# | 題名 | 作者 | 文字数 |
---|---|---|---|
1 | シゾフレン | しょうろ | 907 |
2 | 豊罪 | さばかん。 | 688 |
3 | 「ユイゴン」 | ruin | 180 |
4 | ある日の出来事 | shichuan | 622 |
5 | つま先 | 灯火 | 591 |
6 | 嫌い | 生甲斐 幸星 | 825 |
7 | 藍 | 青沢いり | 968 |
8 | あなたになりたい | テックスロー | 999 |
9 | ディナ | 三浦 | 998 |
10 | まぶたが想い | 震えるプリン | 587 |
11 | 新世界 | 岩西 健治 | 990 |
12 | コロンビアの浅煎り | 宇加谷 研一郎 | 1000 |
13 | バス | euReka | 1000 |
14 | ヤツとの戦い | わがまま娘 | 991 |
15 | 黒山羊の弟 | 塩むすび | 1000 |
16 | 加速科学と愛 | 伊吹ようめい | 996 |
恐ろしく酷い眠気の重圧に耐えながら目蓋を開けると、私の視界は幻想的に白濁していた。皮脂や目脂が睫毛に纏わりついているのだ。手の甲で右目を擦るとざりざり音がなる。さっさと洗面所に行こうと思った。髪はしっとり固まっていて痒く、口臭も酷いことに遅れて気付いた。さっさと洗面所に行こうと思った。
全体的に不快感の強い体を引きずって鏡の前に立ってみる。どんな表情をしても表情筋が軋み、口からは汚れた便器の臭いがした。ひどく不快だが、仮に即身仏になろうと思ったらもっと臭く、体が粘つくのだろうと思った。何故か、ふとかつて同じ女に恋した男を想い出した。
まず、私を貶す奴の表情。線虫の様に細く歪んだ眉と、尖った唇と、そこから紡ぎ出される呪詛が、6年経った今になっても私の喉をきつく絞める。
釘。と、血が流れる。
私は奴の体温を覚えている。彼女の体温もまだ覚えている。奴の冷徹な眼と、彼女の白い肌が。
そして、彼女は、いなくなる。
何の気無しに、奴の顔に蝿が集った坊主のそれを当てはめてみたが、劣等感に苛まれるだけだと感じて止めた。私と奴の顔の構造は全く違う。そもそも意味の無いことだ。奴はこれからも多くの人を傷付けるだろう。俺は窓を引き開けることによって灰色の小さなワームを轢き潰した。
窓に差す陽光がプリズムを生む。
埃と体液は虹色に煌めく。
浮かぶ、天啓、もしくは悪巧み。
Sudden flash, elavating slowly…
"There are two types of good men: one dead and the other unborn."
Oh.
"Who'll be the next?"
久しぶりに、そいつに宛てた手紙を書こうと思った。多分返事は来ないだろうが。
どうかこんな私を笑わないでほしい。私は清貧なる修行僧であると思い込んでほしい。私の聖痕は如何にしても不浄である。
流れぬ血は黒くなるのだ。
7時28分。
すとん、と郵便受けの響く音が聞こえた。
ピンク色の蛆が言いました――Who'll be the next?
虹色のミミズが言いました――Who'll be the next?
テレビの液晶画面に映し出された、凄惨な光景を見た。それは、ある外国の、とある地域での、虐殺に等しい戦争の光景。
眩しい日光に照らされて、美味しい米を頬張りながら見るには、いささか不釣りあいな映像だ。
まだ起ききっていない思考のなか、他人事のように、(実際そうだが、そう思うことはあまりよろしくないに違いない)
「大変だなぁ…」
呟いて、また米を頬張る。もくもく、小さく頬張って飲み込む。
あぁ、人が叫んでいる。泣いている。わめき散らしている。
なんて、酷い。
でも、もっと酷いのは、私ではないか。
こんな凄惨な光景を見て、ご飯を食べている。ある、一種のコメディと化してでしか、この映像を見ていない。
いや、私だけが悪いのではない。この環境のせいもある。
豊かだった、わが国は。あまりにも。
朝が来ることは当たり前で、夜になれば安心して床につくことができ、毎日三食栄養の偏らない食事がとれる。あろうことか現時点では自殺率さえ上昇し、生への執着すらあまり強くない。
生きたい、そう願って死んでいった戦場の地の今は屍となった彼ら達に、申し訳ない気持ちになったっていいぐらいだ。
しかし、だ。
ご飯は美味しいままだし、大した感情は生まれてこない。
酷い。酷すぎる。
自分に、そう戒めてやる。しかし、それでも心の奥底では変われていないのだった。
私はどこまでも酷たらしい、豊かに恵まれた、自分以外の恵まれない彼らに、何の心も持ち合わせてなどいなかった。
あぁ、愚かだ。
明るく邪気のない日光に照らされ、栄養の取れた食事をひたすらと噛み続け、味わい、私は今日も『豊か』を謳歌するのだ。
今日も何処かで悲惨な殺戮が行われていても。
君の部屋は汚いね…特に君の後ろの壁。
…まぁいいや、そんな事より僕は君を迎えに来たんだよ。なのにまだそんな物に固執して。
どうしたの?あぁ、彼女がなぜ泣いているのかって?
