第190期 #7

スピーチの草案

 ご結婚おめでとうございます。もう一度。おめでとうございます。
 二年前に新郎は私の教え子でありました。実を言えばあまり出来の良い学生でなかったのでありますが勘繰るに彼は私のような学問にまみれた年寄り男のことを珍しく思い、それで興味を持ったのでしょう。よく酒を酌み交わしたものです、よくあることです、好奇心を媒介とした青年と老人の交際。世間一般では普通の、有り得ないことではないです。このスピーチの機会はその縁で頂いた次第です。

 彼が酒席で口にすることと言えば私の専門である考古学ではなく、喰い物と恋でした。
「のれそれ、という魚をご存知ですか?」
「知らない」
「残念です」
 彼は次々と私に話題をぶつけました。私の返事の殆どが「知らない」「興味がない」でした。彼は私の関心領域がどこにあるのか探っていたみたい。「先生の恋愛は?」と問われたことがあります。その時は無言で退けましたが今日ここで応えたく思います。

 私は結婚をしておりません。しかし恋愛を嫌悪しているのではありません。私は淡い恋を好みます。自分と相手の心がふれるかふれないかの、その間の煙のような感情を愛しています。
 健康で艶やかな、肉づきの良いのが私の理想です。それは私の職場の手伝いの女性かもしれません。私は恐らくその女性を一目に見て恋したと思う。彼女は私によく飴を呉れます。その他の仕草の観察からも彼女が私に良い感情を抱いていると思う。だが告白の仕方が分からない。
 文献を取ろうとした時、彼女と手と手がふれあいます。温もりが伝わる。体温は様々な感慨を催させます。そして肌、驚きの小さな声。また視線が瞬間に交わる。互いに微笑を浮べ手を引く。
 私はそれだけで満足です。あの体温。肌。声。視線の交錯。あの頬笑。それだけでとても官能的です。私はその感情の記憶を再生し、反芻します。何度も何度も。彼女が私を愛しているという予測は、もはや確信に変わります。
 しかし確信はやはり行動を促しません。私はお気に入りのレコードに毎晩、寝床に就く前、針を落とせば満足なのです。

 ただこのような趣味の私は子を産み増やす重要な事業に参加する意志がないというという点において、自分自身を人類にとっての荷物のように思っています。しかしながら彼は今、子を作るべく家庭を築こうとしています。その素晴らしい勇気をここに心から賞賛したいと思います。
 ご結婚おめでとうございます。



Copyright © 2018 qbc / 編集: 短編