# | 題名 | 作者 | 文字数 |
---|---|---|---|
1 | 小野くんは芥川賞をとる | 青沢いり | 1000 |
2 | ポタージュ | テックスロー | 988 |
3 | ケンタウロスと詩人 | shichuan | 998 |
4 | ホットケーキ | 5895 | 1000 |
5 | そんな君。そんな私。 | ウワノソラ。 | 995 |
6 | 玉砕トライアングル | 瀬谷 このは | 318 |
7 | 五日目。 | 岩西 健治 | 1000 |
8 | 健常 | はんどたおる | 943 |
9 | 粃 | 塩むすび | 999 |
10 | 自画像 | 宇加谷 研一郎 | 1000 |
11 | 森を統べる | たなかなつみ | 842 |
12 | いないいない | Y.田中 崖 | 1000 |
13 | 神様とスパイ | euReka | 1000 |
14 | 家 | qbc | 1000 |
何をしても空気のような存在だった小野くんが、ある日話題の人物になった。
ウチの高校は、部活動が総じて弱小で活気がない。だから集会の表彰で「文芸部の小野くん」が呼ばれたとき、鼻で笑うような、そんな空気がした。
あの人、文芸部だったんだ?ていうか文芸部なんてあったっけ?
どこからともなく聞こえてくる声。
「小野くんは、全国高校生文芸大賞で最優秀賞を受賞しました」
司会の先生がそう言った瞬間、体育館にいる全員が彼の後ろ姿を見上げた。何かの効果音でも付きそうなほど、一斉に。
サイズの合わないブレザーのせいで足が短く見える、いつもの小野くん。だけどこの時は、崇高な文学少年のような雰囲気さえ醸し出している、ような気がした。
集会が終わってからも、みんながチラチラと彼を見て、小声で彼の話をした。尊敬と嫉妬と嘲笑が入り乱れて、行き場のない気持ちを弄んでいた。
「凄いねえ、小野くん。そんな才能があるなんて羨ましいなー」
休み時間、友達のミカコが素直な感想を述べると、ユナは巻いた茶髪をいじりながら冷たく返した。
「そう?それより友達つくった方がいいんじゃない?あの人」
「えー、確かに話しかけづらいけど、個性的じゃん。ね、リサ」
二人の視線が私に向けられる。なんか、息苦しい。
「本人がいいなら、いいんじゃない?」
そうだけど、とユナが刺々しく呟いた。
彼女にとっては、交友関係が広くてインスタのフォロワーが千人超えで彼氏が途切れないことがステータスなのだから、仕方がない。小野くんの高校生活は、孤独で虚しい人生の序章ぐらいにしか思えないのだろう。
「だってなんか、なんかさあ……」
その刺々しい口調が崩れ始める。
「あのメガネくんが、この学校で一番凄い功績残しちゃったんだよ。まじ笑うわ……」
彼女はそう言って、視線を窓の外にやった。
小野くんは昼休みになると教室からいなくなる。図書室かな、と初めて気づいた。
「その気持ちもわかるけどね」
ミカコが言うと、ユナは恨めしそうに睨んでから、小さく溜息をついた。
「あーもう、ウチらなんでこんな真剣に小野くんの話なんかしてんだろーね」
彼女は投げやりに自嘲して、自分の席に戻ってしまった。
その日のホームルームで、担任が「次の目標は?」と訊ねると、小野くんはか細い声で「芥川賞」と答えた。
それから彼のあだ名は「芥川くん」になったけど、私はそういう風には呼べなかった。小野くんはいつか、芥川賞をとるのだと思う。
