第185期全作品一覧

# 題名 作者 文字数
1 怠け女 shichuan 993
2 蜘蛛 5895 853
3 ぬるっと暑いこんな日は ウワノソラ。 976
4 ドライサーディン ハギワラシンジ 544
5 おでんわ 雪深うず女 964
6 桃太郎 岩西 健治 1000
7 君が好きで。 さばかん。 772
8 ぼたんゆき 宇加谷 研一郎 1000
9 Gustave 塩むすび 1000
10 手続き euReka 1000
11 新しい qbc 1000
12 私立うっふん学園 テックスロー 970

#1

怠け女

 あるところに、とても怠惰な女がいた。
 ひねもす南向きの陽当りのよいソファに座って、ぼんやりしていた。
 夫は、甲斐甲斐しく女の世話をした。食事は、動かない女のカロリーを緻密に計算し、また咀嚼することを面倒がる女のために、流動食を中心に、スプーンで掬い、口の中まで入れてやった。なかなか嚥下しない女を励まし、根気強く待った。自らの食事は二の次だった。洗濯はもちろんのこと、女の着替えまで夫が手を貸した。季節や天候、女のその日の気分に合わせた夫のコーディネートだった。
 女は確かに美しかったし、夫は人形のような女を愛していた。新婚のころ、夫は女の声が聞きたくて、しきりと話しかけた。すべてに反応の薄い女に、苛立つこともあったが、次第にソファから動かなくなった女の世話をするにつけ、夫は新しい喜びを見出した。女に「生」を見たのだ。静かな部屋に響く喉を震わせ嚥下する音、服を脱がした瞬間に立ち昇る女の体臭、左乳房の下に並ぶ二つの黒子が呼吸に揺れる様。女の髪を梳き、爪を整える作業は至福のときとなった。この美しい女の生を自分が独占しているのだ。
 ある日、夫の父母が交通事故で亡くなったと知らせがあった。夫の実家は遠方で、飛行機を乗り継いでも一日かかる場所だった。夫は泣いた。泣いて女に訴えた。必ず、一週間で戻るから、許してくれ、と。夫は、急いで準備をした。女の好きなアップルジュースをいれた哺乳瓶を天井から吊るし、キャップをゆるめたペットボトルの水を足元に置いた。ソファの周囲に配置したテーブルに、レトルト食品や缶詰を積み、お粥を入れた保温ジャーを並べた。さらには自家製のフルーツヨーグルトを入れた瓶にストローを刺し、女の首からぶら下げた。相変わらず反応しない怠惰な女に、細々と夫不在時の注意点を聞かせ、後ろ髪を引かれながら出かけた。
 夫は両親の葬儀を済ませると、一目散に女のいる家に戻ってきた。予定より短い五日後のことだった。女のいる部屋で見たものは、女の死体だった。ストローの刺さった瓶と天井から吊るされた哺乳瓶は空だったが、そのほかの飲食物を触った形跡がなかった。餓死。女はソファから動かなかったのだ。夫は後悔し泣いた。服を脱がし、身体を拭き、白装束に着替えさせようとしたが、死後硬直の始まった身体は、着替えにも難儀した。ああ、女は死んだのだ。女の死を実感すると、男の涙はぴたりと止まった。


#2

蜘蛛

部屋のフローリングで大きめな蜘蛛を見付けたのは深夜二時頃であったか。喉が乾きキッチンへ向かい部屋の電気を着けるとソイツが居た。対して驚きはしないが何処から入ってきたのだろうとゆっくり歩み寄った。蜘蛛は枯葉の様な色をしており、今まで見てきた蜘蛛よりも少々ふっくらしていた。近付いても動く気配は無く、寝ぼけ混じりのぼんやりする頭で蜘蛛と見つめあっていた。