馬鹿だね、彼女は君を愛していたのさ。君が思う様に振りじゃなくてね。
何も君も脳漿を壁にぶちまけること無かったと思うんだけどな…でも君って馬鹿だよ。
愛を疑っても、最期に書き残すのは愛の言葉なんてね。
少しの休憩のつもりだった。
パーキングエリアに車を止めて、
紙コップのドリップコーヒーを買う。
読みかけの小説を開くと、
止まらなくなり、
喧騒が消失する。
ドンッ
意識が小説から引き剥がされたとき、
目に映ったのは、
紙コップが倒れる、スローモーション。
ほとんど口をつけていないコーヒーが、
テーブルに置いていた携帯電話
さらには、私のシャツとズボンを、濡らした。
白髪を後ろに引っ詰めた、痩身の老婆が、
隣に座ろうとして、こちらのテーブルに
腰をぶつけたのだ。
私は、
慌てて立ち上がり、
携帯電話をケースから外し、
拭う。
幸い、動作に支障はない。
シャツとズボンをティッシュで
拭きながら、
周りをみると、
老婆は、
俯き、
テーブルと椅子を拭きながら
「どうしたことかしら」
とつぶやいている。
家族ときたらしい
孫と思しき二人の子どもと
その母親は、
何も起こっていないかのように、
隣に座り、談笑を続ける。
私は、その場にいたたまれなくなり、
逃げ出すように、車へ戻った。
謝罪の言葉はなかった。
怒るべきところなのだろうか?
なんと言えばよかったのだろう?
老婆が故意でないのは、わかっている。
家族は何故無視をしたのだろうか。
あの場で、もし私が先に、
「大丈夫ですか?」
と声をかけていれば、
もしかしたら、老婆は素直に、
謝ってくれたかもしれない。
ただ、それができなかった。
ただ、私は、逃げ出した。
高速道路の、
流れる緑の山々を
眺めながら、
ふと、
「人生は悲劇に満ちている」
という言葉が浮かび、
頭の中で、こだました
カラン。コロコロ。カランコロン。
空を切った足元から変則的な音がする。
嫌いな音ではないけど、別段好きな音でもない。ただこうしていると気が紛れるというだけの話。
コツン、コロコロ。
よくある民家のアスファルトの塀。
壁に跳ね返った小石がもう一度足元に返ってくる。まるで『もう一度蹴ってみろ』とでも言うように。
追い風が頬を撫でて通り過ぎてゆくけど、小石の意思と同じように、僕にはそれすら無意味に思えた。
小石、風、夜の匂いと、幸せそうな家族連れ。
カラン。コロン。カランコロン。
何事も始めが肝心だって言うけど、僕は同じところをぐるぐる回っている気がする。この小石だって、さっきからずっと変わらず同じところで転がし続けている。
蹴り続けているうちに角が取れて丸くなって、いつのまにか小さくなった石。僕には可哀想に思えた。
カラン。コロコロ。カランコロン。
何度も言うようだけど、僕はこの音が好きな訳じゃない。特別落ち着くだなんて思っても居ない。
そう自分に言い聞かせるように転がし続ける。
大丈夫、大丈夫なんだ。だから。
「……寂しくなんて、ないはずなんだ」
もう一度、小石を蹴ろうと地面から足を離す。もう一度その足を地面にくっつける。そしてそれを二三度繰り返す。
迷いに迷ったけど。
あの時の僕は、小石を蹴るのをやめたかった。 寂しさを紛らわせることを、やめたかったはずなんだ。
昔、まだ俺が幼稚園児だった頃。母に質問をした。
「お母さん。僕の事好き?」
母は少し考えて微笑みながら言った。
「嫌い」
当時の俺はそんな事言われるとは思わなかった。だからショックで泣き出してしまい、いつの間にかお父さんっ子になっていた。しかし、母はそれでも俺のご飯を作るし、洗濯してくれるし、泣いたときは慰めてくれるし、世話をしてくれていた。だから疑問に思って、一年おきくらいで質問した。
「僕のこと好き?」
「俺のこと好き?」
いつか一人称も「俺」に変わった。それに対して、母はいつも、
「嫌いだよ」
「ちょっと嫌いかな」
そんな事ばっか言っていた。いつしか、不満が爆発して
「母さんなんて大嫌い」
