第190期 #2

いっそ嫌いになりたかった

嫌いになろうとして、でも頭にこびり付いて。
貴方が居なくなって、連絡先さえ知らないというのに今だに心の隅には貴方の残像がいつまでも消えない。

雨の日に、ふと傘を差してスタスタと早足で歩く人が私を見て会釈をした。

「……、? お疲れ様です」

ヘッドホンをしていたから、何か言ってたけど何言ってるかも分からないし。
通勤帰りだったから、ここで声を掛けられるとしたら同業者なのかな…と推測して自然と出た言葉は お疲れ様 だった。
よくよく見ると、1年以上前職場が一緒だった人によく似ていて。でもやっぱり違ってて、本当に誰だか分からない。

あ……、この人も音楽聴いてるから私の声なんてあんまり聴こえてないよね? チラつくイヤホンのコードを眺めて考えた。



――この知りもしない会釈をした人に『よく似た』とある人の事が、私は昔好いていたんだと記憶が湧いて出て心臓が軋む。

確かあの人も、早足で私を追い越して、いつも音楽を聴いていたような……。


昔ドギマギしながら、「井上さんは、普段どんな曲聴くんですか?」と尋ねた事がある。
それで、教えて貰ったアーティストの名前を 意 地 で も 、覚えの悪い脳みそに記憶させたのだ。その名前だけは忘れまいと。

持っていた音楽雑誌を家で開くと、たまたまそのアーティストの記事が載っていて嬉しくなって。夢中になって雑誌を読みふけった。
今となってはどんな記事だったかも記憶には残ってもないけど、そんな感情だけは覚えている。
好きな音楽だけでもいいから共有していたくて、早速私はレンタルショップへ行ってちゃんと覚えておいたアーティストのCDを借りた。

ただ、それだけなのにその曲を聴くと特別で、なぜだか切なくなったのだ。

今、あの人は、何をして、何を聴いて居るのだろうか……?

「こんな安い給料のとこ、いつまでも働いてられるか」

そんな文句を垂らしながら、職場を彼は辞めてしまった。
連絡先を聞く事も私はあえてしなくて、ただ「寂しくなりますね」とだけ零してはにかんだように笑っていた。


そうして、その人の居なくなった席に数ヶ月後、何故か私がその席に座っている。
移ったばかりの頃は薄汚れたデスクに、キーボードにはコーヒーが飛んだ跡がちらほら残っていて堪らず私は掃除した。


「……全く、」

そう零しているのに、心はニヤついて気色悪くて。

ああ、なんだかんだ慕っていたのだなぁとデスクを布巾で拭きながら思ったのだった。



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