# | 題名 | 作者 | 文字数 |
---|---|---|---|
1 | あふれだす恋愛衝動 | 深元千夏 | 1000 |
2 | にわか仕込みのかめはめ波 | 世論以明日文句 | 1000 |
3 | 落ちようと思って | トマト | 637 |
4 | 爆発! | 名無しの幼女 | 633 |
5 | 赤瓦の屋根は海の向こう | 青沢いり | 995 |
6 | 獅子の山 | ハギワラシンジ | 990 |
7 | 故宮の恋 | shichuan | 998 |
8 | 八咫烏 | テックスロー | 998 |
9 | 最期まで。 | さばかん。 | 980 |
10 | 死語の辞典 | たなかなつみ | 952 |
11 | 未来ちゃんと僕 | 岩西 健治 | 992 |
12 | 愛おしい人 | わがまま娘 | 979 |
13 | 蛟 | 塩むすび | 1000 |
14 | その日も、女は倒れるくらい働いた | 宇加谷 研一郎 | 1000 |
15 | 十か条 | qbc | 1000 |
16 | 自意識過剰と妥協 | euReka | 1000 |
恥ずかしい話ではあるが、僕はクラスの子が好きになった。名前はちせ、という。横顔がとても素敵で、あと胸の大きい子だ。正直、交際したいと考えている。
このことを友人に話すと、百パーセントの確率で聞かれることがある。「お前。顔と胸だけで人を好きになるのか?」と。ちせはクラスであまり目立つタイプではない。だから自然と、あまり彼女との接点のない奴らは表面的な部分で彼女を認識する。僕はそう言われればもちろん反論する。そんなわけはない。僕はあの子の笑顔も好きだし、少し大雑把な性格も魅力的だ、と。
しかし考えてみると、やはり僕は顔がかわいく胸の大きいちせが好きだということに気づいた。気づいてしまった。でも、認めたくはなかった。なぜなら、認めてしまうと、僕が外見だけで判断する(あと体目的の下劣野郎)になってしまうからだ。
考えてみると、もしちせの内面がそのまんまで、見た目が不細工になって貧乳になったとしたら、多分僕はちせに恋愛感情を抱くことはないと思う。それが悲しいのだ! 本当に好きなのであれば、「君がおばあちゃんになっても、君を愛し続ける」とか言えるんだろうけど、ちせには一生今の中学生のままでいてほしいし、おばあちゃんに姿なんて想像したくない。一体僕は、どうやってちせを愛せばいいんだろうと途方に暮れた。
そんな僕は近所に住んでいる祖父の家に行った。祖父は僕の祖母と結婚してもう五十年以上経つが、毎日仲良く散歩している。僕はおじいちゃんに、異性と長く付き合っていくコツを聞いた。すると祖父は「変に取り繕わなくていいんだ。いずれそういうのはバレるからな。案外、最初から本能むき出しの方が良いんだぞ。例えば、ばあちゃんはな、今はもう皺くちゃだけどな、若いころは凄く美人でな、夜の方も……」それ以上は聞きたくなかったけど聞いた。身内でそういう話はなかなかきつかった。そして祖父は最後に言った。「そういう、本当に何が好きかなんてのはいずれ分かる。わしはまだ分かっとらんが、もうじき分かるじゃろ」僕はその言葉に胸を打たれた。そして祖父は「思いをぶつけろ」と言い、その日も祖母と散歩に行った。
分かった。僕の思いをストレートにぶつければ、きっとちせは応えてくれる。僕はちせを放課後、体育館裏に呼び出していった。
「君の横顔と……いや、どっちかというと、胸が好きだ! 僕と付き合ってください!」
もちろん振られた。俺は下衆野郎。
職場で好きになったベトナム人女性が水彩画が趣味だと言って、スマホで絵を見せてもらった。絵は上手で芸術的、でも漫画の絵、夏着の二人の男の子が日本刀の刃をぶつけ合っている。物語もあるのかと訊いたら「ある」と彼女は答えた。ネットで作品を公開しているらしい。小説、漫画、ドラマ、映画、違いはあっても作品が面白いかどうかは物語、展開にあるはずだ。「留学生の時、この絵は朝のニュースで放送されたよ」と言うので「日本の?」と訊いたら「日本の」と答えた。
「じゃあ、ここで働くよりも絵のほうがいいんじゃない?」と言うと「もう少しで本になるから、そうだね」と言われて僕は席を離れた。うちに帰って飼い犬の黒柴を相手に「どどん波」と言って人差し指を鼻に押し当てると、段々と嫌がって口を開いて指を噛もうとする。好意が嫉妬に変わったのがみっともなくて、嫉妬するぐらいなら学生の頃に書いていた小説でも書いてみればいいじゃないかと考えるが、犬を相手にしながらでは物語の土台と展開など思い浮かばない。