夫は仕事中心の人間で、結婚に際して私は良家の娘ということのほかには何も求められなかった。私が子供ができない身体だとわかるまでは、決まった頻度で性交も行った。月経周期を聞いてくることはなかったが、ある程度妊娠しそうな日にあたりをつけて私を性交に誘っているらしかった。私をその気にさせるよう時に下手に、時に高圧的に甲斐甲斐しく動く夫に当初はいじらしさも感じたが、射精前射精中射精後も全く変わらない彼の澄んだ目を偶然見たときに恐ろしくなり、時を同じくして私の不妊がわかったので、電源を落とすように性交はそれ以来しなくなった。
彼は会社では子供がいないことを隠さず、そのことにより少しの憂いと同情とを周囲に感じさせることに成功したらしかった。彼は順調に出世し、金はどんどん貯まり、それを私は無駄に使った。彼は常にお金を使うことに自覚的であり、無駄金もまたいつか別の意味で報いてくれることをよく知っていたため、私のどんな無茶にも金を払った。私は豆腐を噛むような気持ちで金を使い、次第にそれに疲れた。
そして私は時間を無駄に使うことにした。具体的に言うとネットゲームだった。剣と魔法の世界で私は回復系の魔法使いだった。キャラ設定はできるものできないもの含めて年齢も何もかも実際の自分と違うものにした。ただ不妊であるということだけは(ゲーム上設定はできなかったが)自分と同じにしていた。
意識的にのめり込んだつもりが、自分の想像よりゲーム時間が長い日が多く、程なくゲームは私の生活のほぼすべてとなった。夫は私が家事をしなくなっても何も言わず、決まった時間に何かしらの手料理を机まで持ってきた。私はそれを適当に食べ散らかし、ゲーム上ではパーティーのどんな小さな異変にも細やかに対応した。
ある戦士とゲーム上で長い時間過ごすようになり、恋愛感情が芽生えた。チャット上でキャラ同士をセックスさせる運びになり、私は「ゴムつけなくていいよ、妊娠しないから」と発言してしまった。戦士は即座にログオフをし、私の分身とチャットログだけが残された。
ディスプレイが消え、画面にうつろな私とその後ろにコンセントを持った夫の姿が映った。もう片方の手には彼が作ったスープがあった。私はものすごい勢いでスープに飛びつき、舌をやけどした。久しぶりに見る夫の目は目やにがたまってざらついていて、濁っていたが暖かかった。
酒場でケンタウロスと詩人が酒を飲んでいた。
「おい、ケンタウロス。馬のくせに一丁前に酒を飲むたあ、どういう了見だ?」
「別にいいだろ。それにおれは馬じゃない。白馬は馬にあらず、という言葉をしらんのか。いわんやケンタウロスをや、だ」
「詭弁だ。てめえがいつも追いかけてるのは、牝馬のプリ尻だろう?だから馬の類だ」
「そりゃプリ尻は好きだが、お前も詩人のくせに品がない。もっと粋な言葉遣いができんのか」
「ふん。おれは、言葉を売って生活してんだ。てめえが酒代だすならまだしも、一銭の得にもならんところで、雅な言葉が出てくるかよ」
「よし、一杯おごろう、おれに詩を作ってくれ」
「一杯だけじゃあ、一句だけだな、ふーむ」
悲しいかな、ケンタウロス
そは馬にあらず、人にあらず
「なんと陳腐な。詩人も大したことないな」
「ふん。酒一杯ぐらいじゃあ、この程度よ。それに、詩なんて誰でもできる。これは詩じゃ!って叫べば、それが詩よ」
「そんなもんか?」
「あとは、どれだけ言霊をのせるか、だ。てめえに詩を献じるには、てめえを知らにゃならん。どっこらせ」
「おい、あぶねえ、乗るな」
「ほう、これは発見じゃ!ケンタウロスに乗ると、前が見えん。見えるのはケンタウロスの頭じゃ!」
「耳元で叫ぶなよ、うるさい」
憂いを頭にいただき
勇猛の半身と同居す
「おれはハゲてねえよ」
「ふーむ、日焼けの跡みたいにくっきり分かれとるのう。興味深い」
「おい、境目を触るな、ぞわぞわする」
「人と馬の融合か。この理不尽の存在はちょっと羨ましくすらある」
「背中でぶつぶつ呟くな。降りろ、降りろ」
