第187期 #9

灰かぶり

 待ち合わせは正午。
 あの人の好物はカボチャの煮物だ。イオンで映画を観てからカボチャを買って。私はガラスの靴を持ってないけれど、カボチャの煮物には少し自信がある。

 地下から地上へ出ると、目の前の風景が消しゴムで消されていくようにかすんでいった。全てが真っ黒になる前に私は手さぐりで近くにあった手すりに右手をのばしつかまった。一瞬でシャットダウンされると表現する人もいたが、私には白が灰がかって、やがてゆっくりと黒になることの方が多かった。
 目の奥がジンジンと響くが痛い訳ではない。
(しゃがんでしまおうか……)
 人通りはまばらであったが恥ずかしさの方が先にたち、私の意識とは無関係に手すりを握る手に力が入る。倒れてしまわないように膝を少しだけ曲げる。

 バスタオルを頭からかぶった妹が風呂場からリビングへ素っ裸のまま現れた。雫をたらしたその足はつま先立ちである。母と私に似ず、妹の身体はモデルのように細く、それでも彼女は立ちくらみなどしないと言う。きっと、父の血が濃く出たのだろう。特に手足の指などは私より彼女の方が父親そっくりに出来上がっている。
「テレビ、邪魔っ」
 手首だけ動かし、テレビの前をどくよう彼女に指図した私。
 これでも血を分けた姉妹なのか。私とは違うそのスレンダーなボディに、今は嫉妬の声などあげないでおこう。

 かすんでいたモヤが少しずつ晴れ、景色が通常の色彩に戻るのにそれ程時間はかからなかった。私はいつもの立ちくらみから立ち直り、そっと手すりから右手を離す。それから、膝を少しずつのばしていく。体温を感じ、一歩前進。また一歩、そして、また一歩を繰り返す。流れに乗った途端、目の前にポケットティッシュを差し出されてもタイミングが合わず、反射的に出した私の手は空を切った。気恥ずかしさから腕時計を見つめる。時間を確認するフリをする。何かを考えるフリをする。誰かを通り過ぎ、その場をないものにする。十二時二分前。見つめた手にはやけに赤黒い粉末が付着していた。
(さっきの手すりだ)
 戻って、他人のフリをしたら、もらえるかも知れない。どうしよう。もらっておくべきか。ポケットティッシュ。でも、やっぱりできない。でも、もらって手を拭きたい。いや、やっぱりできない。手の平を見つめる。やっぱりできない。
 広場。正午を知らせる鐘の音。赤サビはやがて灰となり、あの人と映画とカボチャ。いざ行かん。急げ私。



Copyright © 2018 岩西 健治 / 編集: 短編