逆に頭に浮かんだのがドラゴンボールの一コマで、天下一武道会のクリリン対チャオズ戦の時に亀仙人が言った「無理じゃ、にわか仕込みのかめはめ波ではどどん波にはかなわない」と言うセリフだった。小学生の時に「にわかじこみって何?」と母親に訊いて「簡単に身につけたことよ」と教えてもらったが、当時の僕は、かめはめ波はどどん波に比べて簡単に習得できる技で、大変な修行が必要などどん波にはかなわないのだと理解した。そのまま三十男の今になって、あの亀仙人のセリフは、クリリンのかめはめ波がにわか仕込みだと言っていることに気づき、かめはめ波自体がどどん波に劣るとは言っていないことに気が付いた。しかし、どうして当時の僕は間違えて理解したのだろう。
この答えは「下手くそな」と「下手くその」の違いと比べると見えてくる。「下手くそなかめはめ波」はかめはめ波を修飾しているのに対して「下手くそのかめはめ波」は術者のことを「下手くそ」と表している。「にわか仕込み」という名詞は術者のことを表すことがなく、連体助詞「の」を伴って後述の名詞を修飾する。「にわか仕込みな」という形容動詞としての用法はないようで、Googleで検索してもネット小説しか引っかからない。
自分の勘違いが解消されて、彼女への嫉妬も好意に返った。にわか仕込みの小説。にわか仕込みな作品。
ベットに横たわった肢体が、激しく震えた。
「どうだった?」
「まずまずってとこかな」
私はベッドから降りてズボンを履いた。
皺のついたシャツを無駄だと知りながら裾をつかんで、少し伸ばしてみた。
「だめだ、アイロンなかったっけ?」
「いや、ないね」
「そっか」
未だベットに横たわっている彼女を横目で見遣る。
乱れた髪を直そうともせず、ただぼんやりとした目つきで、天井を見上げていた。
「どうしたの?」
「余韻を味わってるの」
「ごめんね、まずまずで」
その言葉で彼女はふっと上半身を持ち上げて、私の眼を見ていった。
「君のせいじゃないよ」
「じゃあ君のせい?」
「私のせいでもない」
彼女はまたベットに倒れこんだ。
「ふーん」
私は気のない返事をした。
時計は22時10分を指していた。
タンスを開けて手ごろなジャケットをつかみだした。
「これ、着てってもいい?」
「いいよ」
彼女は一瞥もせずに言った。
私はその紺色のジャケットを羽織って、大きく伸びをした。
外はまだ雨が降っていた。
後ろ手でドアを閉めて、マンションの廊下を足早に歩いた。
ビニール傘の重みが不快でたまらなかった。
ふと立ちどまりたくなって、階段の前あたりで足を止めた。
柵の向こうに顔をのぞかせて下を見てみた。
黒々としたアスファルトが雨に打たれ、街灯の明かりを映していた。
遠くでは煌々と灯った赤いランプの群れが工場の煙を彩っている。
私は身を乗り出して、柵にしな垂れかかるようにして落ちた。
吐き気のするような、あの煙の臭いを嗅いだ気がした。
ただ、衝撃だけを感じた。
ボカーン!
背後で音が聞こえた。その音は鼓膜が破れるんじゃないかと思うほど、巨大な音だ。
そして同時に、この世の物とは思えない悪臭が鼻につく。
沢山のライトノベルを読み、様々なシチュエーションを知っている僕は、直感する――。
爆発!
背後で爆弾が爆発した!
巨大な音は爆発音。悪臭は火薬の臭い!
だとしたら、これは緊急事態だ。
速やかに、そして適切な行動しなければ死ぬ!
だが、普通の人間のほとんどは命に関わる時、適切な行動をするのは難しい。
しかし、僕は違う。
ライトノベルを読み漁り、そのシチュエーションが起きた時の対処法を脳内シュミレートしてきた僕は、この状況を冷静に対処できる!
くくく……魅せてやるぜ。
周りから厨二、無意味と馬鹿にされ続けていた僕の努力が活躍する瞬間を!
作戦はもう出来ている!
後は実行するだけだ!
爆発からこの間0.02秒。世界でもトップクラス(多分)の思考速度で、完璧な作戦を弾き出した僕は背後を振り返る!
最初に目に映ったのは、父の姿。
見た感じ、負傷は無さそうだが、どこか申し訳なさそうな様子だった。
「父さん! 逃げて!」
「ごめん……」
「どうして謝るんだ!?」
「オナラしちゃった……」
「突然の事態だから仕方ないさ! 大の大人でもこの状況でしちゃう!」
「違う……違うんだ……」
「今そんなことどうでもいいだろ! 今は爆発から避難する事の方が――」
いや、待てよ……?
