第190期 #6

大富豪の家政婦

「今日、いやなことがあった」

 女はそういって、ごろんと横になった。その部屋には、熊のぬいぐるみがあって、それは僕が女にプレゼントしたものである。女はぬいぐるみを抱きしめながら右に左に寝返りをうっている。

 女は大富豪の家政婦をしていた。

大富豪という人種は、平凡な家庭にうまれた女の人生観というものをことごと打ち壊してしまう別の星の生き物であるらしい。

僕が女と出会ったのは、女がすでに大富豪の家政婦として働いていたころで僕らは街で出会いがしらにぶつかったことがきっかけだった。

ナンパということになる。

僕が「シナモンロールでも食べよう」と誘ったのだ。

後に女は僕が「シナモンロールを食べよう」と意気込んで誘ってきたことが「かわいかった」といった。シナモンロールを食べようというのは「俺の肖像がはいった金貨をあげるよ」という“大富豪”に比べると、実に温かいことばだったというのだ。

僕が彼女にぶつかったときの彼女の姿はお忍びのスターが気まぐれで遊びにきたような格好で、それでいてふとももが大胆に露出していた。太いサングラスがよく似合っていて、目の部分がすっかり隠されていた。

けれどぶつかったとき、そのサングラスがズレて彼女の瞳が、これも露出したのである。

その女の瞳にすいこまれた僕は、一瞬にして女が、ひとりぼっちであることを読み取った。

 僕たちは、恋人同然に会うと互いの部屋ですごしたり、料理を作ったり、お風呂にいっしょに入ったりした。けれど恋人同然であっても、恋人にはなれない。

 女は僕に「女」と名乗って、実名をあかしていない。

「私ほんとに女なの」

 と、女は言った。


驚いたのは女のアパートへいったとき、表札が「女」となっていたことだ。しばし考え込んでしまった。

女が「女」になった理由には、大富豪が絡んでいることを知った。

 大富豪は名前を買い取ってしまったという。名前を売った経緯について女は言わなかった。

 女が勤めている大富豪の屋敷は、日本になかった。女は毎朝赤坂にある某大使館に入る。その大使館には最新鋭飛行機がやってくるらしく、空気の色に化けるその音速飛行機にのって、女は大富豪の屋敷にむかうのだという。

 女が「今日、いやなことがあった」と言っている。僕は女に近づいて、彼女の豊かな髪にふれる。それはもはや毛ではなく、太陽があたった夏の小川のせせらぎのようである。女の髪に触れているだけで、僕の手は喜ぶ。 



Copyright © 2018 宇加谷 研一郎 / 編集: 短編