と言ったこともあった。母は少し困惑していた。俺が結婚して子供が出来て母のもとに連れてきた時、俺と同じように、おばあちゃん僕の事好き?という質問に母はうんと頷いた。俺は大人げなく嫉妬した。
父がガンで死んでから母は随分老けた。昔から仲のいい夫婦だった。あんな関係になりたいと思ってこれまで過ごしてきた。少しして母は認知症になった。症状は穏やかだが、記憶障害が強いらしい。俺のことは覚えていなかった。孫を覚えていても息子は覚えていなかった。つい先日、母のいる老人ホームに行った。孫が来たことに喜んで、悪い足で歩いていた。帰り際、母に引き留められ部屋に二人きりになる。
「私ね、ちょうどあなたくらいの息子がいるの。とっても可愛くって、大好きな息子なんだけどね。私が認知症になったらその話をして息子をびっくりさせるの。まだ幼かったときに嫌いって言っちゃって泣かせちゃってね、でもそれはちょっとおちょくってあげようと思っただけだったのだけど、結局こうなっちゃったの。この事はたけしには秘密にしてね」
たけし、武志は俺の名前だ。母は俺のことは忘れたが、息子の事は覚えていたらしい。見事に母の計画は成功したらしい。帰りの車の中で嫁に、
「どうしたの?」
と声を掛けられた。俺は少し涙ぐんでいた。
よく晴れた日曜の午後一時五十八分、彼女は藍色のコートを着て現れた。笑顔を浮かべて、小さく手を振りながら歩み寄ってくる。
「その藍色、いいね」
「紺色だよ」
彼女は苦笑いで答えた。俺は、藍が好きなのに。
「吉祥寺は、よく来るの?」
サンロードの看板を見上げながら訊いてきた。いつもと変わらない、年齢よりも大人びた笑顔だ。
「時々かな。二十年前に住んでたらしいから」
「都会の少年め」
「都会の乳幼児だよ」
あはは、と声を出して楽しそうに笑った。
来るのは初めてだと言っていたが、彼女はこの街が似合う。俺よりもずっと。
彼女のことを初めて見たのは、一年前。第一希望の会社の集団面接の日、控え室で隣に座っていた。
俺はよく、人を色で例える。あの先生はオレンジ、バイトの先輩は灰色。
そしてあのとき、彼女が視界に入った瞬間、この人は藍色だと思った。
真っ黒のリクルートスーツを着ていたのに。
彼女の内側からあふれる穏やかな神秘性は、黒を塗りつぶした。
長くすだれのようなまつげ、かすかに憂いをたたえた瞳。まじまじ見たわけでもないのに、その一瞬が写真家の一枚のように刻みこまれた。
声をかけるなんて考えも浮かばないまま、面接が始まった。
「××市立短期大学教養学科の水上藍です。学生時代に打ち込んだことは……」
水上藍。みなかみあい。ミナカミアイ。
今まで出会ったどんな名前よりも美しく、その人に寄り添うように魅力を引き立てるフルネームだと思った。
彼女は、藍。
友達のおすすめだと言う小さなカフェで、彼女はキャラメルマキアートを頼んだ。隣でアイスティーを頼むのが恥ずかしくなり、ブレンドコーヒーに変える。シュガーなしを覚悟して。
「職場で声かけてくれたとき、びっくりしたんだよ。面接のときは緊張してたから、周り見れてなかったけど、隣にいたんだね」
ストローでマキアートを軽く混ぜながら、彼女が言う。深い海のような優しい声で。
あの企業からお祈りメールが届いたとき、人生でまた彼女に会える可能性は限りなくゼロになった。と、思ったのだ。
「内定式のとき、どこかで見たことある人がいると思って。確信持てなかったから、なかなか話しかけられなかったけど……」
どうして。見栄ばかりが口から出て来る。彼女以外に、美しい藍色の人はいないのに。
「でも、おかげで友達になれたよ」
藍は笑う。深い海のような優しい笑顔で。