あと音は……あの悪臭は……!
「父さんの屁の音と、その臭いだ」
スーパーで夕食の買い物中、久々にスパムを食べようかと手を伸ばしたとき、隣の部屋の山崎さんがヌッと現れた。
「沖縄の人って、本当にスパム食べるんだ」
濃いメイクに形どられた顔が、なぜか嬉しそうに笑う。彼女は新潟出身だっけ。スパムを食べることに本当も嘘もないのだが、まあね、と曖昧に答えた。
「シマちゃん、もうすぐ買い物終わる?」
そう訊く彼女のカゴには、長ネギやら味噌やら豚肉やら、大学生にしては健康的な食材が詰め込まれていた。
「うん、これくらいかな」
答えてから自分のカゴを見ると、牛乳と冷凍チャーハンとスパムだけがレジに通されるのを待っている。東京でもちゃんと自炊するのよ、と口うるさく言っていた母親の顔を思い出して、少し罪悪感を覚えた。
会計を終えてから、山崎さんのパンパンになったレジ袋を1つ持ってあげた。
外はだいぶ暗くなっていて、12月の冷たい風が顔や手を一瞬で凍らせた。山崎さんが悲鳴をあげる。
「さーめ!東京も冬は寒いね!シマちゃんなんか、沖縄と全然違うんじゃない?」
「うん、やっぱ寒さにはまだ慣れないな」
寒さと重いレジ袋で右手が痛むのに耐え、どうにか笑って返す。
お互いの大学のこととか他愛のない話をしながら、西永福の商店街を抜けて、築三十年の小さなアパートに辿り着いた。
作りすぎたらお裾分けしに行くね、と言って山崎さんは隣の部屋に消えていった。
自分も部屋に入ると、外と変わらない空気の冷たさに震えた。電気を点ければいつもの殺風景なワンルームが現れる。実家には一秒も存在しなかった静寂。妙に虚しい気持ちになった。
たとえスパムを焼いて食べたって、あの赤瓦の家に戻れるわけじゃない。そして私は、あの亜熱帯の島に帰りたいわけでもない。
昔から「わりと出来る子」扱いで、友達も多くはないけどいた。それに甘んじてダラダラと青春を費やし、周りの勧めとどこか遠くへ行きたい気持ちで東京の大学に進んだ。山崎さんは、新潟の家族や友達のことをあのキラキラした笑顔で語ってくれるけど、私にはそれが出来ない。ここに馴染むのも、故郷に帰るのも、それはたぶん私じゃない。
小さく切ったスパムを焼きながら、シーサーの置物でも買ってみようか、と考えた。でもあれは、赤瓦の屋根に似合っても、この薄暗いワンルームには似合いそうにない。
少し焦がしてしまったスパムを解凍したチャーハンに混ぜる。故郷の真夏の日差しが遥か遠くに感じられた。
我々はとうとう獅子の山にたどり着いた。獣でさえ躊躇する山を踏破した。そこにあるのは獅子の山。我々の子供をさらった獅子たちが棲んでいる。仲間は銃をかついで息巻いていた。皆獅子に子供を連れていかれた怒りに身を焦がしている。それぞれが、邪悪な獅子など怖くない、それより俺の子供を返してくれ、という嘆きを弾丸に込めていた。
我々が山頂に突入すると獅子たちがいた。そして子供たちもいた。子供たちは獅子と戯れていた。子供たちは獅子の四肢にまとわりついて毛づくろいをしていた。獅子は目を細めて心地よさそうに低い声で唸る。中には腹を見せてごろごろするものもおり、子供たちと楽しく遊んでいた。
仲間たちが銃を轟かせる。谷を裂く轟音に獅子は体を震わせ一目散に逃げ出した。その様子を子供たちはじっとみていた。
ある仲間が雄叫びをあげて駆け出した。彼は一頭の獅子をしとめたようだった。獅子のこめかみには穴が開きそこからどくどくと血が流れ出ていた。
我々は銃を投げ出し子供たちの元へ駆け寄る「父さん」と呼んでくれる私の息子は少し痩せていたが、元気なようだった。
「父さん」
「なんだい」
「また母さんを悲しませるの」
ささやきが最小の形で私を穿つ。
こどもを連れた帰り道、足取りは重い。泥のような倦怠感と肩に深く食い込む銃の重さ。
こどもたちは自由だった。ふわふわと崖をくだり、まるで鹿のようだった。
私は知っている。この帰路が何に続いているか。それは明日だ。そこには家族がいる。しかし妻はいない。妻は私の粗暴さに嫌気が差し、出て行った。私だけではない。今日いる仲間のほとんどが離縁している。私は妻とこどもを思い出す。子供が彼女の肩を叩き、妻は目を細めて心地よさそうにする。その情景が私の喉に喰らいつく。
私は仕留められた獅子をふと見やる。獅子にたてがみはなかった。横を見る。仲間が私を見る。周りを見渡す。我々は泣いて笑った。いつのまにか子供たちが我々を取り囲んでいる。彼らの瞳は黒く塗りつぶされていた。
