐となり、支配者は亡命した。青年は国を変えたのだと確信した。だが、結局革命は鎮圧され、都市の路上には人々の死体が重なった。青年も街の広場で処刑された。彼の妻は子を抱いてそれを見ていた。

それからまた半世紀が過ぎた。郊外育ちのごくありふれた少女が学校で歴史を学んでいた。
「私たちは死体の山の上に生きているのですね」
少女は溜息を漏らして呟いた。彼女が開いた教科書には、自由と平等の為に死んでいった革命家たちの写真が並んでいた。老いた教師は顎髭をさすりながら微笑んだ。
「この国は何も変わらないね。彼らは無駄死にしたんだ。多くの国民を巻き込んでね。何と言っても、その広場で処刑されようとしている写真の男は、私の父だが」
少女は泣いた。正義とは何なのか彼女にはわからなかったが、それが誰にもわからないことが悲しかった。

やがて世界の情勢は変わり、大戦も終わった。その国にも変化の時が来た。押し流される時代の波に乗って、また一人の男が国を変えたのだ。都市は発展し、国民の生活は前より豊かになった。そして新しい憲法は自由で平等な社会を約束した。
ところが十数年後、男は反対派から独裁者だと非難され、暗殺された。多くの国民が嘆き悲しみ、墓碑には献花に訪れる人が絶えなかった。その中に、人一倍上品な服を着た老女がいた。
「ああ私の子、あなたはきっと正義よ」
小さな涙を零しながら、彼女は微笑んだ。


編集: 短編