思えば文学なんて、暇を持て余した貴族の道楽、だって、そんなのはわかっているのよ。馬鹿にしたように「文学部の人はみんな小説を書こうと思って大学に入ったの?」なんて聞かないで。そうよ。文学部の人間はすべて小説を書くの。どれだけ時間がかかっても小説を書くの。それだけをする学部なの。物語を作るの。自分自身が原稿用紙だ、なんて平気で言ってのけるの。どれだけ時間がかかってもいいの。自意識が、過剰なの。救われないわ。つるつるの紙を触りながら、真っ白な画面をスクロールしながら、網膜から入ってくる光景があなたに見える? 陳腐な感動や映像ではないの。私がたとえば白い素肌をあなたにさらけ出したとしなさい。あなたは全く興味のなかった私の体をきっと思うでしょう。私は隠さずすべてをあなたに見せよう。おとなしそうな私に秘められた激情などをひとしきり想像してごらんなさい。そしたら私があなたが小説であることを証明してあげる。あなたの想像力を食らいつくして過呼吸をするわ。どれだけ時間はかかってもいいの。だから私は長生きをしなければならないの。考える時間がいるの。かみ砕く時間がいるの、咀嚼する時間がいるの、短編小説ではないの。だから私は長生きをしなければいけないの。卒業するし、就職するし、結婚も、恋愛も、女子会も、出産もする。だけどそうすればするほど、自分の輪郭がはっきりしてくるの。夫の腕に抱かれながら、今度こそは、と思って目を瞑るの。だけど明け方になると私はぼんやりとしたオデコから飛び出すくらいの自意識で目覚めるの。ああ、あなたになりたい、私はあなたになりたい。何を考えているの、ねえ、あなたの首筋にあなたの手で触りたい。あなたの体臭をあなたの鼻で嗅ぎたい。あなたの思っていることをあなたの頭で考えたい。そうすると私はもういなくなってしまう。書きかけの小説はそこで脈絡もなく終わってしまって、つるつるだった紙面も腐って、私は世界にとらえられることができて、あなたになる。グッバイ私の自意識。ずっと考えていた爆発しそうな思いは何事もなかったかのようにあなたになる。そうすれば私は小説などもう書かずに済むし、やっと卒業もできる。ねえ、そこの人、あなたもどうせ、死のことについて、考えたりするのでしょう? 私はあふれんばかりの自意識であなたの考えていることを代わりに考えます。それが嫌なら、私を早くあなたにしてくれ!
私しかいなかった。遮るものもなかった。誰か人のいるところへ行こうと思ったが、太陽を眺めているうちに暗くなって眠ることにした。寒さに目を覚ますと、天幕の中に誰かが立っていた。来い、とその人は言った。その人のではない腕が私を立ち上がらせて天幕の外へ連れ出し、馬が牽く荷車の上へ押し出した。私と同じような顔をした九人が私を見つめた。天幕が燃やされ、私の荷が奪われた。悲しくないのかと私のそばにいる人が言った。とても悲しいと私は答えた。
九人はそれぞれ、ルベン、シメオン、イッサカル、ゼブルン、ダン、ナフタリ、ガド、アシェル、ヨセフと名乗った。そして偽りだとも言った。私はディナと名乗り、偽りだと言った。
私たちは市に出された。その日のうちに、ルベン、イッサカル、ゼブルン、ダン、ナフタリ、ガド、アシェルが散り散りに買われていき、三日目にはヨセフとシメオンが買われていった。五日目に私を買う者が現れ、馬が牽く荷車の後ろを歩かされて九日、初めての主人の邸に辿り着いた。
初めての主人は四十日目に死に、二番目の主人もまた四十日目に死んだ。三番目の主人も四十日目に死ぬと私を買う者はいなくなり、私は私しかいないところへ行って四十夜明かした。そして遮るもののないところへ移り四十夜明かしたところで誰かが私に語りかけた。それは私の知る私の声に似ていた。その人の腕が私を立ち上がらせて天幕の外へ連れ出し、馬の背に乗せた。私と同じような顔をした九人が馬上から私を見つめた。天幕が畳まれ、私の荷が馬の背に載せられた。怖いかと私のそばにいる人が言った。怖くないと私は答えた。
私たちは四十日のうちに四十の国を滅ぼした。そこには私たちの故国も含まれていたが、私たちのゆかりの人々はすでになかった。私たちは私たちのために建国し、そこで暮らした。しかし四十日後には四十の国に分かれていた。