「さあ」
と子供たちが私に言う。
我々は銃を口に頬張り引き金を引いた。我々は首なしとなり切り立った崖を下って行った。私はごろごろと転がり、やがてぼろぼろになって止まった。私がそこで朽ちていると、何者かの手が私をやさしく包み込んだ。それは懐かしいハンカチのような匂いがした。匂いは、あなた、と私の頬を舐める。
「故宮の恋」
修学旅行は冬の北京だった。
二日目は、毛沢東の肖像が飾られた天安門広場から、故宮博物院を抜け、景山公園を登るコースで、同級生たちは、執拗な物売りや故宮の広さにうんざりし、寄り道することなく、まっすぐ北に歩いた。ぼくは、もともと中国の歴史が好きで、今回の修学旅行は誰よりも楽しみにしていた。テンションが上がっていたのだろう、気がついたらはぐれてしまっていた。紫禁城の地理は当然頭に入っており、最悪、時間までにホテルに戻れば大丈夫だろうと、目の前のお宝に心を奪われるまま、足の赴くまま、回ることにした。
ふと視線を感じた。
北京の空の突き刺すような冷気と観光客の人いきれの混じった空気のなか、ちらりと学校の制服の後ろ姿をとらえた。それは普段見慣れているはずなのに、皇帝の宮殿のなかで、奇妙に浮き上がってみえた。T美だった。教室では目立たない黒髪の彼女は、いつも静かに本を読んでいた。ぼくは知っている。T美もまた、『三国志』や『水滸伝』などを読み、この修学旅行を楽しみにしていたことを。彼女の後ろ姿には、学校では見られない、輝きがあった。気がついたら、彼女の姿を眼で追っていた。そして、T美もまた、この広大な故宮の中で、ぼくの存在を意識していることが感じられた。それぞれ、好きなように見学しているのに、徐々に距離が縮まっていた。故宮博物院の北門の出口では、人波に押され、気が付くと身体が触れ合っていた。ぼくとT美は、無言のまま、景山公園の階段を登った。
故宮は、長閑に夕日に照らされ、激動の歴史をまるで感じさせない姿で、鎮座している。寒さのためか、二人の手は、自然に繋がれていた。
「こんなもの渡されたの。わたし、怖いわ」
含みをもった困惑顔をして智美は、同人文芸誌を渡してきた。その表情に微かな媚びがあることに、はじめての彼女に浮かれたぼくは、気がつかなかった。大学から駅へと続く下り坂をゆるゆると歩いていると、間の悪いことに、作者である彼が自転車を押しながら登ってきた。彼は、まず彼女を見つめ、そして隣にいるぼくに、ぼくが丸めて持っている冊子に気がついた。すべてを悟ってうなだれた。智美は幅広の歩道で、半歩ぼくの傍に寄り、そっと袖をつまんだ。胃液が逆流するような優越感と罪悪感を抑え、平静を装った。
三人は、無言ですれ違った。
冬というには暖かい、汗ばむほどの日差しの、午後のことだった。
「一人の侍として、次の試合でも必ず勝利に結びつく得点を挙げたいと思っています」
サッカー日本代表の藤川悟丸はインタビューをそう締めくくりロッカーに下がると、今自分が言った内容について考えた。広告代理店やスポンサーが好む言葉なので使ってはみたが、いったい自分は侍について何も知らないな。高校時代も練習に明け暮れて時代劇なんて見る機会はなかったな。日本代表になりたいと思って人一倍練習したけれど、その結果侍になれたんだ、という感慨は特になく。
「侍……俺は、侍……」
「どうしたんだマル。深刻そうな顔して」
「いや、実は」
悟丸は自分の疑問と違和感を同僚に伝えた。現代に生きる我々が人殺しを生業とする職業をチームの愛称に冠するのはいかがなものか。同僚は、そういった呼称は往々にして内実を伴わないが、それでもチームの団結をはかるには勢いのある言葉であればいい。という当たり障りのない回答をし、悟丸もそれ以上深く考えるのは止めた。
「今度の合コン、モデルだってよ」
上半身裸になり、見事な肉体の二人は制汗スプレーを交互に使いながら女の話をしていた。ティッシュのように床に脱ぎ捨てられた青いユニフォーム。
「ねえ、あんた、侍なんでしょ、だったらござるって言いなさいよ」
合コンで知り合ったモデルはSであり、Mな悟丸はベッドの上で彼女の言葉責めに悦んでいたが、その台詞はあまりに突拍子のないものだった。
「はあ? 何言ってんの、全然面白くないんだけど」
「いくでござる、いくでござる、って言いなさいよ」
冗談のように急速に硬さを失う悟丸の刀に反して、中央アジア某国と日本人のハーフの女の目は真剣そのもので、茶色が強い黒目の瞳孔がどんどん開いていく。
