第183期 #12

愛おしい人

郵便受けに何冊も突っ込まれた新聞と溢れ出ているDM。それだけで、そこには暫く誰もいないことを物語っていたはずだ。そして、この時間帯に玄関の鍵を開けた向こうが暗いなんてことは、連絡もなしに今までなかった。それでも、この事態は想定していなかった。
1週間の出張から帰って来た夜、ダイニングテーブルの上にあった紙切れを見て、俺は愕然とした。

さようなら
私の物は全て処分してください

紙切れにはそれだけしか書いてなかった。慌てて俺は彼女に電話する。しかし、「おかけになった電話番号は現在使われておりません」とお姉さんが無機質に答えるだけだった。一体いつから電話が繋がらなくなっていたのだろう? 最後に電話をしたのはいつだ? 毎日電話をしていなかったことが悔やまれる。
同棲中の彼女にまさか出張中に出て行かれるとは思ってなかった。

とりあえず、俺は彼女のいないまま生活を続けた。理由もわからず急に出て行かれて、物は全て処分していいと言われたからと言って、はいそうですか、とはいかない。もしかしたら、戻ってくるかもしれないではないか。
そう思って生活を続けてどれくらいが過ぎただろうか?
一緒にいた時間、一緒にいた空間というのは酷なもので、彼女がいなくなってもう大分経つにもかかわらず、ふとした弾みで彼女を思い出す。別れ方が衝撃的だったせいか、俺は彼女の思い出から抜け出せずにいた。
結局彼女はもうここには戻ってこないのだと頭では理解していているのに、気持ちがそれを受け入れられない。それだけ彼女のことが大切だったのだ。

ある日、俺は彼女を見かけた。大通りを挟んだ向こう側に彼女がいたのだ。友達とショッピングを楽しんでいるようで、キラキラしていた。俺と居た時はどうだったろう? と考えてしまう。
あんなふうに笑っていただろうか?
とにかく彼女は今、幸せなのだろう。俺がいつまでも彼女にしがみついていてはいけない気がした。

俺は引っ越しをすることに決めた。彼女の荷物もそうだが、彼女との時間を共にした家具も全て処分した。荷物が無くなった部屋を掃除していると、やはり思い出すのは彼女のことだ。それだけ好きだったんだな、と改めて思う。しかし、今の彼女の幸せを思えば、俺にいつまでも想われているのは気持ちよくはないだろう。
俺は彼女と区切りをつけるのだ。
さようなら、俺の愛おしい人。
俺は玄関の鍵を閉めた。



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