第186期 #2

おじあく戦争の後に

 4年に及ぶ戦争が終わった。
 南北に国境を接する国同士の戦争のきっかけを紐解くと、人類の歴史にはありがちな、実にくだらない理由で、初対面でお辞儀をするか握手をするかであったと言われている。戦争に勝ったのは、北のお辞儀をする国だった。端緒がどうあれ、戦争であるからには、死者がでる。それは、○○町2丁目の大野三郎さんが焼夷弾に巻き込まれ亡くなりました、ではなく、○○市死者32万人○○町死者3千人…という地名と数字の羅列だった。
 趨勢を決した梨礫ガ坂の戦いは、実際には双方の無能な士官と、記録から消し去られるどちらにも与しない偶発の市民蜂起により、勝敗がついた。市原拓哉はたまたま左眼と右手を失っただけで、生き残った。たまたま戦勝国の所属だった。野戦病院の簡易ベッドの上で、失くした右手の感覚を、残された右眼でぼんやり眺めていた姿を、慰問に訪れていた銃後婦人会のメンバーにちらと見られた。

我が軍神は、御身を銃弾とし、縦横無尽に敵陣を蹂躙された!今、犠牲となった尊き右手は、敵国とは決して和解せぬという、固い決意なのだ!!その崇高な精神に、私は涙し、勝たねばならぬと改めて誓った。

 写真付きでSNSにアップされたが、傷痍軍人など珍しくもなく、感傷的愛国精神についた「いいね」は、無感動な国民的義務でしかなく、銃後の戦意高揚とは程遠かった。この投稿が、掘り返されたのは、戦後五年が経ってのことだった。おじあく戦争の重要なターニングポイントとなった梨礫ガ坂の戦いを検証するさい、戦勝国としては、厭戦の市民蜂起とその虐殺は、黙殺せざるをえず(当然市民虐殺を知る者はまだ沈黙したまま生きていた)、かといって、梨礫ガ坂の戦い自体をなかったものとするわけにもいかなかった。戦勝国の戦後に必要なのは健全なる忘却ではなく、英雄の物語だった。史家はこの投稿を見つけたとき、天啓を得た思いだった。
 市原拓哉は、英雄となった。退役軍人会から、手の甲部分に軍旗が刻印された黄金の義手が贈られた。物語を一過性の流行でなく、歴史とするために、沈黙が求められ、従った。死後、市原は英雄から歴史上の人物となった。
 戦争の死者たちは、一様に地に返り堆積した。ざらざらした地表に残されたものたちは、変わらず握手をしたりお辞儀をしたりして暮らしている。



Copyright © 2018 shichuan / 編集: 短編