「最近は、世知辛くてのう。小説っぽい詩を書いたら、これは詩じゃないって言われるし。挿し絵をつけたら落書き詩集なんて揶揄されてよう。詩人は詩らしい詩をつくれって、あの編集担当なにもわかっちゃあいねえ」
「こいつ酒に呑まれるタイプか」
「それよ、それ」
「?」
「最近の人間はすぐ言葉で分類したがる。分類して分かった気になって安心してクソして寝るんだ」
「おれ、人間違うし。っておい、寝てんのか。詩人ってのはどうしようもねえな。しかし、この感触、なかなかプリプリしてる。詩人ははじめてだが、相手を知ることで詩ができるらしいし、偉い人は森羅万象に多情多恨なれって言ったもんだ。今夜はこれを味わって、おれも詩を吟じるか」
そして、ケンタウロスは酒代を支払うと詩人を乗せたまま、夜の街へと消えていった。
「明日は誕生日だからさ、ホットケーキでも作ろっか。」
母はホットケーキの袋を持ち上げ笑った。明日は母の誕生日。私は酷く胸が苦しくなった。
今日の母はご機嫌であった。明日は自分の誕生日だから何のケーキを買おうかどんな夕飯にしようか、と楽しそうに悩んでいた。私はそんな母を見るのが好きだった。
母は若くはない。しかし、誕生日を幼子の様に喜ぶ心は持ち合わせている。きっと来年も心踊らせながらケーキを選ぶのだろう。
母が酷く落ち込んだのはその日の夜であった。仕事から帰って早々、祖母は母に言った。
「名前貸してくれない?」
名前?その意味が分からず母と私は聞き返す。どうやら祖母は消費者金融から金を借りたいらしい。何故借りたいのか、どの額借りたいのか問うと祖母は目に涙を浮かべ駄目?お願い。としか言わなかった。母は泣きそうに成りながらも質問を投じる。案の定、祖母は取り合わない。そんな母を見て痛ましくやるせない思いになり、出来る事ならこの場で祖母を殺して話ごと流してやりたかった。返すアテはある、絶対に迷惑は掛けないと半ば無理矢理母を連れ祖母は金を借りに行った。
一時間経っただろうか。私は二人の帰りを家で待っていた。何に使うのか、いくら借りるのかすら分らないが、きっと適当な理由を付けて申請を通すのであろう。
祖母は嘘が得意だ。悪い人では無いけれど自分の利益を優先させる。きっと今回も。もし返せなかったらどうなるのだろうか...。そんな、悲観的な事を考えていると玄関の扉が開いた。母だ。
母はいつものトーンでただいまと言った。しかし、顔は寂しそうでつい顔を背けてしまった。祖母は何事も無かったかの様に部屋へ向かった。その際、ちらりと盗み見た書類には1,500,000と書かれていた。
私の家は狭いけれどそれなりに暮らしていけていた。ひもじい訳でも無くごく平凡な家庭だった。それなのに何故こんなに金が必要になるのか、やはり理由が知りたかった。もやもやした気持ちと悲しさ、怒りが胸を突き刺す。
風呂から上がり書類を見つめる母に早めの誕生日プレゼントを渡した。中身は小さめな湯たんぽで仕事で肩こりや節々の痛みに苦しんでいた母の癒しになればと思い買った物である。母は喜んでくれた。しかし、曇っている表情は消えなかった。
ああ、そうだ。と母は水屋から買い置きしていたホットケーキミックスの袋を取り出す。ああ、母の中の選択肢が消えてしまった。
冬生まれ、冬が嫌い。そんな私。
冬生まれ、冬が好き。そんな君。
人肌が一番心地いい季節、一人が嫌い。
寂しいだけ、そんな二人。
ある夏の日、やたらクーラーが効き過ぎたスクーリング会場で無作為に作られたグループで同じ班だった。この通信大学の生徒の中では20代半ばの私は若い方なのだが、君は私よりもやや若い感じだった。年下の生徒と出会うのは入学して間もない私はこれが初めてだったと思う。自己紹介の時間で、正面に座った彼の名は「古川」で3回生だと分かった。
それで休憩時間がきて古川君に早速話しかけてみた。
