第183期 #10
文字を獲得するところから、かれは始めた。最初に覚えたのは、それ単体では意味をなさない文字だった。ひと文字ひと文字、かれは丁寧に習得していった。意味は必要なかった。何らかの形状をもった文字というもの、かれにとってはただそれだけでよかった。
やがてかれは気づいた。かれが習得した文字は他の文字と組み合わせることによって、何らかの意味をもった言葉となることを。かれは貪欲にその組み合わせの発見に没入した。最初はふたつの文字でよかった。それだけでも十分に意味を発する言葉は獲得できた。けれどもやがて、それ以上の文字の組み合わせにより、さらに難解な意味をもつ言葉になることに気づいた。かれは文字の組み合わせに没頭した。とりつかれていたと言っていい。数え切れない文字の山に埋没し、そのなかから意味を習得して自分のものとしていった。今やかれ自身が文字と言ってよかった。あるいは、かれは言葉であった。かれは自身を言葉の体系として組み立て直し、確固たるものとなった。かれは栄華の頂点にあった。
やがて、かれは老いと直面した。自身の表面から内部から、堅固に組み上げてきた言葉が文字が、枯れ葉のように剥がれていく。かれはうろたえた。自身から剥がれ落ちた言葉を文字を自身に再度定着させるために、かれはそれを糊付けした。かれの文字は言葉はそれとともに躍動感をなくし、そしてやはりひとつひとつ剥がれ落ちていった。
いま、かれは最後の文字とともに在る。かれはその文字がそれ単体では意味をなさないことを、けれども、やはり意味をなすものであることを知っている。その文字はかれ自身を意味することはなく、やがて、その文字すらもかれから剥がれ落ちていくことになるだろう。かれはすでに叙述するだけの言葉をもたず、原初に戻りつつあった。けれども、一度文字の洗礼を受けていたかれにとっては、それは同じ様相ではなかった。かれはもう獲得の味を覚え、そしてそれをすべて失ってしまったのだ。
ここにひとりの若者がいる。若者は老いたかれの前に座し、かれの失ったものを学ぼうとしている。かれは若者に言うべき言葉をもたない。すべてはすでに終わってしまった。
若者はかれの前に座したまま、かれから剥がれ落ちた最後の文字を拾い上げ、丁寧にそれを函に入れ、去っていく。