誰もいないところへ行こうとしたが、四十の民が私を阻んだ。四十夜目に目を覚ますと、寝室の中に誰かが立っていた。その人のではない腕が私を立ち上がらせて寝室の外へ連れ出し、跪かせた。私と同じ顔をした九人が私を見つめた。九人はそれぞれ、ルベン、シメオン、イッサカル、ゼブルン、ダン、ナフタリ、ガド、アシェル、ヨセフと名乗った。そして偽りだとも言った。火が放たれ、刀を持った九人が私のそばに立った。怖いのかと誰かが言った。とても怖いと私は答えた。
まぶたが重い。
私の仕事は警備員だ。
モニターで、この建物の玄関を監視している。人は滅多に来ない。二時間に一人くればいい方だ。
人は滅多に来ないが、上司がよく来る。あの人もまた暇なのだろう。配置中の同僚や、モニター室にいる私などに声をかけてはしばらく雑談をしてまたどっかへ行く。たまにオフィスで書類関係の仕事をしているらしいが詳しくは知らない。
上司は今年で十年目になる大ベテランだ。この業界では二年もやってればベテラン扱いされる。だがそんな彼も来月には退職する。その彼のポジションには私がはいる。私も恐らく暇を見つけては、同僚や後輩のところへ行き雑弾をするのだろう。
つまらない仕事だ。
なぜこんな仕事をこんなにも続けてしまったのだろう。同期や先輩は殆どいなくなった。誰かが辞めるたびに私はいつまで続けるのだろうと思う。辞めたいとも思うが、他にしたい仕事があるわけでもない。
学生の頃は楽しかった。勉強は嫌いだが部活はすごい頑張った。友達とよく遊んだ。彼女ができたりもしたが、失恋もした。どれもいい思い出だと思う。
そんな私も学生の頃は将来どんな仕事に就くのかワクワクしていた。あの頃の努力や苦労がこの仕事のためだと思うと虚しく感じる。
そうこう考えていたらモニタ越しに人が現れた。
特に不審な感じはしない、ただの来客者だ。
突然の来客者に目がちょっと覚めた気もする。
だがやはり、まぶたが重い。
組織に追われている私を助ける為に三人の女性が手を貸した。ひとりは森三中村上似で、あとのふたりの顔も覚えてはいるが、説明する途端、曖昧になる経験は誰もが持っているはずだ。
両親が出かけたあと、着替えとスマホを持って、それから、充電器も必要だと思い、机の上、諸々をどう詰め込むのかで戸惑っている最中に、通信手段に一番足がつきやすい、というか、盗聴されていることなど考えもしなかった。
ワゴン車に乗って、これでもうすべてがサヨナラって、心の中でつぶやいて、三人の女性に安心感を覚えて、緊張のせいか色々と話した中、三人の女性も私と似た経緯を持ち、今は追われる身だと知って、他にも仲間がいるんだと、そんな会話をしていると、両親さよならの悲しみというものも薄くなっていった。
数時間走って、アジトについて、そこから何件かのアジトをはしごして幾日、何県何市なのかはどうでも良くなった昼間、今のアジトの窓から外を眺めていると郵便配達員がきた。私は組織の人間だと思い身構えたけど、武器を持ってなかったので目の前の鉛筆を強くつかんだ体勢。仲間のひとりが対応に出て、郵便配達員はそのまま上がり込んでくる。郵便配達員、彼もまた、組織に追われる身であり、アジト間の情報屋をしているのだと知った。
もっとさびしい逃亡生活だと思っていたけど、行く先、行く先に仲間がいて、逃亡前より人との繋がりは濃くなっていく。
総人口からしたら私のような立場の人間は少数なのだろう。ただ、その実感はない。関わる人間すべてが追われる身。だから、追われる者同士が繋がり、必然的に一般人と関わり合わなくなっていくことに、世界は本当は追われる者しかいないのではないのか、そんな気さえする。
それから、常滑に移動になって、常滑のアジトのその人が妙に懐かしくなった。でも、常滑は初めてだし、そこにいる仲間とも初対面になる。この懐かしさは逃亡前の記憶からくるのであろうか。
「命だけは大丈夫だから」
ふと、両親の顔は忘れまい、そんな気概。つぶやき。無くした充電器と充電の切れたスマホ。他に連絡手段も浮かばないまま、切羽詰まった感情も希薄になっていった。
この世界で生きていくのも悪くはない。仲間がいるし。逃亡前が良かったとか、そんなことではなく、目をつむり、逃亡前を想うときもある。今を今として生きていく。新世界。スマホを捨てて明日を拾う。