「古川君って若いよね、何歳なの?」
「22です。早生まれなんで来年23ですけど」
「へぇ〜。因みに何月生まれ?」
同じ早生まれである私は、共通項を見つけたくて更に尋ねた。
「1月です。でも、後一ヶ月産まれるのが遅かったら良かったのになぁって思うんです」
「なんで?」
「一ヶ月遅かったら2月22日で222だったんです。僕 1月22日生まれなんで」
「え、1月22日生まれ? 私も誕生日一緒だよ」
思わぬ偶然に心臓が跳ねる。
「マジすかっ。初めてですよ、誕生日一緒の人に出会うなんて」
「私もびっくりしてる」
二人一緒になってはにかんだ。それから気がつけばお互いのことを止め処なく話していて。不思議と古川君に次々と興味が湧いたのと同時に、自然体で居る自分がいた。時々見せる彼の無邪気な笑顔に惹かれ始めていた。ただ授業が終わってからは、連絡先を交換しただけでそれっきりだった。メールをしても勉強のことを尋ねる程度のやりとりくらい。
そしてお正月が来て古川君に明けおめメールを送ってみた時に、やり取りがぽつぽつと続いた。合間にふと「古川君は、彼女いるの?」なんて聞いた。すると「なんでそんな質問するんですか 笑」とすぐ返事が来る。急に自分がした質問に恥ずかしくなって、脈がやたら早まり心臓がもやっとした。連続で通知は届く。
「暫く居ませんね、ヤりたくて仕方ないです 笑 お願いだからセックスさせてくれませんか? 僕、三木さんみないな細い女性が凄くタイプで…」
唖然となる文面に頭が嫌でも熱くなった。
三木「そんなにヤりたいの 笑」
市川「うん、凄く。お願いします」
三木「うーん…。最低だね」
市川「やっぱ最低か」
三木「でもね、正直古川君の事は気になるよ。最低だけどね」
男は オ オ カ ミ 、安売りは キ ケ ン
『玉砕トライアングル』ゆり
(私は叶わない恋をした。
始まった恋は、歯止めをかけることも出来ず、ただゆっくりと私の心を蝕んで行った。)
私の恋人はけいといった。
けいとは腐れ縁の様なものだった。
別にお互い好きでも無かった。自分達が生きやすい環境を作る為に私達は恋人になった。
けいは誰とも壁を隔てない人だった。そして
相手からも好かれた。
反対に私は相手からは見えない壁を隔てた。
器用な性格だった。
周りからは、2人が付き合うのは当たり前のように思われていたから、特に反感を買うこともなかった。
けいが私に求めるのは、体と彼女という地位だけ。私がけいに求めたのは誰からも貰えなかった愛情だったのだと思う。自分の事ながらもよく分かっていなかった。
転職をした。条件は悪くなかった。午前午後の九時から五時の昼夜二部制。一時間の昼休憩。完全週休二日制。残業は一切なし。手取りで月三十万、賞与年二回。資格(わたしは自動車の免許を持っていなかった)、技能必要なし。職場への時計、スマホ、電子機器一切の類いの持ち込み禁止、終業時間内は飲食(ただし、備え付けの飲料は飲んでも良い)、睡眠の禁止。それらに違反すると、その時間分の追加労働が加算されることなどが書かれてあった。
要は一日七時間、ルールに沿った仕事をせよ、ということのようだ。わたしは数ページに渡るそのような内容の規定書にサインをした。
建物は古いが、巨大な自社ビル。事前に送られてきたカードをかざすと開く扉、壁の案内に沿って進むと、これから働く職場が見えた。言われていた通り、手荷物を専用の収納へ納めて空間へ入ると自動で鍵が閉まった。
四方十メートル程の空間、壁、床、天井は白いパネルで一切の装飾はない。その空間の中央に一組の机と椅子、こちらも白で統一されている。空間に窓はなく、天井には監視カメラ。椅子に座ると右手側には設置飲料とトイレのある開口。
「就業時間中、椅子に座っていること」
