第190期 #3

感情泥棒

 返事はいい。しかし伝えたことが正しく遂行されない。そのくせ、要求だけは1人前。いや、その要求も、腹立たしいことに、一応は遠慮してみせるが、その遠慮が最終的に彼に与える利を最大化している。労働を効率化することに全く創意工夫を施さない。全く同じところでミスをする。彼にとって労働とはなんだろうか。
 すべてがいやいや。やらされている感。部のゴルフコンペがあるので、一応彼に声をかけると、「行きます」と。それで打ちっ放しに行くことに。ドライバー。まっすぐ飛ばない。ネットで検索。なるほど、体重移動。右足に体重をかけ、それを左足に。違う。ボールはすべてスライス、右方向。
 恐ろしいのは、それを飽きもせず、100球近く続けている。たまらず声をかけると、半笑いで「なんでまっすぐ飛ばないんでしょう」そこで教えてやる。スイング後に脇を締めること、のけぞらずボールをのぞき込むようにして打つこと、身体を開かないこと。
 「やってみて」
 ボールはまだスライス気味だがさっきよりはまっすぐ飛んだ。彼の目に浮かぶ少しの喜色。
 「いいね、ナイスショット」
 上気した彼は調子に乗って打ち込み始める。するとまた彼の身体は開き、ボールは右方向へ。
 「意識して、ボール」
 彼が萎縮したのが分かる。固い身体で振り下ろしたブリヂストンのパーシモンはティーの下面をかすると鈍い音を立てた。父親にもらったものだという。

 たぶん君には今よりいい居場所があると思うんだ。その言葉をぐっとこらえる。俺には分かる。この手合いは自分から辛いと言ってくることはない。ずっと辛そうにほほえみ、じっと我慢し、自分のエネルギーから、不満や、不平を差し引いたほんの少しの余りで撫でるように仕事をする。その対価として我々とほぼ変わらない、給料を面白くも無い顔をしてもらって家に帰る。同情すると小出しに自分の事情を話し、どうでもいい昔のエピソードなどを少しずつ開示する。そして十分自分が同情されていると分かった時、共犯者のような顔をして開き直る。この感情泥棒め。
 気づくとまた犬のようにクラブを振り始める。叩かれたボールは醜い軌道を描き続ける。球数を見ると214とある。彼はドライバーを振るたびにの手のひらを気にするそぶり。肉刺がつぶれて血が出ている。それを見つめて横目で俺を捉えてまたボールを叩き始める。
 残っていてもいいが、帰ってもいい。本当にどうでもいい。



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