第187期 #10
母が死んだ。名を呼ばれたような気がして病床にある母の口元に耳を寄せたが、母は長く息を吐いてそれきり沈黙した。耳をいくら澄ましても最後の言葉は聞こえなかった。
いつか中指の先端に痛みが現れた。痛みは片時も消えることなく苛み続け、定期的に激しく痛んだ。痛みはとても我慢できるようなものではなかった。痛みを終わらせるため中指を切り落とした。掴んだ道具が剪定鋏だと知ったのはその後のことだった。だが切断の後にあの痛みが残っていた。しくじってしまったのだ。今度こそはと痛みの発生源を突き止めて人差し指を落とした。あの痛みに比べれば刃が食い込む痛みなど物の数ではなかった。心地よくさえあった。こうして二本の指を失ったが、あの痛みはまだ残っていた。失ったはずの二本の指の先端に痛みが灯っていた。それならば、痛み中心の生活を心がけ、痛みを下敷きにした思考に切り替える選択もあったことを最後に知った。
「オハヨ、オハヨ」
声を掛けたのは少年だった。少年は首から虫籠を提げていた。少年に表情はなかったが、こういうときの経験から心配しているのだろうと推察した。だがそんな経験があったのか不明だし、ただの思い込みかもしれなかった。
「ウルサイ、ウルサイ」
実際に声を出していたのは虫籠の中の九官鳥だった。その後ろで母親が心配そうに少年の様子を窺っていた。母親は首を不自然なくらい捻り上げたままきちんと立っていたが、その顔は靄がかかったように滲んでいてよく見えなかった。少年が喫煙具を差し出した。一服すると痛みはみるみる遠のいていき、なんだかハッピーな気分を齎した。少年が母に倣うようにして空を見上げた。けれど空にあったものはもごもごと蠢く灰色の雲の畝あるいは何もない空間だけだった。
二人はいくつかの音程を組み合わせて意思を疎通させていた。
フンフン? フン。フンフーン! フーフーン。
食卓を囲む。母がフフンと音を出す。少年がスルーしているのでフフンと応えて醤油を掲げる。僅かに躊躇って母は醤油を受け取る。これはぽん酢のメロディーだったかと訝しむが結果オーライ。母は右斜め上に向いた口と思われる靄の歪みに器用に魚を運んでゆく。
失った指先には依然として痛みがある。悲鳴を聞きつけて母は生理痛薬を差し出す。服用するとたちどころに痛みが消える。鎮痛剤は幻肢痛にも効くのだ。聞き損ねた母の遺言もいつかこうして知るのだろう。