最初に説明されたことが何となく分かった。
初日は良かった。目新しさもあり、部屋の隅々を見てまわり、飲み物を飲み、時間がきて鍵が開いた。
二日目、椅子に座ることが仕事。ただ、それは、何もやっていないということに等しかった。机のフチを端から端へなでる。逆にもなでる。それにしても音がなかった。そして、持っていたコインで机の端を傷つけた。何かを考えているが、何を考えているかが分かりづらい。コインでけずる音だけが空間に響く。やることがなくなった。他の社員も同じことをしているのであろうか。
三日目、誰もいない空間に座るとあくびが出た。気付けば午後二時過ぎ、ふと机の端を見ると、昨日つけた傷がなくなっていた。帰宅したあとなのか、今寝ていた間か、いつからなくなったのか、毎日机と椅子を入れ替えているのか。そんなことを延々と考えていたが、やがて、それもなくなった。
五時になっても鍵は開かなかった。寝ていた時間分の追加労働があったようだ。八時、鍵が開いた。
四日目、半眼。座禅を組むような気持ち。その境地が波動となりエネルギーを放出する。会社の利益とは。世界平和とは。戦争とは。北朝鮮とは。そんなことを考えた。
五日目。
車椅子を日常生活に取り入れたい。
机に向かい、キャスター付きの椅子に座って勉強している時、後ろの本棚まで本を取りに行く為にいちいち立ち上がるのが面倒臭くて、床を蹴り、勢いに任せて後ろまで移動する事が多い。そもそもあのキャスターは机に向かって体の出し入れがしやすい様、椅子に座ったままある程度動ける様にする物だ。
あのまま移動できる様に、キャスターにモーターを仕込んでもいいし、背負子の様に扇風機をつけても作業が捗ると思う。
電動車椅子の様に操作レバーを付けるのも面白い。
吸盤のついた棒を握って、奇形のヤドカリみたいに動いても面白い。
障害者でもないのに車椅子を使ったら、差別だという人が出てくるかもしれない。いや間違いなく出てくる。
こっちは便利だから、移動に楽だから使っているのに、奴らは上げ足さえ獲れればいいくらいの感覚でケチを付けてくる。
誰も障害者を馬鹿になんかしていないしそんなつもりもないのに、「健常者に馬鹿にされた、健常者は傲慢だ」
みたいな事を言うのだろう。
それでは、健常者は何を持って健常者なのだろうか。車椅子が無いと歩けないからか生きていけないからか、そもそも「健常」とはどこからどこまでが「健常」なのか。
「歩けないし知性も少し遅れてるけど誰がなんと言おうと私は健常者」とか言われたらどうするのか。
車椅子を使っている人の中には、本当は杖を使えば充分歩けるのに、周りから気遣いを受けられるしなにかと便利だから車椅子に乗っている人もいる。
それこそ差別ではないか。
障害者ばかりが優遇される理由は無い。健常者と同じ扱いをされたいなら頑張って歩けばいいのにそれをしようとしない。
周りからの援助が欲しくて車椅子を要求する行為は本当に車椅子が必要な人を差別している。
そして、健常者を差別しているのだ。
杖は冷遇されていると言っていい。
俺は健常者だけれど怠惰だから歩きたく無いのだ。だから今日もキャスター付きの椅子を転がして自室を縦横無尽に移動する。
暇すぎて下らないことを考えて、思い切りフローリングを蹴った。調子に乗りすぎてキャスターが折れた。そしてしたたかに背中を打ってしばらく立てなかった。
傷だらけのフローリングを見ながら、痛めた背中をさすって今日も生きてます。
ああ、母ちゃんになんて言おう。
しいなのことをしぃと初めて口にしたのは亜子だった。しいなはそう呼ばれて初めて髪に櫛を入れた。三回梳くとさらさらになるよと教えたのは亜子だった。二人で並んで歩くとき、他人の視線がしいなを通り過ぎて亜子に注がれていると気付いたのはそれからのことだった。
