第19期 #17

正義の味方

 可奈子はフライパンを持って走っていた。走るのは得意だったから五分なんてたいした距離じゃなかったけど、紙袋に入れると走りにくいと思ったから、一人暮らしを始めるときに選び抜いて購入したフライパンを直接手にしていた。
 卵一個を割り入れると丁度良い大きさのフライパンバトンを、振り子時計みたいに動かしていると、自分が時間になって一秒ごとに進んでいくようだった。すれ違う人の中には遠慮もなく可奈子のバトンに視線を集中させる人もいたが、たいていの人は気づかずに通り過ぎていく。やっぱり時間になってる、と可奈子は思った。時間そのものは誰の目にも見えない。
 しばらく走るとほんとうに、可奈子は時間そのものになった。体に重さを感じない。呼吸が軽い。道行く人や風景が、電車の窓から見える景色のように可奈子の背後へ遠ざかって行った。代わりに、母の面影が後ろから追いかけてきた。

 一人暮らしを始めたのは三年前だった。
「家から大学に通えるのに」
両親には反対されたが
「どうしても一人で暮らしてみたいの」
と、可奈子が説き伏せた。いつまでも甘えているのは嫌だったし、早く親から解放されたいと思っていたからだ。念願叶った年の冬に風邪を引いてしまった。後から考えればたいした風邪ではなかったけれど、可奈子には不治の病のようにも思われた。なんとか母に電話をかけた。十分も経たないうちに、母が小さな土鍋を抱えてアパートの前に立っていた。蒸気穴から漏れる湯気が、母の姿を蜃気楼のごとく揺らした。
 実際には一時間近く待ったはずだった。たった十分なんて、空を飛ばなきゃやって来れない距離だ。熱と悪寒で朦朧としていた可奈子には、全く時間の流れがわからなかった。ただ、鮮やかだった母の登場が正義の味方みたいに感じられたのだ。時間を追い越すように早く来てくれた、それだけで、可奈子の風邪は吹き飛んだ。

 可奈子は走った。走っていると、自分が母と同じ正義の味方になっているような気がした。はっきりと告白もされていない高志のために、こんなにも一生懸命な自分を可奈子は笑った。実家から遠く離れて暮らしている高志だからといって、「卵焼きが食べたいんだ」と言われたからといって、フライパンひとつ下げて走っているなんて。

 勢いをゆるめない可奈子と共に時間が過ぎていく。

 吹きつける粉雪が足元を凍らせても、可奈子は走る。自分で選んだフライパンをしっかりと握りしめて。



Copyright © 2004 真央りりこ / 編集: 短編