近場に有る椅子に座り様子を見れば蜘蛛は足元へちょこちょこと近寄りまたこちらを見ていた。何だか其の様が愛らしく思え爪先でつついてみる。それに応える様に蜘蛛も爪先を柔い脚で撫ぜる。まるでペットでも飼っているかの様だ。特段虫が好きと云う訳でも無いがこの蜘蛛は愛らしく前世で夫婦だったのでは、と思える程に愛おしく感じた。

愛しい妻を爪先で弄る。ふにっとした感触。こそばゆい脚。そしてこちらを見詰める目。愛らしい。もっと触れたい。もっと、もっと妻を感じたい。もっと強く。もっと激しく。霞んだ脳からの伝令を足が受け取り愛おしい妻の腹にゆっくりゆっくりと、力を入れていく。殺してしまわぬ様に、慈しむ様にゆっくりと。それでも妻は逃げず多少脚をばたつかせるだけであった。苦しいかい?問うても言葉は帰ってこない。その間も力は込められ続け、プッと軽い音と共に小さく黒い点が四方へ散っていく。子持ちであったか。足にも黒が登り、増え続け、覆われ、爪先には生暖かい感触が有った。黒の隙間から見えたのはだらりと投げ出した四肢と裂かれ溢れる臓器。愛しい妻の顔。黒に覆われながら思い出す。喉が渇いてたんだ。

目を覚ましキッチンへと向かう。変な夢を見たな、と水を飲みながら部屋を見回す。フローリングには腹が裂かれた妻の死体が有る。臓物と舌は四肢と同じくだらしなく地へ吐き出されており臭いもキツくなってきた。蜘蛛なら簡単に始末出来るのにな、と食器乾燥機へ入れ今尚乾燥させている息子を見る。
「流石に何百匹も来られちゃ乾燥機、足んないかな。」
自嘲気味に笑い、飲みかけの水を捨て寝室へと戻った。


#3

ぬるっと暑いこんな日は

ぬるぬると這いつくばりたい。
暑くてだるくて、帰ってきたばかりの私の部屋は最悪な感じで暑い。全ての気力を奪っていくこの暑さでも、すぐにはどうすることもできないけど。とりあえずクーラーのスイッチは真っ先に入れた。
その後、CDも掛けとこうかなと思って「熱帯夜」というタイトルのシングルをコンポに突っ込む。あまりのダルさに、受け皿からはディスクはちょっとズレていたけど吸い込まれる時上手に型にハマっていった。

流れ出す曲は甘ったるい歌詞に、甘ったるくてゆったりしたギターリフ。

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じっとりとぬるい 湿った空気
風が吹いても 変わらぬ私の体温
いつだって君に触りたい
こんな暑い夜はとくに

会いたい いますぐ。そう言った私を
わがままばかり、と叱って 今すぐ ここに来て

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クーラーがきくのが待ちきれず私は、上に着ていたTシャツを脱いで上半身ブラジャーだけになっていた。それもなんだか、窮屈になって脱ぎ払って半裸になる。曲を聴きながら、そうだな。私も、あの人もきっとそうだなと、頷く。

『いつだって君に触りたい こんな暑い夜はとくに』

好きな人にはそりゃ触りたいでしょ。
触るだけじゃなくて、それ以上もしたいしするでしょ。

「会いたい」

この曲を聴く前も、あの人の事を考えて思っていたことだけど。
当たり前みたいに、この曲を聴いてもまた「会いたい」と考えた。

そう、何度だって「会いたい」とは考える。
けど、「会いたい、いますぐ。」「今すぐここに来て。」なんて言わないけど。色々と弁えてますよ、私はもういい年の大人だし。

私の場合だけど「会いたいな」、そんな事を濃く考えてる時は相手も同じように感じているのか電話が鳴る。それで大したこともない話を一通りした後、最後に「会いたいな」「触りたいな」と言い合って電話を終えるのが大体の決まりなのだ。色々話はするけど最終的にはこの気持ちを言葉で伝える為に、電話をしてくるような気がする。

そうして、会いたいけど会えない気持ちを二人で埋めている。

「会いたいな」

今日もまた、電話が掛かってくるかもしれない。きき始めたクーラーの風に当たりつつ、そんなことを予想する。
風は気持ちよくても、あまりにもベタつく自分の肌にやっぱり最悪に気持ち悪い。嫌気がさしてその場でズボンも脱いだ。
そのまま私はシャワーを浴びに向かった。


#4

ドライサーディン

今考えていることはなんですか?


