第182期 #8

あなたになりたい

 思えば文学なんて、暇を持て余した貴族の道楽、だって、そんなのはわかっているのよ。馬鹿にしたように「文学部の人はみんな小説を書こうと思って大学に入ったの?」なんて聞かないで。そうよ。文学部の人間はすべて小説を書くの。どれだけ時間がかかっても小説を書くの。それだけをする学部なの。物語を作るの。自分自身が原稿用紙だ、なんて平気で言ってのけるの。どれだけ時間がかかってもいいの。自意識が、過剰なの。救われないわ。つるつるの紙を触りながら、真っ白な画面をスクロールしながら、網膜から入ってくる光景があなたに見える? 陳腐な感動や映像ではないの。私がたとえば白い素肌をあなたにさらけ出したとしなさい。あなたは全く興味のなかった私の体をきっと思うでしょう。私は隠さずすべてをあなたに見せよう。おとなしそうな私に秘められた激情などをひとしきり想像してごらんなさい。そしたら私があなたが小説であることを証明してあげる。あなたの想像力を食らいつくして過呼吸をするわ。どれだけ時間はかかってもいいの。だから私は長生きをしなければならないの。考える時間がいるの。かみ砕く時間がいるの、咀嚼する時間がいるの、短編小説ではないの。だから私は長生きをしなければいけないの。卒業するし、就職するし、結婚も、恋愛も、女子会も、出産もする。だけどそうすればするほど、自分の輪郭がはっきりしてくるの。夫の腕に抱かれながら、今度こそは、と思って目を瞑るの。だけど明け方になると私はぼんやりとしたオデコから飛び出すくらいの自意識で目覚めるの。ああ、あなたになりたい、私はあなたになりたい。何を考えているの、ねえ、あなたの首筋にあなたの手で触りたい。あなたの体臭をあなたの鼻で嗅ぎたい。あなたの思っていることをあなたの頭で考えたい。そうすると私はもういなくなってしまう。書きかけの小説はそこで脈絡もなく終わってしまって、つるつるだった紙面も腐って、私は世界にとらえられることができて、あなたになる。グッバイ私の自意識。ずっと考えていた爆発しそうな思いは何事もなかったかのようにあなたになる。そうすれば私は小説などもう書かずに済むし、やっと卒業もできる。ねえ、そこの人、あなたもどうせ、死のことについて、考えたりするのでしょう? 私はあふれんばかりの自意識であなたの考えていることを代わりに考えます。それが嫌なら、私を早くあなたにしてくれ!



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