数日後、日本代表は試合に負け、W杯予選敗退となった。悔しかった。勝ったチームが握手を求めてきて、悟丸はそれに応えた。こういう時に浮かべる笑顔はあいまいだった。あの女はどこかで自分のことを見ているのだろうか。そう思うと初めて悟丸に恥の感情が芽生えた。身を隠そうと辺りを見回すと、観覧席で一心にゴミを拾い続けるサポーターが目に入った。何の見せ場もない試合だったが、少なくとも彼らだけはこの試合を楽しんでくれたような気がした。そしてこれからも自分たちを応援してくれるような気がした。
「かたじけない」
悟丸はつぶやくと、ピッチに唾を吐き捨てそこをあとにした。
窓から眺める雪は、随分と温かかつた。じんわりとしていて、綿のような。思わず見とれていた。
「ねぇ、ちょっと。話聞いてる?」
袖を引かれて、窓から視線をそちらに向けると、そこには頬を膨らませた友人がいた。
「はいはい、聞いてるよ」
私は苦笑する。彼女が「また話を聞いてない」という顔をしていたからだ。小学生の頃からの付き合いの彼女に『よく』と言われるのだからどうやら私は本当によく呆けているようだ。
「何見てたの?外?……、あぁ、もう雪の季節だもんね」
「今年初めてじゃない?」
「そうなの?『じゃない?』って訊かれても、私に聞くのは間違いだと思うんだけど」
彼女は、肩をすくめて腕をひらひらとさせた。その腕には幾本もの細長いチューブが繋がれている。
「ごめん。そんな気はなかったんだよ」
私は笑った。そして、不機嫌そうにする彼女の細い指先に指を絡める。
あまりにひらひら動かすもので、点滴が音を立て始めたからだ。
彼女は去年、病に倒れた。
原因は分からなかった。いわゆる、不治の病というものだ。延命治療を施されるだけで、これといった対処法がないらしい。
「ねぇ、そういえば今年のクリスマスは予定ある?」
唐突に訊かれて、きょとんとしたまま「ないよ」と答えると、彼女はにこりと微笑んで「そう」と頷いた。
「何かあるの?」
「んーん。別に〜」
それだけで、話は終わった。
後を、訊けばよかったのに。
「クリスマス、一緒に過ごさない?」と訊けばよかったのに。
私は何も訊かなかった。まだ、彼女に『先』があると思っていた自分自身を愚かだと罵ってやりたい。
クリスマス当日。彼女は亡くなった。
後々病室の整理時に出てきた彼女の荷物の中に、メッセージカードがあった。
私はそれを読んで、泣いた。泣き喚いた。
彼女が自分が永くないことを知っていたこと。それを私に伝えなかったこと。本当はクリスマスを一緒に過ごしたいといいたかったこと。でも、それを約束してしまっても、果たせないことも知っていたこと。
なんで言ってくれなかったのか。分かっていた。私が悲しむ顔は見たくなかったのだろう。最期の時まで「また明日」を聞きたかったのだろう。
ずるい、彼女はずるい。一方的にお別れを言って去るなんて。
メッセージカードの端を見て、また、涙がこぼれる。
『ごめんね、そんな気はなかったの』
雪が降っていた。あの時とは逆で、冷たくしっとりとした雪が。
文字を獲得するところから、かれは始めた。最初に覚えたのは、それ単体では意味をなさない文字だった。ひと文字ひと文字、かれは丁寧に習得していった。意味は必要なかった。何らかの形状をもった文字というもの、かれにとってはただそれだけでよかった。
やがてかれは気づいた。かれが習得した文字は他の文字と組み合わせることによって、何らかの意味をもった言葉となることを。かれは貪欲にその組み合わせの発見に没入した。最初はふたつの文字でよかった。それだけでも十分に意味を発する言葉は獲得できた。けれどもやがて、それ以上の文字の組み合わせにより、さらに難解な意味をもつ言葉になることに気づいた。かれは文字の組み合わせに没頭した。とりつかれていたと言っていい。数え切れない文字の山に埋没し、そのなかから意味を習得して自分のものとしていった。今やかれ自身が文字と言ってよかった。あるいは、かれは言葉であった。かれは自身を言葉の体系として組み立て直し、確固たるものとなった。かれは栄華の頂点にあった。
やがて、かれは老いと直面した。自身の表面から内部から、堅固に組み上げてきた言葉が文字が、枯れ葉のように剥がれていく。かれはうろたえた。自身から剥がれ落ちた言葉を文字を自身に再度定着させるために、かれはそれを糊付けした。かれの文字は言葉はそれとともに躍動感をなくし、そしてやはりひとつひとつ剥がれ落ちていった。