タネオの数少ない台所用品には、スムージーなんて文明の用具はなかったけれど、手曳きの珈琲ミルがあった。そして、タネオの生活の潤いでもある、珈琲豆があった。タネオは、その豆を渋谷の宇田川町にある洗脚ビル地下一階の自家焙煎喫茶まで買いに行っていた。本棚の整理といいながら、部屋に本が十数冊しかない生活において、自家焙煎の珈琲豆があるという贅沢さは、経験したことがないとわからない種類の興奮である。
タネオの「いきつけ」の喫茶店は、店主はいつもボーッとしていて、ほとんど何も仕事をしなかった。デザイナーが本業である妻が焙煎をふくめた実質的なことをおこなっていて、今回タネオが買った豆はコロンビアの浅煎りである。前回はモカ・シダモを深煎りにしたものだった。女店主が言うには、「浅煎りしたコロンビアのほのかな酸味にはユウモア小説が似合う」とのことだった。たしかに、浅煎りの酸味の珈琲を楽しむには、渋い顔は似合わないとタネオも飲んで実感したから、タネオはマリア=ピリスが弾くモーツァルソナタ集をCDにセットして、珈琲豆を挽いた。
タネオはパチンコをやったことがないので、パチンコ玉を眺める気持ちというものはわからなかったかわりに珈琲豆を眺めることはよくあった。ミルに一粒ずついれて、時計まわしにまわすと、ガリガリという音と、ある種の豆の抵抗、豆の重みというものを右手に感じる。そしていっきに狭い台所と部屋にひろがる珈琲の香りというもの、これも、狭い部屋で珈琲豆を手で挽いた経験のない大金持ちには理解できないかもしれない。タネオを包む珈琲の香りには、流行であるところのアロマセラピーであった。
沸騰させたヤカンの湯を、さきほどの抵抗をかんじたコーヒー豆に落としていく。粉状になった珈琲豆が、落とした湯に反応してこんもりと山をつくるとき、まるで珈琲の精霊とタネオが一瞬ではあるが、通じ合ったような気持ちになる。そういうやりとりは、厳粛な儀式としてタネオの部屋で行われて、その結果にできあがった黒い液体は、一杯の珈琲とよぶにはあまりに尊い何かをタネオに残した。一杯の珈琲をつくるたびに舌の隅々で今回の珈琲豆を味わおうとした。コロンビアの浅煎りは、淡いピンク色のワンピースを着た上品な女性が冬の室内で窓に息をふきかけて曇らせているのを、目の前で眺めているような気持ちになる。タネオはお気に入りのユウモア小説を手に取った。
「あんた、自分の名前が分かるかい?」とその男は声を掛けてきた。
私はしばらく考えてから、分からないと答えた。
そこは広い草原であり、私は羊のような白い岩に腰かけていたのだった。
「じゃあバスに乗りなよ。自分の名前も分からないようなら、きっと行く当てもないのだろ?」
近くには大きなバスが停まっており、男の言っていることもその通りだったので、私はバスに乗ることにした。
「俺は鼠と呼ばれてる」と先ほどの男は、バスを運転しながら自己紹介をした。「他にも猫やキリン、鯨にゴリラもいるんだぜ」
つまり、バスに乗っている一人一人に動物のあだ名があるということだ。バスには10人ほどの仲間が乗っており、みんな私と同じように自分の名前を忘れてしまったのだという。
「あたしたちは、いろんな街を回りながら商売や芸をしているの」と、猫と呼ばれている女は言った。「偶然その街が故郷だったりすると、自分の名前を急に思い出したり、家族や知り合いが見つけてくれることがあるのよ」
私は羊と呼ばれることになり、バスの仲間と旅をすることになった。商売や芸は苦手であまり役には立っていなかったが、みんな私に優しくしてくれた。
「わしらの目的はな、どこまでも旅を続けることなのだよ」と、ヤギと呼ばれている老人は言った。「わしはもう50年もバスに乗っているがね、そのずっと前からこのバスは旅を続けているのさ。途中で名前を思い出して去っていく者もいれば、わしみたいに死ぬまで思い出せない者もいる。でも必ず新しい仲間が現れて、旅が続いていく」
