第188期 #13

ムネモシュネ

 春のこと。陽の差す窓ガラスに頬をあてる。熱っぽくて暖か。ソファに座る。眠りに落ちそう。
 男友達から連絡が来た。家の近所の喫茶店で会う。
 彼が言った。
「昔の女が中絶していた」
「あなたの子供?」
 違うって。彼は痩せた胸の前で指と指を交差した。

 人生は大それている。彼は三七歳で性的に破天荒。私も以前に彼に襲われた。でも五年前の結婚以来対象外。彼とは小学校からの友人で、彼は二年生の時の転校生だった。
 私は言った。
「昔の女って?」
「八年前の、十歳下の大阪の子」
「誰の子?」
「上司」
「どうして二十代の女子はしくじるのかな」
「転ばないと覚えないからな」
 若さの言換は闇雲。

 私は忘れない。
 学生時代に彼が手を出した女たちの名前。眞緒。優佳。史帆。陽菜。菜緒。美玖。彩花。好花。社会人になってからの。愛萌。虹花。佑唯。莉菜。美波。冬優花。美愉。菜々香。梨加。理佐。葵。愛佳。奈那。詩織。
 彼は「お寿司」と宣言した。
 私たちはやはり小学校以来の友人が嫁いだ寿司店に入る。 
 昼酒のたしなみ。

 のれそれという透きとおった食べ物をぽん酢で食べた。
 彼が言った。
「穴子の稚魚」
「へえ」
「ろくでもない上司は泊めるのに、初フェラの男を拒絶する女」
「発言・地上最低」
 表も裏も一面緋色のお猪口を手に、彼は昔の恋人の話を続けた。彼女に慰めに会うことを提案したら断られたそうだ。
 彼は酩酊の吹き溜まりでくつくつと与太を流涎した。清浄な、子供時代からの友人が作った白木の食事場が汚される。私は彼の指先でもてあそばれる箸の先を眺めた。玉子焼をつまみに彼は言う。避妊しない男か。もぐもぐ。どうかを。日本酒ぐぐ。見抜く力を養う道のり。
 私たちはまだお寿司を一貫も食べていなかった。炭水化物を摂りいれずにだらだらとつまみ喰い。これだけでお腹いっぱいになり、もしや私たち二人は主役の一皿まで辿りつけないのかもしれない。せめて芽葱の握りを私は食べたい。
 私はお銚子を持った。彼はお猪口の酒を口に一気に流しこみ、空っぽの底を私に見せた。私はお酌をする。彼はまた飲み干す。
 彼は言った。
「しょせん哀しみは一人で処理するものだからな」
 酒浸りの例に漏れず彼にはねばった抑鬱の陰がある。
 彼はこのまま日の暮れるまで深酒した挙句の翌朝に、まんまと記憶を喪っているのだろう。
 私は、性獣という言葉を思い浮かべた。次にこう思った。決して私は忘れてやらない。



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