いま、かれは最後の文字とともに在る。かれはその文字がそれ単体では意味をなさないことを、けれども、やはり意味をなすものであることを知っている。その文字はかれ自身を意味することはなく、やがて、その文字すらもかれから剥がれ落ちていくことになるだろう。かれはすでに叙述するだけの言葉をもたず、原初に戻りつつあった。けれども、一度文字の洗礼を受けていたかれにとっては、それは同じ様相ではなかった。かれはもう獲得の味を覚え、そしてそれをすべて失ってしまったのだ。
ここにひとりの若者がいる。若者は老いたかれの前に座し、かれの失ったものを学ぼうとしている。かれは若者に言うべき言葉をもたない。すべてはすでに終わってしまった。
若者はかれの前に座したまま、かれから剥がれ落ちた最後の文字を拾い上げ、丁寧にそれを函に入れ、去っていく。
『現地メディアによると犯人は小説のようなものを使って建物に侵入したもようです。警察は、小説のようなものによる注意を呼びかけています』
『続いてニュースです。昨晩、●●市で発生した通り魔事件の詳細が分かりました。犯人は背後からA子さんを襲い、持っていた小説のようなものでA子さんを切り付けました。犯人は小説のようなもので、身長170センチの痩せ形、紺色のパーカーに黒っぽい目出し帽をかぶっており、●●方面へ逃走したもようです。尚、A子さんの命に別状はないとのことです』
CM《洗練されたフォルム、小説のようなものが織りなすメロディ、あなたに、生まれ変わった、小説のようなものを。お求めはお近くの小説のようなもので》
◆未来ちゃん
「聞きたいことはそんなことじゃないでしょ。過去の世界で万馬券を買って億万長者になるってことが可能かってことでしょ」
◆僕
「見てよ。未来を知らないから、みんなハズレ券ばっか買ってんじゃん。僕が総取りだってことだよ」
◆未来ちゃん
「ひとつ質問ね、未来は変えられないものだと思うの?」
◆僕
「決められているなんて思いたくないに一票。未来は変えられるもの。変わらなくちゃ、希望も持てないじゃんか」
◆未来ちゃん
「だったら、億万長者になる未来も変えられるってこと?」
◆僕
「いや、だって、これは過去のことだから関係ないでしょ」
CM《休みたくても休めない、そんなときにはこの一本。こじらす前に飲む。頭痛、発熱に小説のようなもの。用法、容量を守って服用ください》
◆未来ちゃん
「でも、あなたは、過去に戻って未来の馬券を買ったのよ。それって未来の馬券を買ってるってことなんじゃないの?」
◆僕
「ここは小説だから好きなように結末を作ることが可能なはずだよ。だったら、億万長者になる結末でいいんじゃない? 僕は主人公なんだし」
◆未来ちゃん
「ダメ、結末は読者が決めることよ。主人公だからって、あなたが好き勝手ストーリーに手を加えることはできないわ」
『それではお天気です。橋本さーん。はい、橋本です。明日は今シーズン最大の小説のようなものが関東にも訪れる見込みで、平野部でも小説のようなものが降ることが予想されます。これは、昨年よりも二週間早い予想で、明日に小説のようなものが降れば、関東では四十年ぶりの記録更新となります。明日は小説のようなものですので、小説のような服装でお出かけください。それでは』
郵便受けに何冊も突っ込まれた新聞と溢れ出ているDM。それだけで、そこには暫く誰もいないことを物語っていたはずだ。そして、この時間帯に玄関の鍵を開けた向こうが暗いなんてことは、連絡もなしに今までなかった。それでも、この事態は想定していなかった。
1週間の出張から帰って来た夜、ダイニングテーブルの上にあった紙切れを見て、俺は愕然とした。
さようなら
私の物は全て処分してください
紙切れにはそれだけしか書いてなかった。慌てて俺は彼女に電話する。しかし、「おかけになった電話番号は現在使われておりません」とお姉さんが無機質に答えるだけだった。一体いつから電話が繋がらなくなっていたのだろう? 最後に電話をしたのはいつだ? 毎日電話をしていなかったことが悔やまれる。
同棲中の彼女にまさか出張中に出て行かれるとは思ってなかった。
とりあえず、俺は彼女のいないまま生活を続けた。理由もわからず急に出て行かれて、物は全て処分していいと言われたからと言って、はいそうですか、とはいかない。もしかしたら、戻ってくるかもしれないではないか。
そう思って生活を続けてどれくらいが過ぎただろうか?