亜子はとび抜けて美しい少女だった。あるとき亜子はリボンのように髪を結わいた薄手のスカーフを見せびらかした。男の人に貰ったものだと告げられたしいなは、それを取り上げて三枚に引き千切った。亜子はそれをじっと見つめていた。
しいなは亜子の家に招かれるようになった。亜子の両親は留守がちで、三回のコールで途切れる着信が合言葉だった。
亜子の家では柱時計と前足のない三本足の猫がしいなを出迎えた。居間ではレコードがかかっていた。三拍で進行するその曲はワルツと呼ぶのだとしいなは教わった。二人は他愛もない会話を交わし、たまに化粧をし合って遊ぶこともあった。しぃに口紅を引いてもらうと気持ちいいと亜子は告げた。しいなは口紅を拭う亜子の指を口先で感じ、たしかに、と思った。
今日は遅くまで遊ぼう、あるとき亜子がそう誘った。よく晴れた三日月の夜のことだった。オリオン座の三つ星が順番に輝いていた。亜子の身体からうっすらと煙草の香りが漂っていた。二人はいつものように口に紅を引いた。亜子は煙草を一本取り出して口に咥えた。フィルターに残る紅の跡を見てなんだかいやらしいねと言った。しいなが見つめる亜子の目がしいなを見つめていた。
しいなは亜子に手を引かれ、押入れの奥の明かりの届かない暗がりへと連れていかれた。押入れの口は亜子に閉じられた。
亜子が煙草に火を点けると、闇の中に観音開きの仏壇と供物と花が浮かんだ。香炉には吸殻が二本突き刺さっていた。しいなは口元に煙草をあてがわれ、小さく煙を吸い込んだ。煙草が唇から離れる一瞬、亜子の指先が触れた。
雨降り蛞蝓しいな目くじら。ラメ好き椿象亜子から煙。喫煙って口で契るって書くんだよ。そうなんだ。今の私たちみたいだね。ちぎるってどういう意味?
六時を告げるはずの鐘は三回打ったところで途切れた。レコードは止まっていた。猫が赤子のように悩ましい三度目の鳴き声を上げた。亜子は煙草を香炉に押し込んだ。閃く火に朽ちた花が照らされた。しいなは胸元に顔を寄せる亜子を見た。亜子はシャツの釦を口に咥えてふたつみっつと引き千切っていく。
深夜の台所で、一人暮らしには大きすぎる冷蔵庫のまえに涼子はじっと立っていた。
上の扉をひらくと、大きな冷凍室のなかから冷気がでてくる。それは冬の朝、はやく家をでて歩いているときの息のようだった。冷凍庫にはアイスクリームが3個入っているだけなので、その大きな冷凍室ならば、小柄な涼子は猫のように丸まって、入ることができたかもしれない。本気で冷凍庫のなかで丸まっている自分を想像してみた。
どこか遠い国で、500年前の少女の冷凍ミイラが発掘されたというニュースを聞いた。冷凍庫のなかで、この火照った肉がひんやりとつめたくなって、体のあちこちが凍っていくさまは、なんだか気持ちがよいように思える。凍死するまえは眠くなって、夢をみているあいだに死んでいくというが、そうして自分が亡くなったあと500年たっても、今と同じ肌の状態でいられるのならば、このまま老いて死んでいくより、よほど死が自立しているようで、涼子は度々、500年の冷凍少女のことを考える。
自殺者が交通事故をこえるほどに増えているという話を美大の講義できいたが、教授は「若いことはすばらしい!」とひたすら熱弁していた。まるで自分の「若さ」が刺身とおなじように、鮮度だけがとりえと強調されているように思えて冷めてしまった。
若さと引き換えに、何かを獲得できればいいが何もなすことができないとするならば、ただの老いぼれということになる。それならば、若いうちに死を選ぶことのほうがどれほど生きることに対して潔いだろう――。
涼子は美大の試験のことで悩んでいた。試験で描くことになっている自画像について、どう描こうか迷っているのだ。