それはたぶん、オイルサーディンのこと。ラトビア産の、おいしいやつ。あとは成城石井で買った、さくさくのポテチ。
僕はおそらくそう答える。


「暇なのね」
そうとも言う。
「なら、一緒に踊りませんか。どうせ、こんなところ、誰も来ないだろうし」


彼女はそういって、ソファに腰かけた足をぱたぱたさせる。僕は指を意味もなくぱっちんぱっちんさせる。


「僕は躍り方知らないよ。知っていても踊らない。シャイだから」
「じゃあ、なんならするの?」
彼女はそう言う。
僕はなにも言わない。


僕はフリーマーケットに持ち物を出品してる。家の全部とテレビと車。それで、今は売り物のソファに腰かけてる。
「なんならするの?」
彼女は言う。
僕はフリーマーケットの商品を手に取っていく。なんとなく。


「やめてったら」
僕は彼女の手をとる。
誰も見てないさ。
「見えるかもしれないわ」
構わないよ。
「それがしたいの?」
僕は手を手に取る。
そして、煙草に火を点ける。僕は煙草を吸ったことはなかった。でも吸ってみたくなった。誰かの手を取ったまま。


僕は彼女を部屋に連れ込んで、楽しくお話をした。ラトビア産のオイルサーディンのこと。イギリスのビスケットのこと。
それで、話が尽きて、彼女が言う。
「なんならする?」
「もしかして、何もないの?」


#5

おでんわ

それでいぇぃいという認識ですが
 ダカラソウジャアリマセンッテ云ッテルデシヨ
相違ありませんでしょうかあ
 何ドモ何ドモ何々ダイッタイ何旦那コレ
そぅいなぃなぃばあ
 ヲンナ字コトバオクリ返シッ・ッタク
そういなぃでぃないうそ。回文できましたあ
 馬河馬鹿シイ電話デ角煮ンスレバイイダケノコ
携帯は嫌いと認識しましたから揚げの二進式を鳥餅っと
 マアタア云イ逃ガレエデスカ
強引に進める積もりはないのでぇん御兎なさいあ邪馬ります
 勝手ニ相違ナイカラ芋ッテコトコト人参煮チャェッテドウスルキヤキ
そぅいぅことでしたらこれからタイスキ焼き鳥のたれてっきりその
 噛ミアワナクテ着メロンノ歯軋リメンドクサット鳴ットクノ携帯ホン
そちらの形態を確かめて質問のつもりが鍬鋤嫌いに
 勝手ニ相違ナクナイデスト返事スルナッテン非常錦
うちらはOKですぃとの認識で味しめじめし
 ダカラア、ニニンガ4ハOKジャアリマセンカラン桶ニ湯湯婆ッテオカシイデシヨ
四畳半に敷金煮出汁て札びらを切ったら
 妊娠ノ角煮ンガ出来テイナイデショッテ
半襦袢の下はあらかじめ二枚舌びらめだった茸で
 出来テル想像妊娠サレテモシランヨ
早く解凍できないと対応が難しくなるので
 妻ルトコロ基礎体温ガ難ダツテエ
冷凍ざあめんは自然回答してから混ぜ混ぜしましよ
 マゼルナマキケンソバラーメン難産ダコレ
あちらはOKこちらもOKなら早くOKしないといぇい
 アタリメチャメチャダカラオケ鳴ンチャッテウザッ+九+八+七+六+五
あちらがOKこちらはNGだからこちら煮えのき茸どあちらの尾のみは悪く鳴りませんくゎらぁわぁらゎ
 アッチガッテドッチノコッチヤエエト何何ダァドウデモイイ酔ッテカピイピーピー4ー3ー2ー1ー0
先にNGした方が印象ぃよぃよという絲電話
 十、百、戰!ダレノ飲酒用ガ酔イモ悪芋アンタノ所為デシヨ
そぅいう意図ぢゃなくてたこ足切りでため息はあ
 アンタノ胼胝ノ目糸屋の娘ハ眼デ殺スワザトヤッテンデ死ネッ
そうぃうOKではなぃわぃなあと角煮んできました
 酔イカゲンニシロツプ故意ツモウ嫌ナンダア
ご馳走様の体温を図らせていただきまあす
 大ッッッ嫌アッタマ狂ッテルホルン吹キ
焜炉は電話も煮含めていただきますぁりがとぅ光栄です
 フザケル飲モウ酔い加減ニシテ妻ルトコロお千代子デ御返盃
お姉さん風呂吹きいっちょうお願いしまあす