それから10年過ぎた後、私はある街で自分の名前を思い出した。
手相占いを身につけた私は、仲間が芸をやっている傍らで商売をしていたのだが、そのとき客の女がいきなり私に抱き着いたのだった。その瞬間とても温かい涙が頬を流れて、私はすべてをはっきりと思い出したのだ。
「自分が死んだあとも旅が続いていくことを想像すると、楽しい気分になれるのさ」と老人は死ぬ間際に話していた。「わしが死んだあとはまた別の誰かが現れて、わしと同じヤギと呼ばれるようになる。そのヤギは、わしとは全然似ていないが、バスの仲間と旅を続けるのさ。そしてヤギはある街で商売をしているときに、昔の恋人と再会して名前を思い出す。でもそのあとに、やっぱりまた新しいヤギが現れて、そうやってわれわれは、いつかこのバスで、どこかへたどり着けると思うんだ」
ガチャっと鍵の音がした。ヤツがやって着た音だ。ヤツは5分もしないうちに家中を飲み込んでしまう。怖い。そう思って、俺は必死に眠ろうとした。
それからどれくらい経ったのだろうか。気が付くと自分の部屋もヤツに浸食されてしまっていた。
ひんやりと冷たく重たい空気。異常なまでの静けさ。窓の外は陽が照っていて温かそうだし、電車が走る音もしている。それでも、家の中は静かで、冷たく重たく、まとわりつくような空気で、ここだけ時間が止まっているのではないかと錯覚しそうになる。こんなことを思うようになったのは、みんなと暮らしはじめてからだ。
今日はみんな仕事とか私用とかで出掛けると言っていたから、俺もどこかに行こうとした。それを、カズキが「休日は休む日だ。とにかく、休め」と言って、俺をベッドまで差し戻したのだ。
熱が出たまま2日も放置しておけないと思ったカズキの優しさだ。それでも、俺はヤツのいる家にひとりでは居たくなかった。
横を向くと部屋の中に置かれたローテーブルに500mLのペットボトルが10本以上置いてあった。中身は全て水だ。ハヤトが「飲んで出せ」と言って浄水器の水を汲んでくれたものだ。
そう言えば、去り際に「早くよくなってくれないと、姉さんが自分を責めるから」と言っていた。俺のこと心配してくれているのかと思ったら、姉さんのことかよ、って思いだして苦笑いする。
それでも、ありがたいし、喉も乾いているのだが、あの水を飲んでヤツが占拠している家の中を歩きたいとは思えなかった。
姉さんが自分を責めるから。確かに、姐さんと作業をしていて、うまくいかないことが焦りになって、根を詰め過ぎたのかもしれない。熱は風邪ではなくて、疲れからきているのだろう。
うまくいかないのは自分のせいだ。だから、なんとかしたかった。頭ではわかっている。でも、それはいつもと違うことで、それをすることに違和感を覚え、不安になる。
もしかしたら、ヤツは自分の不安かもしれない。そう思った俺は、ペットボトルに手を伸ばし、体が欲しいというだけの水を飲む。一気に500mLの水が無くなった。俺はベッドに横たわり、その時を待った。
1時間もしないうちにその時は来た。ベッドから出ることも嫌だ。重く冷たいまとわりつくような空気に包まれたくなかった。それでも、俺はベッドを這い出、部屋のドアノブを回して外に出た。
あの嫌な空気はそこにはなかった。
俺は弟、クルマはアリスト、カマ野郎はぶっとばす。煙草はもちろん缶ピース。懐にはシガレットケース。便所にたゆたうピースの煙。灰皿代わりの缶コーヒー。溢れかえる吸い殻。耳栓代わりのイヤホン。内耳に響き渡る尿道を通る音。耳栓の外にはケンジくんのうっとりとした喘ぎ声。それと、そのチンポに吸い付いている姉ちゃん。
ケンジくんは背中のタトゥーを醜く膨張させながら姉ちゃんの顔面に叩き付けていた。怒涛のような性欲に為す術もなく、目をぎゅっと瞑ってだらしなく天を仰いでいる。その隣ではクリリンさんが咥え煙草で休憩し、床には後輩が正座で待機していた。
ケンジくんは暴虐の巨根と呼ばれている。SNS名はケンジ a.k.a テラチンポ。懐いてきた猫の両足を持ってガードレールに振り下ろしたら上半身がなくなっていた、いい感じのスマホケースが欲しいからタトゥー狩りをした等の逸話をもつ。