昔から絵を描くことが涼子の生活では当たり前になっていたが、それはどちらかというと描きたい絵というより、上手なデッサンだった。将来は、絵を描いて給料を貰うようになると漠然と考えていたから美大に入学したのだ。
けれども、美大のなかで自分と同じように子供のころから「上手な絵」を描くエリートたちのなかで「自分だけの絵」を描こうとすると、これが難しい。学生コンクールで入賞するのと、自分の絵を描くことは評価の次元がちがうことをはじめて知った。
私の顔を上手に描いてもそれは私なんだろうかーー。
涼子はアイスクリームを食べることにした。すべって、とけかかったアイスクリームがふとももにこぼれおちた。タオルでふいても、ベットリと残った。
そこは森であり、木が生えている。わたしは持ってきた道具を地の上に置き、仕事を始める。
桶に入れた水で布を絞り、樹皮を拭う。なるべく軽く撫でるように。表面の毛羽立ちを軽く払いながら。
樹皮を剥ぐには、丁寧に刃を研いだナイフが必要だ。厳密に樹皮の流れを読みとり、逆らわないように刃を入れる。そうして、引く。少しの躊躇もあってはならない。
ヒトの悲鳴のような音が聞こえるが、それに耳をとめてはいけない。
剥いだ樹皮は、そのままの形で食べることもできる。かなり硬いので、歯が欠けないように注意をしなければならないが、その香ばしさは格別だ。
その場で樹皮を食べた者は、多大な知恵を一挙に手に入れることができる。樹皮には毒があるので、食べ終えたあとは高熱と吐き気に一か月は苦しむことになり、大半の者は死んでしまうが、生き延びることができれば、知恵者と称されることになる。
それ以外のほとんどの樹皮は、村人の家へと持ち帰り、大釜にいっぱいの湯で煮つめる。何度も湯を替えて毒を煮出し、柔らかくなった樹皮を小さく刻み、佃煮にして食べる。毒と一緒に知恵も抽出されてしまうので、残された知恵はほんのわずかだ。けれども、それを食べることによって、ヒトはひとかどの知恵をつけ、年を重ねていくことができる。
樹皮のもつ毒は軽いものではないので、どんなに用心していても死に至ることがある。亡骸は容易に葬ってはいけない。遺骸自体が毒をもっているので。村人たちは清潔な布で遺骸をくるみ、森へと運び、埋める。そうして、ヒトとして生き長らえることのできなかったものは木となる。体内に知恵を宿して成長し、遅れて生まれてくる者たちへ、その知恵を引き渡すイキモノとなる。
わたしはこの森の世話をする者。森いっぱいに広がる木の成長をひとつひとつ見届け、時が来るたびにその樹皮を剥ぐ者。
村から離れたところに住まわされ、けれども、実質、村を統べる者。
知恵者と、ヒトからは呼ばれている。次の知恵者が生まれるまで、森を見守り続ける。
終電に揺られ最寄り駅で下車する。徒歩二十分の条件で選んだアパートまで、実質三十分かかる。玄関のドアに到達する頃には午前一時を回ってしまう。真新しい家の建ち並ぶ住宅街の一角、すべてが耳をひそめるなかで鍵をさしこんで回す。かちゃん、と音がしたたり落ち、夜に波紋が広がる。
静かにドアを閉め、鍵をかけて靴を脱ぐ。寝室の戸をそっと開けると、隙間から布団が三枚敷かれているのが見える。真ん中のかけ布団が大きくずれていた。私は部屋に忍びこみ、冷たい布団を掴むと本来の位置まで戻す。
リビングに向かう。テーブルの上には煮魚の載った皿と、スープカップと、空の茶碗が置かれている。カップをレンジで温め、お釜に残されたご飯をよそい、それも温める。テレビはうるさいのでつけない。薄暗い明かりの下、椅子たちが黙って私を見つめている。咀嚼する音が散らばって、フローリングに沈みこむ。
食器を片づけ、風呂場でシャワーを浴びる。湯船にはしばらく浸かっていない。水を溜めるのも落とすのも音が大きくて、起こしてしまうといけないから。