#6

桃太郎

 むかしむかしあるところに。
 桃柄の織物に包まれた赤ん坊は、鬼と同じ肌の色をしている。赤ん坊はひとりではない。犬柄の織物、猿柄の織物、雉柄の織物、桃柄の織物にそれぞれがくるまれている。別々の場所で育った四人の鬼子は、やがて一緒に暮らすことになる。犬は男。猿も男。雉と桃は女。成人した四人の鬼子は、まばゆく輝く満月の夜、たたらい島に住むという鬼を退治するために出発する。
 満月の夜。たたらい島には大きな方舟が浮かぶ。この方舟は海を飛び、月へ向かうのだそうだ。たたらい島の鬼は四人の鬼子を待っていたという。だから四人は鬼とともに方舟に乗る。その日を境にたたらい島の鬼はいなくなり、それから百年が経って、四人のことを覚えている者は誰もいなくなる。
 さらに百年後の桃の季節。夫婦は桃を拾うために川にいた。村に流れる川の上流には大きな桃の木があった。落ちた実は川の流れに乗って村へと運ばれた。桃の実を拾った女はそれを夫とともに食べ女は妊った。生まれた赤ん坊は桃太郎と名付けられた。桃太郎は猿柄の着物を着た竹取の翁から、かぐや、という名の妻をもらった。
 かぐやは冬の夜、織物を紡ぐと言った。そして、機織りの姿は決して見ないでくださいと言い、桃太郎はそれを忠実に守った。かぐやの織った織物は高く売れ、桃太郎とかぐやは裕福に暮らし、やがて、ふたりの間には四人の子供が生まれた。かぐやはそれぞれに、犬柄、猿柄、雉柄、桃柄の織物で着物を作って着せた。
 海岸で遊んでいた四人の子供が出会ったのは、ベッコウ売りの太郎である。ベッコウ売りは、桃柄の娘の抱えていた亀はお前たちのものかと聞いた。子供たちは口々にそうだ、そうだ、と囃し立てる。ベッコウ売りは、その亀を、乙姫からもらったこの玉櫛笥(たまくしげ)と交換してほしいと願い出た。了解した子供たちはベッコウ売りからもらった玉櫛笥を開ける。四人は当然のごとく老人になる。
 犬柄は山で芝を刈り、猿柄は竹を切る。雉柄は川で洗濯をし、桃柄は遊んで暮らした。遊んでばかりいる桃柄を三人は疎ましく思っていた。だから、三人は桃柄を箱につめて川へ流してしまう。
 川上から流れてきた箱を開けると、中には老婆が入っていた。老婆は鬼と同じ肌の色をしていた。拾い上げた夫婦は、なんだい、桃じゃなかったわ、と言って、老婆を元の川に流してしまった。この先は海であるが、竜宮城にはたぶん着かないであろう。