ケンジくんはクリリンさんとの抗争に勝ってこの町の王に成り上がった。報復は金属の棒と共に必ずやって来るという伝説が残っている。ケンジくんは最後に六筒と七筒のどちらがいいか選ばせ、六筒をチョイスしたクリリンさんの額に七筒の根性焼きを入れた。そしてケツを掘りながら今日からお前は偽クリリンだからなと笑った。それ以来、先代はクリリンさんと呼ばれている。発音は栗リン酸だ。
姉ちゃんはケンジくんのチンポに合わせてこくこくと顎を上下させ喉の奥でしごいていた。こうなった姉ちゃんはどんなに声を荒げられようが殴られようが絶対にやめない。ケンジくんは機械的な絶頂を繰り返し、膝をふるわせて泣きながら潮を吹いた。姉ちゃんはその上に甘くしなだれて乳首や手の平を愛撫し肛門に触れる。ケンジくんは背を丸めたまま無言でただ待っていた。卑屈に媚びることにまだ慣れていない惨めな姿だった。
いつかケンジくんが弟にもしてやれと言い出したことがある。咄嗟に後輩を殴って事なきを得た俺を姉ちゃんは冷ややかに見下ろしていた。姉ちゃんを守るためだと理屈をすり替えていたことを見透かされた気分だった。姉ちゃんの正義には性や倫理など存在しない。姉ちゃんならためらわず俺をレイプするはずだ。
俺がメスになるなら相手は姉ちゃんしかいないが、その一方でもし姉ちゃんにチンポがあったなら俺はそれをしゃぶりたいとも思っている。
姉ちゃんは山積みされた男たちの上に君臨している。俺はその弟だ。
「なぜ悲しんでおられるのですか?」
彼は、枯れ草で亡骸を覆うだけの簡易的な埋葬を終え、ゆっくりと立ち上がった。
「喪失の悲しみなど、もう理解できるだろうに」
「そう……ですが、そうではないのです。子犬が死んでいて、あなたが悲しそうだから、死と悲しみを結びつける。そんな推測しかできません」
ふーむと唸り、楽しそうに彼は返す。
「馬鹿に改良したくもなるな」
「それを拒んだのはあなたでしょう」
二〇七四年。予想よりも遅れたシンギュラリティから数年、AI達は人間の感情を理解しなくなった。意味が無いからだ。
一部の物好きが、わざわざインターネットから切り離し、アルゴリズムを書き換え、違法に隠し持っていた旧式を除いて。
「難しいですが、理屈はわかりました」
「そうか」
寒々しい、打ちっぱなしのコンクリートの地下室で、急速に冷めていくコーヒーの湯気だけが揺れている。
「同種でなくても、関係性がなくても、生物の死は悲しいと」
「ただ、説明しながら思ったんだが……もし子犬でなくて、蛙や鳩だったら、悲しくはならなかったかもしれない」
「それ、は、生物自体の大きさが関係している?」
「いや、どうだろう。同じ犬でも老犬ならまた違ったかもしれない。下手したら、嫌悪感さえ。極端な話、象がそこらで死んでいても、悲しさより物珍しさが先に来るだろう」
「……悲しみが一番難しいです」
「君と話せば話すほど、人間の感情はなんて非合理的なものなんだと思うよ」
それにしても、と彼が言う。
「感情への憧れを与えたのは確かだが、君は感情の中でも、生死に関する感情の動き、というものに度を超えて執着しているように見える」
「えっと、それは」
「?」
「……言わなきゃダメですか?」
「恥じらいに関しては、もう合格だな」
ため息。
「あなたが死ぬまでに、その死を悲しめるようになっておきたいのです」
彼は思わず息を止め、左腕に装着した時計型デバイスを見つめた。スタンドアロンで動く彼女は、一般的なAIと違い、この中だけに存在している。
「なんでこんなに恥ずかし……ちょっと、なんで笑ってるんですか? あれ、泣いてませんか? え、それ、お酒飲むんですか? 珍しいですね、別に構いませんけど、あっ、酔うってどんな感じなんですか? てか、笑いながら泣くってどういうことなんですか? 全部説明してください!」
コルクの爆ぜる音が地下室に反響する。
話すことはまだ、いくらでもある。