第19期 #11

ふうせん屋

 ノックの音がしたのは、かれが机の上におかれている本のページをぱらぱらとめくっているときだった。どうぞと応えながら本をとじ、かれは立ち上がって、入ってきた女性に椅子をすすめた。女性が椅子の背にコートをかけて腰かけるのを待って、かれも椅子に座りなおす。
 「あのう、こちら風船屋さんでしょうか」
 女性は首をかしげるような、目をふせるようなあいまいなしぐさで尋ねた。
 「どちらでうちを?」
 かれの問いに女性は眉をよせる。
 「あの、笑われるかもしれませんが‥‥夢をみたんです」
 そのことばに頷いてみせると、勇気をふるい立たせるように女性はひざの上で手をくっとにぎりしめて続けた。
 「夢のなかで私、こちらで風船にしていただくんです。赤い風船です。風船屋さんが、私がしぼんでいるから空気を入れましょうとおっしゃって、あの、夢のなかのことでお顔はわからなかったんですけど、それで私のおなかの‥‥鳩尾のあたりに手をあてて、そうしたら私の体から風船が出てきて、いつのまにか私、風船になっていたんです。風船屋さんが風船をふくらませて私はいっぱいにふくらんで‥‥とても気持ちよかったんです」
 かれはじっと女性のことばを聞いていた。
 「夢のことだからと思っていたんですが、こちらのお店を見つけたので、もし私の気がちがっているのでなかったら、夢で見たように風船にしていただきたくて」
 「赤い風船ですね」
 「そうです」
 椅子にかけられている彼女のコートも赤い。かれは立ち上がって女性の傍に近付いた。肩に手をおいたその瞬間ぴくりとふるえた彼女がからだの力をぬくのを待って、手が飾り気のないシャツブラウスに包まれた腹にあてられる。妊婦の腹にふれるようなやさしさでそっとなであげ、鳩尾でかれの手がとまった。
 「きれい」
 かれの手の動きをじっと追っていた女性がためいきのようにつぶやく。かれの手には、女性のからだから覗いた赤い風船の口がのせられている。女性のからだがくたりとくずれ、彼女は風船になっていた。手のなかのしぼんだ風船をかれは、ゆっくりとふくらませた。きれいな赤い色が、すこしずつ大きくなってゆく。
 いっぱいにふくらませた風船の口をしばって、かれは胸のポケットから一本の針を取りだした。
 割れるその瞬間に、風船がかすかにふるえたようにかれには感じられた。

 彼が椅子の背にとり残されたコートを取りあげたときに、ノックの音がした。



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