#7

君が好きで。

僕は君が好きだ。毎日花が咲いたような笑顔を見せる君が。
遠くから見つめることしか出来ないほど僕は恥ずかしがりだし、目も合ったことがない。勿論、君に僕に対して特別な感情が一切ないことは分かっている。完璧な片思いだ。
僕は根暗だ。自分でもはっきりと言えるくらいにはそうである。
友人などごく少数で、いつも君を盗み見ては、心の中で微笑んでいるのだ。あぁ、今日も素敵だ。なんて。
明かりもつけない僕の部屋は、まさに性格をかたどったような場所で、僕はベッドに横になって君のことを考える。
もし、君と喋ることが出来るなら。
嬉しくて、きっと僕は君と目を合わせることが出来ないに違いない。でも、君は心優しいからきっと僕を気持ち悪がるようなことはない。にっこりと、いつもの笑顔を見せてくれるに違いない。
そして、僕の想像は尽きることがない。欲望に近いそれをいつもいつも、永遠に考えるのだ。
もし、好きだと伝えられるなら、きっと君は受け入れてくれるに違いない。もしかしたら、好きになってくれるのかもしれない。既に両想いであったらいいのに…。
もし、君に触れることが出来るなら、君の体温はきっと温かいことだから、冷え性で冷たい僕の手も、じんわりと温めてくれるに違いない。
もし、君にキス出来るのだとしたら、僕は恥ずかしくて始終顔が真っ赤になって、君には男らしくないと笑われてしまうのではないだろうか。それでも、柔らかい君の唇に触れる喜びは、それはもう想像できないほどに違いない。
あぁ、あぁ。もしも、もしも君を犯すことが出来るなら。君を優しく包み込んで、吐息を聞いて、君に溺れることが出来るなら。僕は、どうなってしまうんだろう。
君が好きだ。とてつもなく、好きで好きでしょうがないんだ。
一度でいい。僕を見てはくれないだろうか。
そう考えては目を瞑り、目を開いては現実の苦い味を確かめるんだ。


#8

ぼたんゆき

公園の立ち話がきっかけで彼女をチッペラリと呼ぶようになって随分たつ。その日も赤黒青を不規則にくみあわせたスカートをはいたチッペラリが、ドアを開けると立っていて、下の駐車場で遊んでいる子供を見ていた。

「やあ、チッペラリ」

私が言っても知らん顔をしている。

「みそ汁がのみたくなったのよ」

チッペラリは今度はにらみつけるような視線を投げかけてくる。

「まあ、入れよ」

私がそう言い終わらないうちに、チッペラリは靴を脱いで部屋にあがり、カーペットにごろんと寝転がって、柔軟体操などをはじめる。

「体がね、かたいのよ、さいきん。あれ、みそ汁まだ?」
「まだできない」
「先にみそ汁が飲みたいってあたしは言ったと思うけど」

私は台所へいって、常備しているインスタントのみそ汁にワカメを加えて、お湯をそそいで持っていく。

「みその香りがしないよ、インスタントじゃないの」

チッペラリは目をとじて、ゆったりした動作でおわんに口をつける。そのあいだは、彼女は黙っている。私もしゃべらない。チッペラリの喉がゆっくりと動く。

私もお椀にみそ汁をいれて戻ってくると、彼女は再び柔軟体操をしていた。体がかたい、と言っているのは本当で、ほとんど曲がっていない。シャープペンシルの芯のような体で、厳しい目をしている彼女を見ていると私は思わず笑ってしまった。

私の笑い声に彼女は機嫌を悪くしたのか、柔軟をやめたといって、持ち込んだ雑誌を読みはじめる。

昼の時間が過ぎていく。私とチッペラリの間にある、奇妙な一本の線。私が彼女と同じくらいの年なら、私は強引にこの線を踏み越えようとしたかもしれない。

「じゃあ帰る」
「気をつけてな」

チッペラリが帰ったあと、私はお椀を洗い、それが終わるとリビングの椅子に座ってひとりまどろむ。目を閉じると私はたいてい眠ってしまって、夢なのか現実なのかよくわからない状態をさまよっている。