寝間着に着替えて歯を磨く。廊下の明かりを消して寝室へ。
布団のうえにちいさくて透明な足が転がっている。それは夜のあいだ自由奔放に転げ回る。時折、私は足の位置と温度を確かめ、布団をかけたりかけなかったりする。
穏やかな気持ちで海に潜った。波間で私を呼ぶ声を聞く。ころころ転がるような笑い声を。波はゆっくりと引いて、足元に草が生い茂り、私はちいさな手と手を繋いで歩いていた。日は傾き、長く伸びた影が仲よく三人並んでいる。私は隣を見た。左手の先に透明な手があり、透明なからだがあり、透明な顔が私にふふふと笑いかける。
ふいに強い風が吹き、砂ぼこりに手で顔を覆う。風が止むと、そこには枯れた川の跡がうねうねと曲がりながら続くばかりだ。私の四肢はみるみる痩せ衰えていく。乾いた指の先からひびが割れ、皺が刻まれる。地の底で誰かが呻いている。
窓から射す光に目を覚ます。天井を眺めたまま、ばたばたと慌ただしい足音を聞いた。まんま。たどたどしく言う声。そうね、まんま、食べようね。
起き上がり、顔を洗ってパンを焼く。やかんの口から湯気が吹き出す。コーヒーの香りとトーストをかじる音が広がり、薄まって、かき消える。
冷えたシャツに袖を通す。髭を剃り、ネクタイを締める。誰もいない部屋に向かって手を振る。行ってきます。
神様は神様と書かれたTシャツを、そしてスパイはスパイと書かれたTシャツを着ていた。その日は二人とも本当のことを堂々と言いたい気分だったので、Tシャツでその気持ちを表現したというわけだ。
「でも、スパイは自分がスパイだとばれないようにするのが仕事なのだから、その行為は職務放棄ではないですか」と神様は言った。
「しかし、神様だって人間が見つけなきゃ存在しないわけだから、それを自分から名乗るのは矛盾してますよね」とスパイは返した。
神様は、人間から見つけられる前から自分は存在していたはずだと思っていたが、話が長くなりそうなので反論はしなかった。
「先ほどの職務放棄という言葉は失言でした。あなたはスパイである前に一人の人間なのですから、その良心や自由の前では職務放棄なんて些細な問題でしかありません」
神様が頭を下げると、スパイも慌てて頭を下げた。
「いえいえ、私のほうこそ神様の存在が人間次第だなんて失礼なことを言ってしまいました。そんなのは人間中心の考えであって、人間はどこまでも人間的な考え方しかできないのですから」
二人は仲直りをしたところで、今日これからどうするかを話し合った。どうせなら普段やらないことをしたいと神様が言うと、スパイは、お互いのTシャツを交換してみたら面白いのではないかと提案した。
そこで、さっそく二人はTシャツを脱いで交換し、相手の名称が書かれたTシャツに袖を通してみた。
「私、スパイに見えますか?」
「うーん、スパイというより、ふざけた人ですね」
そんなやり取りをしていると、二人のところへ“警官”と書かれたTシャツを着た人物が近づいてきた。
「お前をスパイ容疑で逮捕する」と警官Tシャツの人物は言って、スパイTシャツの神様をそのまま連行してしまった。
それから数ヵ月後のある日、神様Tシャツを着たスパイの元に“犬”と書かれたTシャツを着た人物が訪ねてきた。
「今はこんなTシャツを着ていますが、私は神様ですよ」と犬Tシャツの人物は言った。何度もTシャツを交換しているうちにこうなった。だから神様Tシャツを返して欲しいと。
それを聞いた神様Tシャツのスパイは困った顔をしながらこう言った。
「でも、証拠がない以上どうにもなりません。私の元には、あなたみたいに神を名乗る人が度々やってくるのですよ」
すると犬Tシャツは、急に大声で笑ったあと絞り出すように言った。
「私の負けです」と。