一緒にいた時間、一緒にいた空間というのは酷なもので、彼女がいなくなってもう大分経つにもかかわらず、ふとした弾みで彼女を思い出す。別れ方が衝撃的だったせいか、俺は彼女の思い出から抜け出せずにいた。
結局彼女はもうここには戻ってこないのだと頭では理解していているのに、気持ちがそれを受け入れられない。それだけ彼女のことが大切だったのだ。
ある日、俺は彼女を見かけた。大通りを挟んだ向こう側に彼女がいたのだ。友達とショッピングを楽しんでいるようで、キラキラしていた。俺と居た時はどうだったろう? と考えてしまう。
あんなふうに笑っていただろうか?
とにかく彼女は今、幸せなのだろう。俺がいつまでも彼女にしがみついていてはいけない気がした。
俺は引っ越しをすることに決めた。彼女の荷物もそうだが、彼女との時間を共にした家具も全て処分した。荷物が無くなった部屋を掃除していると、やはり思い出すのは彼女のことだ。それだけ好きだったんだな、と改めて思う。しかし、今の彼女の幸せを思えば、俺にいつまでも想われているのは気持ちよくはないだろう。
俺は彼女と区切りをつけるのだ。
さようなら、俺の愛おしい人。
俺は玄関の鍵を閉めた。
ちぎれた記憶のはじまりはいつも黄昏時だった。痩せた土の上で木々は立ち枯れていた。木槌を手に日々ブドウを接ぐ父と母は金色の陽の中で輪郭をおぼろげに溶け合わせながらゆらめく影だった。けれどこのあと闇に乗じて現れた隻眼の男が刀で父と母の首を千切るのだ。これ以前のことは覚えていない。これは既に起きてしまったことであり、動機は意味をもたない。
ブドウの接ぎ木は成功したが心に空洞を抱えたままだった。私は養子に貰われることになった。相手は隻眼の彼だった。私は私の故国にとっての禍根そのものだったし、拒否する権利などなかった。これは追放だった。仇の死を望む私の死が望まれていた。
共に暮らす中で私は彼から多くのことを学び取らなくてはならなかった。火の熾し方、蛇の払い方、星の読み方。うつろう季節のこと。風は復讐心をさらわなかった。山の頂では雷の夜や雲海の朝もあった。雲海からのぼる金色の陽を受けた私たちの影は憎しみなどないかのように感情をありありと浮かべていた。いつしか記憶の中の父と母は金色の闇の中で輪郭だけで笑う影になった。雷は私たちが私たちの故国にとっての禍根だった過去と秘密を道連れに流れた。闇の中にも神はいたのかもしれなかった。奇跡が起きたのかもしれなかった。
憎しみは消えることはない。きっと彼もそうだったのだろう。私の中に復讐を終えたはずの憎しみの影を見たのだろうか。仇の死を望むゆえに死を望まれた仇の子に死を望まれていることを知っていたのだろうか。だとすれば、罰を受けようやくその荷を降ろすことができ世界と対等になって私の中に憎しみの影を探さなくなった彼の中には復讐を終えた私がいるのだろうか。
ブドウは収穫を終え、樽で眠っている。彼は醸造酒を飲むとお腹をくだしてしまうらしい、ということを知らなかったことにして新しい杯を一脚だけ用意した。
いま彼は老いている。半身がしびれて不自由な彼のためにブドウの枝で杖を編んだ。親亡き後、常に供となりその背を見て育った。彼を殺すことは父親殺しに他ならない。死を覚悟していたのか確認はしなかった。してもよかった。して欲しがっていたのかもしれなかった。代わりに私は死を怖れていることを伝えた。どちらの死かと尋ねかえされた。貴方の死だと答えた。相づち。おぼつかない足元を杖が彼の四肢となって支える。彼は父となり私を抱きすくめる。そして私たちははじめて結ばれる。
女の仕事場には、「日々汝を完全に新たにせよ」ということばが、壁一面にひろがるほどの模造紙に巨大な筆で書かれていた。その墨字は、とにかくヘタクソであった。習字のおぼえがまったくない女の夫が、或る日、仕事場に届けてきたのである。夫がかいたものであった。
女は仕事を始めるまえに、まず、たったひとつしかないデスクの回転椅子からふりむいて、壁一面のこの言葉を眺める。夫の字は、ほんとうにヘタクソだなあ、と思うのだった。女はこの言葉をいったのが、アメリカの思想家・ソローだったことを知らなかった。夫の言葉にしてはなかなかいいなと思っていた。