その日は珍しくチッペラリが笑顔で立っていた。
「あたし、結婚することにしたの」

そりゃあよかったな、と私が言うと急に泣きだして、私を押しのけて部屋に駆け込み、棚のブランデーを一気飲みしだした。

そのときも、派手なスカートに紫のシャツを着ていた。酔っぱらって眠った彼女に毛布をかける。

寝息をたてているとチッペラリはとても素直で正直な女の子にみえる。たぶん、それが彼女の本当の姿なんだろう。私はなにか彼女に与えることができたらな、と考えたが、何もできない。


#9

Gustave

 人が死ぬために入る山があった。山あいの暗い谷には死体を糧としている集落があった。集落には父があり、母と娘は父と兄達の子を産んだ。そうして一族は血を濃くしながら増えていった。霧の吹き溜る朝、一族は山狩りに出る。そこで一族は死体の持ち物を手に入れる。一族にとって死体とは財であり知であり勲章でもあった。
 その集落の外れに四人の兄弟が暮らしていた。あるとき父はこの兄弟に独立して村を作れと言い渡し、松明を数本持たせた。先頭に立ったのは狗だった。頭骨が歪んで目と鼻が縦に伸びているせいで鼻が利くという印象を与えていたが実際はそんなことはなかった。その後ろに鱗のような皮膚を持つ名の無い巨躯が蛙を背負っていた。蛙は足を力なくぶらつかせ短い腕で巨躯の首にしがみつき呪詛を吐き続けている。濁った白い目を持つ猿が白内障の老犬たちを引き連れてその後に続いた。
 一行は雪の残る霧深い森の中を進んだ。狗が導く形になっていたが、その視界には片時も消えることなく黒い影が寄り添うようにして共にあった。人のような突起物であるそれを狗は弟だと確信していた。弟は狗に行く先を示していた。森の中に雪解けの音がひそひそとさざめいていた。
 夜、焚き火の炎の揺れる中で松明の意味について蛙が疑問をこぼした。夜も寝ずに進めということだ、猿はそう返した。村の方角でかがり火が小さくゆらめいていた。村からもこの焚き火が見えているはずだった。
 狗は霧の中に死体を見つけた。さすが狗だと蛙が褒めた。狗は弟をかえりみたが影は影のまま佇んでいた。幹に縄をかけて首を吊り、祈るような姿のまま萎びたその死体は女のものだった。死体に張り付いた無数の蝶が呼吸するように羽を揺らしていた。蛙は死体を次の村の標にしようと提案した。反対はなかった。巨躯が死体を抱えると蝶が一斉に舞い飛んだ。
 彼らは川に差し掛かった。向こう岸は霧で霞んでいた。彼らは川のほとりで箱に入った死体を見つけた。死体はまだ新しく、手足と首は落とされ、ナイフと鋸が同梱されていた。彼らはそこで火を熾し、死体から少しずつ肉を削いで焼いて食べながら今後について話し合った。ここでいいだろうと猿は言った。女がいなければ村を作れないと蛙が返した。巨躯はナイフに触れてはじめて自我を持ち、自らを鰐と名付けた。女がいるところが一つだけある。狗がそう告げた。暗闇の中に無数に浮かぶ犬たちの白い瞳がまたたいた。


