第184期 #9

 しいなのことをしぃと初めて口にしたのは亜子だった。しいなはそう呼ばれて初めて髪に櫛を入れた。三回梳くとさらさらになるよと教えたのは亜子だった。二人で並んで歩くとき、他人の視線がしいなを通り過ぎて亜子に注がれていると気付いたのはそれからのことだった。
 亜子はとび抜けて美しい少女だった。あるとき亜子はリボンのように髪を結わいた薄手のスカーフを見せびらかした。男の人に貰ったものだと告げられたしいなは、それを取り上げて三枚に引き千切った。亜子はそれをじっと見つめていた。
 しいなは亜子の家に招かれるようになった。亜子の両親は留守がちで、三回のコールで途切れる着信が合言葉だった。
 亜子の家では柱時計と前足のない三本足の猫がしいなを出迎えた。居間ではレコードがかかっていた。三拍で進行するその曲はワルツと呼ぶのだとしいなは教わった。二人は他愛もない会話を交わし、たまに化粧をし合って遊ぶこともあった。しぃに口紅を引いてもらうと気持ちいいと亜子は告げた。しいなは口紅を拭う亜子の指を口先で感じ、たしかに、と思った。
 今日は遅くまで遊ぼう、あるとき亜子がそう誘った。よく晴れた三日月の夜のことだった。オリオン座の三つ星が順番に輝いていた。亜子の身体からうっすらと煙草の香りが漂っていた。二人はいつものように口に紅を引いた。亜子は煙草を一本取り出して口に咥えた。フィルターに残る紅の跡を見てなんだかいやらしいねと言った。しいなが見つめる亜子の目がしいなを見つめていた。
 しいなは亜子に手を引かれ、押入れの奥の明かりの届かない暗がりへと連れていかれた。押入れの口は亜子に閉じられた。
 亜子が煙草に火を点けると、闇の中に観音開きの仏壇と供物と花が浮かんだ。香炉には吸殻が二本突き刺さっていた。しいなは口元に煙草をあてがわれ、小さく煙を吸い込んだ。煙草が唇から離れる一瞬、亜子の指先が触れた。
 雨降り蛞蝓しいな目くじら。ラメ好き椿象亜子から煙。喫煙って口で契るって書くんだよ。そうなんだ。今の私たちみたいだね。ちぎるってどういう意味?
 六時を告げるはずの鐘は三回打ったところで途切れた。レコードは止まっていた。猫が赤子のように悩ましい三度目の鳴き声を上げた。亜子は煙草を香炉に押し込んだ。閃く火に朽ちた花が照らされた。しいなは胸元に顔を寄せる亜子を見た。亜子はシャツの釦を口に咥えてふたつみっつと引き千切っていく。



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