女は夫の「巨大好き」について、まだ二人とも学生だったころからいつも一緒にいた関係ではあっても、なかなか理解できなかった。なんでも「巨大」を追い求める夫の思考には目的がなかった。ただ「巨大」が好きで、「巨大」でなければ、意地になって大きくしようとした。結婚したあとも、本来は二人でデザイン会社を運営し、一生懸命は働いて子供をたくさん産んで、大きな家をたてたいと思っていた女は、その夢は夢にさえなりえないことにすぐに気がついた。生きて、生活していくことより巨大なヤカンをつくったり巨大な鍋をつくりつづけていくことだけに夢中になる人間がいるのだ。
女は結婚するまえ、美学校時代の夫の、徹底的な「ヒッピースタイル」が好きだったことを思い出す。周りには多くの「藝術家」の卵たちもたくさんいて、彼らの制作にぬりこめられた自我は、一ヶ月も風呂に入っていない体臭のように、臭った。たしかに真の藝術家というのは、この体臭をフェロモン臭にかえられるものであるが、大抵は臭くてたまらない。
女の夫は、ただ「巨大」なものだけを追い求めていてそこには藝術のもつ臭さが全くなかった。それがよかった。
女は、仕事場の巨大なヘタクソな字のまえで、いつも自分の人生をふりかえることになる。そうすると、心がカアっと燃えてくるのだ。
女は、巨大なアルミの鍋を手に取った。これも夫の作品である。女はこの巨大な鍋に、日東紅茶のティーバッグを20袋いれ、大量の牛乳と砂糖をぶちこんで火をかけた。この大量のロイヤルミルクティーが、この日の女の仕事を支えるのである。
そうして、まるで宴会で100人に提供するかのような大量のミルクティーができあがると、それをカップに注いで、いざ本日の仕事へと取り掛かる女であった。
指に変なものがついていたので拭き取ったが、忘れた頃にまた指についているので拭き取るということを仕事中に何回か繰り返していた。インターネットで調べたらだいたい一週間は拭き取ってもついてくるということだったので厄介だなあと思ったが、一度ついた人にはもうつかなくなる性質があるようなのでこの一週間を乗り切ればいいんだと気持ちを切り替えることにした。とはいえ、一人のときはよくても人前に出るときは少し注意しないと指に変なものがついたまま気づかない人だと思われてしまう。でもまあそれも一週間だけの話だし、変に思う人がいればインターネットで調べたことを説明してやればいいだけだ。
「あのう」と、隣にいた同僚が私に声をかけてきた。「耳に何かついてますね」
手鏡で覗いてみると耳の頂上あたりに変なものがついているのが確かに見えた。
「それ、耳につくタイプなんですけど一ヵ月ぐらいは拭き取ってもついてくるそうですよ。でも、その一ヵ月を乗り越えたら宝くじが当たるとか良いことが起こるという噂も」
私は良いことが起こるのはどうでもよかったが、同僚の言った「一ヵ月」という言葉にショックを受けた。そして指だけじゃなくて耳につくタイプがあることにも。
「自分が思っているほど他人は気にしませんよ。日本語では自意識過剰と言うそうです」
結局、指につくタイプは意外にも三日でいなくなったが耳につくタイプは一ヵ月半も居座り続けた。耳につくタイプのやつは次第にほくろがついているような自然な感覚に変わっていったが、今度は他人の体についている変なものが目に入るようになり、それがついている人が案外多いということに気づいてしまった。
「一度ついてしまうとなぜか他人の変なものが見えるようになるんですよね」と、例の同僚は言った。「じつは自分にもついているんですよ、鼻に」
私は思わず同僚の顔を覗き込んでしまったが、彼の困った顔以外は特に変なものを見つけることができなかった。
「ずっと眉毛の中に隠れているから気づく人はまずいませんね。子どもの頃は嫌で仕方なかったんですが、これが自分の人生なんだってあきらめた頃から眉毛に隠れるようになって、そこから自分の中で何かが始まったというか終わったというか――そういうことを意味する日本語って何でしたっけ?」
それは「妥協」じゃないかと思ったが、違うと言われそうな気がしたので私はそっと仕事に戻ったのだった。