#10

手続き

「猫になってしまうと国民としての諸権利や、財産、人間の言語などが失われてしまいますが、そのことに同意しますか? ……はい、では猫になったあと、その実施日から数えて八日以内であれば人間に戻ることができますが、そのことはご存知ですか? ……はい、では実施日から数えて八日間は、国民としての諸権利や、財産、人間の言語は保持されますが、それを過ぎると諸権利等が失われ、原則的に人間に戻ることはできなくなりますので十分ご注意下さい。……はい、えーと“原則的に”とはどういうことかについてはですね、たとえ九日以降でも、国民としての諸権利は再び国籍を得ることで取り戻すことができますし、財産も譲渡した相手によっては返還してもらえる場合があります。しかし、人間の言語は一度手放してしまうと再び取り戻すことが難しい場合が多いため、その場合は精神的な面や社会的な存在としては猫のままという状態になってしまい、完全な人間には戻れなくなってしまうため、“原則的に”人間に戻ることはできないということです。……そして“社会的な存在として猫”というのは、例えば、突然知らない人から頭やのどを撫でられたり、幼児言葉で話しかけられたりすることがあるということです。しかし、仕事をさぼったり居眠りをしても怒られることはありませんし、むしろ癒しをもらえる存在として大事にされることも多いでしょう。何しろ、存在としては猫なのですからね。……はい、仕事に関しましては、完全な猫の場合は何か仕事をしたとしても法律上の労働とは認められませんが、いま問題にしている人間に戻り損ねた状態の場合は、国籍を得ることによって労働する権利が与えられます。ただし、人間の言語が失われているため一般的な仕事をすることはほぼ不可能ですので、企業等のマスコットや動物タレントなどの特殊な仕事に限られることになるでしょう。そして社会的な存在として猫であるなら人に飼ってもらうことができますし、無理に働かなくても食事と棲む場所を確保することは可能です。……はい、人間に戻り損ねた状態はどんな見た目になるのか、ということですが……それは説明が難しいのですが、人間でも猫でもない何かということになります。そもそも“存在として猫”である場合は猫として認識されるので、どんな見た目であれ猫として扱われるということです。……手続きは以上になりますが、他に質問はございませんか?」


#11

新しい

(この作品は削除されました)


#12

私立うっふん学園

 「いらっしゃいませ。ここではお客様はすべて私立うっふん学園の生徒として接客をさせていただきます。私が店長、もとい学長の大河内です。皆さん学生といってももうすでにいいお年ですが、つかの間の学生気分を楽しんでいただくため、まずは生徒手帳を配ります」

 待合室で学ランに着替えさせられたまでは良かった。そういう気分を味わいたくて紹介所でこの店を選んだところはある。私を含め待合室には5人いて、皆一揃いの黒い学生服を着ていた。一番若そうな男でも25歳くらい、上は45歳くらいだろうか。学ランの着こなしがそれぞれ少しずつ違うのが面白い。待合室の作りも教室のそれを模していて、二つ並びの机が5組、前3組後ろ2組で黒板に向かって並んでいる。
 
 一、私立うっふん学園の生徒たるもの、常に向上心を持つべし
 二、私立うっふん学園では、みんな「仲良し」であるべき

 生徒手帳に書かれた校則を読んでいると、若い女性が5人入ってきた。詰め襟を着せられて心持ち紳士ぶった気持ちでいた私たちは一気に色めきだった。皆心持ち穏やかな笑顔になる。

「おはよー」
「おはよー」

 横の席についた女が微笑んだ。「美奈だよ」美奈はそう言うと横の席について、教科書忘れちゃった、と舌を出した。もういいかと思い太ももに手を置くと非常に複雑な表情をしてその手を外す。周囲を見渡すと肩に手を回すもの、気の早いものは制服の前合わせから手を差し入れようとするものがいたがそのことごとくが拒絶にあっていた。

 大河内が部屋に入ってきて大きな声で「我々が提唱しているものはそのような仲良しではない」と叫び、男五人はばつ悪く自分の席に戻った。殺気と興奮と性欲が入り交じり、教室内には一種異様な空気が流れていた。その中で大河内は自作であろう英文詩を朗々と読み上げる。

 大河内の声質はとてもどっしりとしており、十人の生徒はしばし聞き入った。拍手を制しながら大河内は「ありがとうございました、一人五万円ちょうだいいたします」とのたまう。どよめく教室の中、勇気ある25歳が立ち上がり「私立高校はここ大阪では無償化されたはずだ」と叫ぶと、大河内は実にあっさり引き下がった。
 拍子抜けした感じで五人は店を出てそのまま居酒屋に入り、ビールでも飲みながら今の件を話そうと思ったが、詰め襟を着たままだったため入店を拒否された。


編集: 短編